第98話 紫条院春華、酔っ払う


「あははははー……なんだかぽーっとしてふわふわして、すっごくいい気分ですー……」


 浮遊感に溢れた様子で、紫条院さんが呟く。

 赤く色づいた顔、とろんとした瞳、若干呂律が怪しい喋り方――どこをどう見ても完全に酔っ払っている。


「しょ、正気に戻れ紫条院さん! 今の自分のおかしさに気付いてくれ!」


 俺は顔を真っ赤にして焦りながら、理性を総動員してそう呼びかける。

 何せ、今俺は現在進行系で紫条院さんに抱きつかれているのだ。


 今までも紫条院さんと身体的接触はあったが、それはいずれも紫条院さんの無防備さや事故などが原因でそうなったという偶発的なものだった。


 だが――今回のこれは、紫条院さんが能動的に俺を抱き締めているのだ。


 いくら理性が溶けてしまっているせいだとしても、他ならぬ恋い焦がれる少女の意思による抱擁は今にも俺の心臓が破裂してしまいそうな破壊力であり、こっちの思考力も別の意味で消し飛んでしまいそうだった。


「あはははは、にゃに言ってるんですかにーはみゃ君! 私は別におかしなところにゃんてありませんから! ふふふふ……綿飴になってお空ぷかぷかぁ……お風呂に浮かぶアヒルさんもぷかぷかぁー……」


(い、いかん……! マジで理性が残ってない……!)


 数多の酔っ払いを見てきた俺の経験上、言ってる事がよくわからん時はこっちの言葉もあまり通じていないケースが多い。


 つまり、相当に出来上がっているという事であり、正直なところ俺一人では手に余る状態だが――


「うおおおおおっ! 新浜ぁ! 夏の海でハグとか羨ましいからくたばれええええ! でもそれはそれとしてよがっだなあ新浜ああああああ!」


「あははははははは! 春華が攻め攻めです! そこですそこぉー! 童貞なんてちょっとしなだれかかってやれば開幕十割KOですってぇ! ラブコメ漫画にもそう書いてありますぅー!」


「うひゃー! やれやれ春華ー! そのズルいボディで一夏の思い出がアバンチュールでサマーフェスティバルだー!」


(だ、駄目だ……! どいつもこいつも使い物にならねえ……!)


 銀次、風見原、筆橋の三人は依然として思考能力が著しく減退しており、さっきからアホな事しか言えてない。


 飲んだアルコール量は少ないはずなのに未だに誰もが赤ら顔であり、居酒屋で深酒したサラリーマンのように、俗世における全ての苦悩から脱却したかのようにはしゃぎまくっている。


「と、ともかくちょっと離れてくれ! な!」

「あ……」


 ふわりと薫る少女の甘い香りと、俺の胸板に触れている二つの信じられないほどに柔らかい感触。その他諸々の要素によるゼロ距離の魅力という暴力で俺の脳が沸騰する前に、やや強引に紫条院さんを引き離す。


「うう……離されてしまいましたぁ……やっぱり、海ではしゃぎ倒して海水臭くなった女の子なんかがくっついたら嫌ですよねー……」


「へ!? い、いや、聞いてくれ。紫条院さんは気付かない内にアルコールを飲んでしまっていて、今ちょっと行動が変に――」


「うふふ……いいんですー……。どうへ私なんふぇ、今まで友達が殆どいにゃかった寂しい女子ですしぃ……他人から詰め寄られるたびに泣きたくなってしまう弱虫でぇ、いつも新浜君にお世話になりっぱにゃし……! しょせん夏の海辺が似合わにゃいジュースの空き缶みたいな女なんですよー……」


(なんか疲れたOLみたいな事を言い出した……!)


 さっきまで上機嫌だったのに、紫条院さんは突如どんよりした顔でネガティブ全開でブツブツと自虐に走り始めた。

 酔い方は人によって様々だが……どうやら紫条院さんはハイテンションとローテンションの振れ幅が大きいらしい。


(し、しかし、どうするんだこれ!? どうやってこの場を落ち着かせればいいんだ!?)


 俺以外が全員酔っ払ってしまったこの状況では、唯一の素面である俺はアウエイ感がもの凄い。やるべきことはただ単に皆を落ち着かせて酔いを覚まさせるだけなのだが、この状況だと俺の言うことをどれだけ理解してくれるのかすら怪しい。


(誰か……誰か俺を助けてはくれないのか……!? 俺はこのまま孤立無援でこの事態に対処しないといけないのか!?)


 俺が場のカオスぶりに絶望したその時――ザッザッと誰かが砂を蹴って海辺を急いで駆けてくる音が聞こえた。


「に、新浜様! こ、この有様は何事なんですか!?」


「お、おおっ! 夏季崎さん……!」


 その場に駆けつけてくれたアロハマッチョ運転手さんの名を、俺は救世主を迎えるような歓喜の心地で叫んだ。

 そうだ、まだこの人が残っていた……!


