第7話 アナスタシア 欠落した記憶





「ここは相変わらず風が強いな」

 アナスタシアは外に出ようとしたが、風にされて扉が開かなかった。

「アナスタシア様、お目覚めですか?」

 ヒカルが外から手伝った。二人してようやく扉を開く事が出来た。

「いい天気のようだが、嵐でも近づいているのか?」

 強風に踊る黒髪を押さえながら、アナスタシアは良く晴れた空を見渡した。

「いつもこんなものですよ。風が強い方がおれたちにはありがたいです」

「どうしてだ?」

「風が穏やかだと、昨日のようにアスカがやって来て、村に火を放つんです。イズモ軍の兵糧を断つために」

「風がない時に火を放つ?」

 兵法の常道では風がある時こそ火計の好機なのだ。

 ヒカルは首を傾げるアナスタシアの仕草でそれを理解したようだ。

「カイザキの東の直ぐ向こうは女王国・アスカなんです。イズモ国とアスカの国境は天然の要塞となる険しい山々があって、そこに吹く風はこんなものじゃありません。強い風が山にぶつかって、頻繁に竜巻が起きるんです」

「早い話、普段の風の強い日は山岳を超えて進軍出来ないと言うのだな」

 アナスタシアの幼少の頃は、エルミタージュでもこの様に強い風が吹いていた事を思い出した。

 ある時、いきなりと言った形で風が穏やかになり天災も起こらなくなった。

(何か、切っ掛けがあった筈だ……。それはわたしにとっても大切な何かだ……)

 ここにもアナスタシアの記憶の欠落が見られた。

 ともあれ、今優先すべきは現状把握だ。


 アナスタシアは昨夜襲撃を受けた集落へ下りながら、この地に転生した自身の経緯いきさつを要約してヒカルに聞かせた。

「アナスタシア様は、やっぱりおれたちを助けるために使わされた、剣聖様だ」

 ヒカルは興奮気味にそう言った。

 剣聖とは、窮地に追いやられたイズモ国を武を以て救済する、この地で語り継がれている伝説の英雄だとヒカルは語った。

「剣聖は女性なんです。武の女神とも呼ばれています。間違いなくアナスタシア様のことです」

 と言いながらヒカルは少し顔を赤らめながら、アナスタシアを―――いや、風に舞う短いスカートとなったその下半身を時々見ていた。

 視線に気付いてアナスタシアはむき出しの太腿を両手で隠した。

「キミも男なのだな」

「ごめんなさい!」


 間もなく離れ離れになっていた人たちが集まって来た。

 昨日は意識していなかったが、この土地の者はいずれも黒髪・黒瞳の持ち主だった。

(もしかしたらここは……わたしのお爺さんたちがやって来たと言う、東の地なのかもしれない)

