第94話 危険な恋はベルモットの香り

「うぇ~い、おねぇちゃぁぁん」


「ちょっ、ちょっとアンタッ! 何してくれてんのよっ! この春物のコートいったいいくらすると思ってんの! アンタの安月給じゃ、死んでも買えない代物なのよっ!」


 薄暗い繁華街の路地裏。

 急に抱き付いて来たのは、足元すらおぼつかなくなった酔いどれ中年オヤジだ。

 私から頭ごなしに叱り飛ばされ、目を白黒させながらも、そのまま何事も無かった様に立ち去ろうとする。


「ちょっとアンタ! 待ちなさいよっ! あぁっ! アンタそう言えば、昨日も私にぶつかって来たわよねっ! そうでしょ! そうなんでしょ! ねぇちょっと、顔見せなさいよっ!」


「うぇぇい! おねぇちゃん、またねぇ!」


 いったい何なの、ホントにもぉ!


 あぁ、やだやだ。

 これだから酔っ払いは嫌いなのよ。

 自分の酒量すら見極められないような男が、外で酒なんか飲むんじゃ無いわよ。


 などと思う反面。

 そんなどうしようもない男たちに愛想を振りまき、大金を巻き上げているのは、いったいどこの誰なのか? という話だ。


あねさん、ダイジョブッスか?」


 少し遅れて、スカジャンを着た若い男が、私の元へと駆け寄って来た。


 遅いっ。

 大体そんな離れた所にいたら、私を守る事なんてできないでしょ。

 ほんと、これだから最近の舎弟若い男は使えないって言うのよ。


 そう言えば、前の舎弟男の子は、何かと気の回る子だったのよね。

 確か名前は車崎くるまざきくん、だったかしら。

 仕事の関係で、どこかの店を任される事になったとは聞いていたけど。

 渋谷の……なんて店だったかなぁ。

 まぁ、店の名前なんてどうでも良いわ。

 そんな事より。


「なにボーっと突っ立ってんのよっ、早くさっきの中年オヤジ捕まえて、身ぐるみいで来なさいよっ!」


「え? 身ぐるみぐんスか、マジそれパねぇ」


 アンタ、何語しゃべってんの?

 なに言ってるのか、全然意味わかんない。


「グダグダ言ってないで、早く行きなさいよっ! 私のコートが中年オヤジの汗で汚れたのよっ! クリーニング代だけでも五万や十万じゃ収まらないわ!」


「ソッスねぇ。そりゃマジカンベンって感じで」


 だから、アンタ、どこの国の人間よ。

 ちょっと日本語話しなさいよ。

 って言うか、意味通じてるの?

 早く行けって言ったら、すぐ行くもんでしょうが!


「ちょっとアンタ。何してんのよ。とっととあのオヤジの後を追いなさいって言ってんの! まだ分からないのっ!」


「うえぇぇ、でもッス。俺が目ェ離すと、あねさんすぐにどっか行っちゃって、俺、また若頭カシラに叱られるんスよぉ。ホント、マジヤベェんス。だから……」


 ――ボクッ!


 私のピンヒールがスカジャン野郎のみぞおちに炸裂さくれつ


「ガハッ!」


 無防備な腹を思いきり蹴りつけられ、若者は体をくの字に折り曲げたまま、ひざからその場へと崩れ落ちてしまった。


「赤くは……ないわね」


 吐き出したのはおそらく胃液だろう。

 血反吐ちへどでなかったのは、不幸中の幸いだ。

 さすがに入院するほどのケガを負わせたとあっては、後から私の方が若頭アイツに叱られてしまう。


「アンタ何言ってんのか全然わかんないのよ。とにかくアンタはあの中年オヤジから金を巻き上げてくればそれで良いのっ。それが終わるまで、私の前に顔を見せるんじゃないわよっ!」


 私はうずくまる男の肩口を、ピンヒールのかかとで数回踏みつけた後、ネオン輝く表通りの方へと歩き始めたの。


 はぁ……ホント最悪。

 なに? あの中年オヤジ。

 絶対に昨日ぶつかって来たヤツと同じに違いないわ。

 今度会ったらただじゃおかないんだから。

 それにしても、あの中年オヤジ、なんか人をイライラさせるのよね。

 言葉遣いなのか、それとも顔なのか?


 えぇぇい! そんな事、どうでも良いわ。

 とにかくっ。

 それもこれも、あのが全然言う事を聞かないからこんな事になるのよっ!

 だいたい若頭アイツもアイツよ。

 好き勝手に新しい女に手ぇ出してさっ!