「遠くから皆様を見ていたら、どうも様子が変だったので駆けつけたのですが……一体何が……!?」


「そ、それが、どうやら用意したジュースの山の中に、間違えて酒が紛れていたみたいなんです! しかもただのフルーツジュースみたいな見た目だったんで、俺以外の全員が飲んじゃってこんな感じに……!」


「な、なんですとぉ!? な、なんという見落としを……! 保護者として同行しておきながら大失態です……!」


 さっきの俺と同様に、未成年の飲酒を許してしまった罪に夏季崎さんが慚愧に堪えないという様子で苦々しく呻いた。


 その気持ちは、大人をやっていた俺にはよくわかる。

 どれだけ気付きにくい事であろうと、それが子どもへのトラブルを呼ぶのであれば、未然に防ぐ事を大人は求められるのだ。


「俺はちょっと紫条院さんを見ているので、そこの三人をお願いしていいですか! 飲んだ量は大した事ないので、水を飲ませて大人しくしていれば落ち着いてくるはずです!」


「酔った人間に対して妙に慣れていますな! ええ、もちろん承知しました! そちらもお嬢様をお願いします!」


 頼れる素面の大人という強力な援軍を得て、俺は一息つく。

 よし、これで後はこのまま全員を小一時間も休ませれば――


「ふふー……どうぞぉ新浜君♪」


「え……?」


 いつの間にかネガティブから脱していた紫条院さんが、俺に未使用の紙コップを手渡してきていた。俺が困惑しながらもそれを受け取ると、酔いの最中にある少女は、ペットボトルに入ったオレンジジュースを注いできた。


「ふふー……お母様にお酌をしてもらうと、お父様は『くぁー! 嫁の注いだ酒で疲れが吹っ飛ぶ!』とか言って元気が出るのでぇ、その真似ですよー! うふふ……私達ってまだ未成年ですかりゃ、お酒じゃにゃくてジュースですけどっ!」


「お、おう……ありがとう」


 未成年云々を口にする辺り、やはり今自分が酒を飲んで酔っているという認識はないらしい。未だにとろんとした瞳を見るに、半分夢の中にいるような状態なのだろう。


(しかし……こんな状況でなんだけど、笑顔を向けてくれる女の子のお酌って嬉しいもんなんだな……)


 前世での勤務先は上下関係をひどく重んじており、その飲み会においてお酌とは義務によるものだった。

 俺が上司に注ぐ時も、俺が年下の同僚から注がれる時も、『いつもお世話になっていますぅー!』などと言いつつ作り笑いを浮かべて行う、奇妙なマナーを全うするための儀式でしかなかった。


 だから……ひょっとしたら初めてかもしれなかった。

 本当に感謝や労いを込めた、心からのお酌を誰かから受けるのは。


 俺が注いでくれたジュース(酒じゃない事は流石に確認した)を口に含むと、紫条院さんは何が嬉しいのか、にへーっと緩んだ笑みを見せた。

 その邪気のない愛らしさで、ただのジュースがやたらと美味しく感じてしまう。


「ところで新浜君……! 今日は! 誘って頂いてホントありがとうございますっっ!」


「ぐふっ!?」


 紫条院さんは、突如ずいっと赤らんだ顔を近づけ、おでこを俺の胸に叩きつけてお辞儀をする。酔った人間特有の突発的な謎行動に、俺は思わずジュースを吹き出してしまうところだった。


 や、やっぱりテンションの振れ幅がでかい……!

 普段よりさらにポワポワした紫条院さんもまた可愛いけどさ!


「ずっと海に行ってやりたかった事をほとんどやれてもう感謝しかにゃくて……! すっごく感謝してみゃすし、とても感謝してるんですよぉ……! どうしていつもいつも私の願望をまるっと叶えちゃうんでしゅかもぉー!」


 胸元で両拳をぎゅっと握った紫条院さんが感謝の言葉を告げてくるが、なんだか語彙のループぶりが凄い。

 話し方もやや幼くなっており、思考力の減退ぶりがよくわかる。


「でもぉ! 実はもう一つだけやってみたい事があるんですー! ねえねえ、ちょっと付き合ってくださいよー! ねー!」


「へ? 付き合うって何を……?」


「アレですアレ! ちょっと古い映画であるやつですよー! ちょうど夕日がキレーな砂浜で最高のロケーションですしっ!」


「?」


 紫条院さんがウキウキした様子で言うが、何をしたいのかわからず俺は首を傾げた。夕日がキレーな砂浜でやる古い映画であるやつ……?


「これですよ、これぇ! あはは、お先に行ってますねー!」


「ちょっ、紫条院さん!?」


 紫条院さんは突然俺に背を向けると、躊躇なく夕日に彩られた砂浜へ駆けだした。もの凄く気持ち良さそうな晴々とした笑顔で、潮騒の中に砂の靴音を響かせながら真っ直ぐに。


(古い映画のアレって……夕日の中での浜辺ダッシュか! 確かに俺もちょっとやってみたいことではあったけどさぁ!)


「お、お嬢様!? そんな状態でここを離れては……!」


 夏季崎さんが血相を変えるが、それも当然だ。

 もうすぐ日が暮れる時刻なのに、酔った状態でここを離れるなんて危険だ。

うっかり酔ったまま海に入ってしまったら、最悪の事態もありうる。


「俺が追って捕まえます! 夏季崎さんはここで三人の面倒を見ててください!」


「ぐ……仕方ないですな! 頼みましたぞ新浜様!」


 銀次達は酒が抜けている途中なのかぐったりと大人しくなっていたが、目を離したら何か事故を起こすかもしれない。なので誰かが残るのは必須の事だ。


 夏季崎さんは本音を言えば自分で追いたいだろうが、すでに駆けだしている俺に役割の交代を求める時間が惜しいと思ってか、全てを任せてくれた。


「待ってくれ紫条院さん!」


 幸い、ビーチサンダルで走る少女の速度はさほどではなく、楽に追いつけそうだった。とはいえ今にも転んでしまいそうな不安にかられて、渚をパタパタと駆ける少女の小さな背を俺は全力で追った。





【読者の皆様へ】

 最近は書籍版の最終作業や特典ショートストーリーの執筆に時間を取られており、更新速度が落ちて申し訳ありません。

 これが2021年最後の更新となります。

 ちょうど2020年の12月に執筆を開始した本作がカクヨムコン大賞受賞や書籍化を成し遂げられたのは、全て皆様の応援あってこそであり、心から感謝しております。

 では、皆様よいお年を。

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