 一瞬そんな淡い期待を抱いた。


 しばらくその場を離れていたヒカルが衣類を持ってアナスタシアの傍に戻って来た。

「姉ちゃんのお古でごめんなさい」

 ヒカルは数着の衣類を持っていた。

 アナスタシアは、上着は何でも良かったが、その中に唯一紛れていた男物のパンツを手にした。

「スカートはわたしには似合わない。それにパンツの方がいざと言う時、動きやすいからな」

 女性の平均的な身長のアナスタシアだったから、男物のパンツは少し裾が長かったし、ウエストも緩かった。

「あの、剣聖様」

 アナスタシアより少し年上の若い女が、恐る恐る声を掛けて来た。

「わたしは縫い付けを生業としていますから、よろしかったら寸法合わせいたしますが……」

「ありがたい。よろしく頼む」

 アナスタシアが笑顔を向けると、女も満面の笑みを浮かべて何度もお辞儀をした。

 取り敢えず村娘と同じスカートに着替えた所へ、昨日の連中とは服装の違う小隊が馬に乗ってやって来た。

「剣聖が現れたと聞くが、まことか」

 いかにも威圧的な物言いだった。

「はい。あちらにいらっしゃるお方が剣聖様です」

「あれか」

 近付いた小隊長と見られる三十歳くらいの男は、馬上にてアナスタシアを見降ろした。

「貴様が剣聖だと?」

 アナスタシアも鋭い眼光で返した。

「どこかの国の王女様のような端正な顔立ちと、そのような華奢きゃしゃなな体つきで剣聖を騙るなど、以ての外だ」

「わたしは何も騙っていない。そもそもわたしはこの土地の者ではないのだ。剣聖など知る由もない」

「けど村の者は、貴様を剣聖と崇めている。昨日の襲撃はこの村だけに限っていた。アスカの手の込んだ茶番劇に村人が騙されているだけなのかもしれない」

「あのぉ、コージ・イソベ大尉殿」

 と中年の男がアナスタシアとコージ・イソベの間に立った。昨日から見るに、先導役を担っているこの男は集落の長なのかもしれないと思った。

「この御方は、一人で三十人ものアスカ兵を倒したのです。敵と内通したお人ではないと……」

「それが芝居だと言っているのだ!」

 コージは強い口調で言い放ち、道端にむしろを掛けられた物言わぬアスカ兵達に目を向けた。

「騙し討ちは奴らのじょうとう手段。仲間の命を絶ってまで貴様たちを欺こうとしているのかもしれないんだぞ」

「そんなことないよ!」

 とヒカルが叫んだ。

「わざと殺されるなんて、そんなの絶対ないよ」

「女王・ヒメミコに対するこいつらの忠誠は、我々には理解できないものがある。ヒメミコのためなら、大した腕もないその女に斬られて死ぬくらいのこと、平気で出来る連中なんだよ」

「大した腕もないだって? アナスタシア様の剣技はまさに剣聖様だよ。本物だったよ」

「ほお。おまえがそこまで言うのなら少しは出来ると見た」

 コージは下馬するとアナスタシアに鋭い眼光を飛ばした。

「一手ご教授頂けるかな。剣聖殿」

「わたしは構わないが、そなた死んでも知らないぞ」

 気負いもなくそう言うアナスタシアに、コージは怒りをむき出しにした。

「言ってくれるじゃねぇかよ!」

 口調がゴロツキのように変わった。

「ま、待ってよコージ大尉。本当に強いんだよ、アナスタシア様は」

「ちっ。おれの心配をするな!」

 コージは剣を構えるとアナスタシアに斬り込んだ。

 アナスタシアは一合・二合・三合とコージの太刀を受けて、その力量を見極めた。

(悪くない。一般的なA級シュバリエと言った所か)

 でも……。

(わたしの敵ではない)

 アナスタシアはひねりを加えた下段からの振り上げで、コージ―の剣を弾き飛ばして、その首に刃を当てて止めた。

「大尉殿!」

 数人の部下が馬を飛び降り駆け付けてきた。

「手出し無用!」

 部下を制した後、コージは膝を落とすと、昨日の村人たちのように、額を地面に押し付けた。

「参りました!」



 勝負に負けたコージ―は、てのひらを返した様にアナスタシアを受け入れた。

(これがこの国のスタイルなのだろうか?)

 武芸を重んじるのは決して悪くないが、それのみで人格まで認めてしまうその態度に、アナスタシアは危ういものを感じてしまった。

 とは言え、最初無礼だったコージもアナスタシアを認めた途端、先程の敵意が嘘のように、満面の笑顔を見せていた。

「軍閥に属さないおれは、武芸だけで大尉になったのです。なのに、まさか一撃で仕留められるとは思いませんでした。これでもおれは、ヤマタイ連合共和国の武芸大会に出場するイズモ国代表の五人の一人なんですよ。そこのボウズ―――ヒカルはなかなか筋が良くてね、おれも十回に一回は負ける程なんですよ」

「十回に一回じゃないよ。八回に一回だよ」

「そうだったっけ?」

「そうだよ。忘れっぼいな、大尉は。おれは覚えているよ」

 そんな二人のやり取りを見ているとアナスタシアは穏やかな気持ちになった。

 ヒカルのように言葉遣いは荒くないが、ハルも兄と慕う誰かとこんな風にじゃれ合っていたのを思い出した。

(それは誰だっただろう?)

 霞が掛かったようにその人物の顔も名前も出てこない。だが、確かに存在していた。

(忘れてはならない大切な人だったような気がする)

 ハルと言えばアンチ魔法のエリーゼがいた。アナスタシアの剣のライバル・ハモンドや侍女長のルーシー。ゲルマン王国で知り合った二人のバルキュリアやリンダがいた。

 契約魔法でバレッタに従わされていた、転移魔法のギルバートとアルビオンの王族で通信魔導師のビンセントもアナスタシアに帰順した。

 あの時、ゲルマン王国のバレッタがアナスタシアの命を狙っていた。

(その筈だ……)

 それで間違いない筈なのだが、何処か違和感があった。

 バレッタがペトロの手中で動かされていたのは間違いないが、それとは別にバレッタ自身が向けていた憎しみの矛先は、本当にアナスタシアだったのだろうか?

 アナスタシアではなく誰かではなかったのか? そんな気がしてならないのだ。

(わたしは個人的にバレッタ王女に恨まれる筋合いはなかった筈だ)

 前王であるリーデルフ・ハイネンを殺された復讐と言っていた。

(でもわたしはその件に一切かかわっていない)

 リーデルフを殺害したのは、アナスタシアの隣りにいた筈の誰かだ。色んな意味でライバルと感じた相手だったと言う微かな記憶だけが残っていた。

(記憶が欠落している人物は……もう一人いる)

 しかもそれは間違いなく女性だ。

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