 舎弟の一人を思いきり蹴飛けとばした事で、このイライラも少しは落ち着くかと思ってたのに。

 それでも、イヤな記憶がよみがえる度に、腹の奥底からドロドロとした何かが湧き出して来るのを止める事が出来ない。


「あぁ、ホントむかつくっ!」


 そんな想いを抱えたまま。

 私は表通りへと一歩踏み出したのよ。


 ――パパァン! ブロロロロ……


 眼前に広がるのは、大都会のきらめき。

 こんな深夜にもかかわらず、多くの人と車が行き交い、まさに不夜城と言うにふさわしいこの街。

 そんな種々雑多な喧騒けんそうが、私の体を優しく包み込んで行くのが良く分かる。


「はぁ……これよ……これ」


 さっきまでのアノ辛気しんき臭い静けさが、まるでウソの様に感じられる。


 高校を卒業し、上京してからはや二十年あまり。

 私はこの街と共に過ごして来た。

 最初スタートは、友達の紹介で始めたガールズバーでのアルバイトだった。

 水商売をする事自体、抵抗が無かったと言えばウソになる。

 ただ、高校を出たばかりの娘が一人で生きて行くには、それぐらいしか稼ぐ方法は無いと思っていた。

 この歳になってみれば、もっと他の方法だってあったのに、とも思わないではないが……まぁ、仕方が無い。自分で選んだ道だもの。


 もともと社交性があり、多少きつめの目元ながらも、化粧映えする顔に生んでくれた親には感謝しかない。

 そう言う意味で、水商売は私の天職だったと言えるだろう。

 なにしろ、化粧の腕前も上がって多少垢抜あかぬけけて来た頃には、表通りを十メートルも歩くだけで、数人のスカウトに声を掛けられるぐらいにはなったのだから。


 ここで私は、見慣れた雑居ビルの前で、ふとその足を止めた。


 今日、若頭アイツは来ない。来るならもっと早くに連絡が来るはずだ。

 それに、ここ最近変な中年オヤジに絡まれて、ちょっとムシャクシャしているのも事実。

 こんな気持ちを抱えたまま、ひとり寂しくだだっ広いベッドで眠るぐらいなら、いつもの小遣こづかい稼ぎをしてみるのも一興だろう。


 私は誰かに導かれるかのように、雑居ビルの地下へと続く階段を下りて行ったのよ。


 ――キィ……カロンカロン。


 軽やかな鈴の音。

 そして、軽やかなジャズの調べが、私を優しく迎え入れてくれる。


「いらっしゃいませ」


 私に気付いたマスターが、少しはにかんだような笑顔を浮かべながら、挨拶をしてくる。


「コートをお預かりいたします」


 横から声を掛けて来たのは若いボーイだ。

 私は無言のままうなずくと、そのボーイは流れる様な手つきで私のコートを持ち去って行った。


「どうぞ、こちらへ」


 十人程が座れる広めのカウンター。

 その一番奥の席。

 ココが私のお気に入りの場所だ。


「ありがとう」


 当然。

 感謝の言葉を返す時には、満足気な笑みを加える事も忘れない。

 これが大人のマナー、と言うものだろう。


「お待たせしました。マティーニです」


 正直、ぜんぜん待ってなどいない。

 黙って席に着くだけで、いつものカクテルが目の前にサーブされてくるの。

 私はそんな心地ここち良い時間の流れルーティンを楽しみつつ、再び笑顔でうなずいてみせた。


 さて、準備は整ったわ。

 早速ゲーム開始と行きましょうか。


 ゲームのルールは至って簡単。

 私がこのマティーニを飲み干す間に、いったい何人の男が私に声を掛けて来るのか。

 ただそれだけ。


 戦績は……。

 もう十年も前から数えるのを止めてしまったし、最近ではルールについても少しだけ変更を加えている。

 少しだけ、少しだけよ。本当に。


 それはそうよ。

 私はこう見えても、アラフォー。

 そうよ、アラフォーなのよ。

 いくら世間様から美魔女と呼ばれていても、寄る年波には勝てないって事なのよね。

 あえて自分自身をフォローするとするならば。

 ここまで完成された女に声を掛けるって言うのは、相手の男にしてみれば、かなりのプレッシャーがあると思う訳よ。 

 そんじょそこらの男程度じゃ、私とは全く釣り合わない。

 とても声を掛けるなんて、出来ようはずもないわ。

 まぁ、歳って言うより、ソッチの理由が大半なんでしょうけど。 


 などと考えている間に、迂闊うかつにも一杯目のマティーニを飲み干してしまったわ。


 そうよ、そうなの、そうなのよ。

 実際問題、私の飲むスピードが速くなった事も、の一つだと言えるわよね。

 こればかりは仕方が無いわ。

 不可抗力って事。

 だから、昔はマティーニ一杯を飲み干す間に……ってルールにしてたんだけど。

 最近では三杯目まで延長できる事にしたの。

 そうよ、だってそうだもの。

 これは、仕方の無いルール変更なのよ。

 だってこの程度のカクテル、あっと言う間に飲み干してしまうんですもの。


 私は静かにマスターの方へと視線を送ったわ。

 でも、これって少し無粋だったかしら。

 なにしろマスターの手元には、既に新しいカクテルグラスがしっかりと用意されていたんだから。


 マスターが新しいマティーニを準備する間、私は店内の様子を何気に確認する事にしたの。


 テーブル席にいるのは、男女のカップルが二組に、男性だけの二、三人のグループが三組。

 カウンターで飲んでいるのは、どこかの老紳士に派手な化粧の女が一人。

 恐らくクラブのアフターかなにかでしょうね。

 この二人は除外っと。

 更にその奥には……メガネをかけた男性客が一人。

 なんだか暗そうな男ね。あの男もパス……かな。


 うぅぅん。

 今日の手札は、あまりパッとしない感じ。

 ターゲットとしては、テーブル席の男性グループなんだけど。

 流石に全員をお持ち帰りする訳にも行かないしぃ……。


「お待たせいたしました」


 そうこうしている間に、マスターの手自らサーブされて来た二杯目のマティーニ。

 そのカクテルグラスの横には、白い小さな紙片が添えられていて。


 ん? メッセージカード?


「一杯だけ、ご一緒しませんか?」


 ふぅん。いまどき珍しい。

 古風な事をする人もいるものね。


 多少いぶかし気にあたりを見回してみれば、カウンターの端で飲んでいた少し暗そうな青年が会釈してみせる。


 うぅぅん。

 どうしようかしら。

 ストライクゾーンでは無いけれど。

 最近ではめずらしい、一杯目でのなのよねぇ。


 別に焦っている訳では無いし、もっと別の良い男が言い寄って来るのを待つ事も出来る。

 それに、仮に断ったとしても、メッセージカードでのやり取りだけであれば、公然とフラれた訳ですらないし。

 相手方の自尊心を傷つける事はあっても、対外的なプライドを傷付ける事にはならないわよね。


 多少後ろ髪を引かれる想いがあるにはある。

 だけど……やっぱり、お断りさせていただこう。

 二十代の小娘じゃあるまいし。

 こんな所で妥協してしまっては、女の沽券にかかわると言うものだわ。


 そう思い定めて、マスターへ目配せしようとした矢先。


「つれないですね。僕にグラス一杯分の猶予ゆうよも与えて下さらないなんて……」


「あぁ、いいえ、そう言う訳では……」


 え? いつの間に?

 気付けばあの暗そうな青年が、私の隣の席へ座ろうとしているではないか。


 店側や相手の承諾もなく、座席を移動するのはマナー違反だ。

 特に女性客の隣へ勝手に移動して来るなど論外と言える。


 私は少し抗議めいた視線をマスターへと向けるが、マスターの方は依然優し気な笑みを浮かべたまま。


 何? どう言う事?

 この人がマスターのおススメって事なの?


「突然すみません。私、こう言う者でして」


 青年はスツールに腰掛けるなり、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出すと、テーブルの上へと置いて見せる。


 ん? 医療法人針原クリニック……副院長?

 ほほぉ、上玉やんけ。


 私はマスターに向かって、即座に承諾の視線を送ったのは言うまでも無い。

 もちろん、満面の笑みを添えて、だ。


「お医者様……で、らしたんですね」


「はい。西東京の方で小さな個人病院を経営しておりまして」


「はぁ、個人病院を……」


 個人病院か。

 しかも病院名と同じ苗字に、副院長。

 こりゃ、二代目ね。

 それに名前が〇〇病院じゃなくて、クリニック。

 確か医療法では、ベッド数が二十床未満の場合は診療所扱いになっていて、〇〇病院と言う名前は名乗れなかったはず。クリニックだって同じで診療所扱いよね。

 って言う事は、規模もピンキリ。

 はてさて、金持ち医院のドラ息子か、それともオンボロ診療所の跡継あとつぎか。


 そんな事を思いながらも、ふと彼の左腕に注目。


 はいはいはい。

 フランクミュラーね。しかもコンキスタドール。

 いかにもな選択ではあるけれど。なかなかに遊び心もあるようね。


 この商売を長く続けていると、こう言った小物を見る目も肥えて来ると言うものだ。

 どうやら金持ちのボンボンである事は間違い無いらしい。


「それじゃあ、奇跡的な二人の出会いに乾杯でもしますか?」


「えぇ、そうね。是非そうさせていただくわ」


 カクテルグラスを掲げ、見つめ合ったまま軽く会釈えしゃくをする二人。


 喉を通る爽やかな苦みに、ドライベルモットのかおりが優雅ゆうがただよう。

 火照ほてり始めた体は、決してお酒の所為せいだけでは無いはずだ。


 さて、この男。

 いったいどうしてくれようか。

 末永く吸い上げるのか?

 それとも。

 今宵こよい一夜で、しぼり尽くすか。

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