第79話 朝チュンとカシャカシャ


 俺は深い安らぎの中でただまどろんでいた。


 何かが俺のそばにあり、それはとても柔らかく心が落ち着く温もりがあった。

 本能をとろかすような甘い匂いに包まれて、ただ幸せな安息だけがある。


 ――カシャカシャ

 

 まるで母猫に寄り添って眠る子猫のように、最上の安眠をただ貪る。全身が途方もない安堵に包まれており、何もかもが満ち足りていた。


 カシャカシャカシャっ!


 ……だというのに、なんだこのやかましい音は……。


「う……ん……?」


 やたらと耳障りな音のせいで、俺は幸せな眠りから覚醒してしまう。

 窓から差し込んだ朝日の眩しさを感じながら目を開けると、自分の部屋のものではない天井が目に飛び込んできた。


(あれ……? ああ、そうか……俺は居間のソファに腰掛けたまま寝てたのか……)


 スズメがチュンチュンと鳴く声がとても心地良かったが、さっきから続いている機械音がそれを打ち消すような勢いでカシャカシャとうるさい。


(さっきから一体何の音だ……って香奈子……?)


 音のしている方向に寝ぼけ眼を向けると、Tシャツとデニムパンツ姿の妹がいた。だが何だか様子がおかしい。


 ほんのり頬を染めながら口の端を広げて興奮気味に「うひょおおお……!」などと奇声を発しており、こちらにガラケーを向けて猛烈な勢いで写真を撮っているのだ。どうやらあのカシャカシャはシャッター音だったらしい。


「う……ん……なにしてんだおまえ……?」


「あ、さすがに起きちゃったか。おっはよー兄貴!」


 まだ眠気で頭が働いていない状態の俺が呼びかけると、妹は妙に溌剌とした返事を返してきた。お前……なんで朝からそんなハイテンションなんだ?


「ふふふふ、何をしてるかって、勿論写真撮ってるに決まってるじゃん! こんな興奮するレアな光景見逃すわけないっしょ!」


「は……? 何だレアな光景って……ん……?」


 寝ぼけた頭が次第に明瞭になってきて、ふと自分の胸にずっと人肌の温もりが触れていることに気付く。それは温かいだけじゃなくて、ふるふると柔らかく絹のようにすべすべしており、とても甘い匂いがした。


 そうして俺はようやくその状態を認識する。

 紫条院さんが俺に寄りかかるようにしてすぅすぅと寝息を立てており、俺たちは一枚のタオルケットを共有してずっと寄り添って眠っていたのだと。


「な、な、なあああああああああああああああああ!?」


 寝ぼけた頭が一瞬で沸騰して俺は顔を真っ赤に染めた。

 ど、どういうことだ!? なんで紫条院さんが俺と一緒に寝てる!?

 まさか俺たちって一晩中この状態だったのか!?


 激しく狼狽しつつとにかく寝ている紫条院さんから離れようとするが、眠り姫は俺の胸の上に頭を乗せるようにして眠っているため、なんとも身動きが取れない。

 この上なく密着している女の子の生々しい熱と重みに、俺の心臓は朝からフルスロットルで早鐘を打ち始める。


(そ、それにしても……うわぁぁ……紫条院さんの寝顔絶超可愛い……)


 どれだけ動揺していても、俺の恋愛脳はどうしても彼女に見惚れてしまう。

 大和撫子な美人が無防備にすやすやと眠る姿に、どうしようもなく目が奪われる。


「ふふふ……ゆうべはおたのしみでしたね!」


「んなわけあるかああああ!」


 某国民的RPGゲームで主人公と姫が一緒の宿屋に泊まると出てくる台詞をかましてくる妹に俺はキレ散らかした。当然ながらお楽しみなんてしていない。


「いやー、起きたら春華ちゃんがいなくてびっくりしたけど、まさか同衾してたなんてもう朝から大興奮だよ……! こりゃもう携帯の待ち受けにしないとね!」


「中学生が同衾なんて言葉覚えるなぁ! あと待ち受けもマジでやめろおおお!」


「ん……んん……」


 俺たち兄妹がうるさくしたためか、俺の胸の上で紫条院さんがうっすらと目を覚ます。そしてそんな彼女の瞳に最初に映るのは、密着状態にある俺の顔だ。


「そ、その、紫条院さん! この状態は決して俺にやましい意図があってこうなったわけじゃ……!」


「……にいはまくんがわたしのへやに……ああ、そうか、まだゆめなんですね……」


「は?」


 あの……紫条院さん? もしかしてまだ半分寝ちゃってますか?


「あれ? 春華ちゃん起きたの?」


「ああ、そうふぁんだふぁ……っ!?」


「うふふー、にいはまくんのかお、もちもちです……びよーんびよーん」


 紫条院さんが無造作に伸ばした両手に左右の頬をつままれて、俺のほっぺたはぐにぐにと伸び縮みするオモチャにされてしまう。そして当の紫条院さんはそんな俺を見てにまーっとだらしなく笑っている。


(こ、これは……もしかして寝ぼけてめっちゃ幼児化するタイプか!? 行動原理が3歳くらいになってるぅぅぅ!?)


 すぐそばにいる香奈子に助けを求めようと視線を向けるが、この惨状を見た我が妹はいつかと同様に笑い袋になっており、使い物になる状態ではなかった。


「あははははははははは! は、春華ちゃんが寝ぼけて幼稚園児みたいになってるぅ……! ちょ、もう、二人して私を笑わせすぎぃ……! くく、ぷふ、あはははははは! げほっ、ぶふ、ちょ、もうムリぃ……!」


 そんなに俺の惨状が可笑しいのか、笑いのあまり立っていられなくなった香奈子は、そのまま腹を抱えて床に崩れ落ちた。

 ええい、この笑い上戸中学生め! 出歯亀はするくせに肝心な時に全然役に立たねえ……!


「お、おひてふれ(起きてくれ)、ふぃひょういんさん(紫条院さん)……!」


「ふふふ……おとこのこだけど、あんまりごつごつしてないです……なめらかでむにむにー……」


 滑らかなのは紫条院さんの指の方だと俺は全力で叫びたかった。絹で出来てるのかってくらいにツルツルスベスベで、気持ち良すぎて変な気分になる……!


「……あれ……? でも……ゆめなのに……わたしがしらないへ……や……?」


 ふと周囲の光景を認識したらしき紫条院さんの動きがピタリと止まる。

 ぼんやりしていた瞳がクリアになっていき、俺の頬をぐにぐにしている自分の手を数秒見つめ――その綺麗な顔が一瞬で真っ赤に染まった。


「あ、ああああああ……!? ご、ごごご、ごめんなさい……! わ、私ったらなんてことを……! 完全に寝ぼけていました!」


「あ、ああ、いや、目が覚めたのならそれでいいよ……」


 赤面した紫条院さんがガバッと離れたことで、俺はようやく身の自由を得た。

 俺も表向きは大人の理性で冷静に応えているが、内心は紫条院さんとの同衾と起き抜けのほっぺたぐにぐにで未だに乱れまくりである。


「というか……どうして俺たち二人してソファで寝てるんだっけ……? 昨日一緒に話をしながら紅茶を飲んでいたことは思い出せるんだけど……」


 俺が寝落ちしてしまったのだとしても、どうして紫条院さんは香奈子の部屋に戻って寝ていないんだ?

 

「あ、それは……しばらくお喋りした後で私も新浜君も同時にウトウトし始めて……私が眠気のあまり『すいません……ねむすぎてもうだめです……』って言ったら新浜君が『そっか……じゃあもうここでねればいい……』って半分寝ながら言ってくれたので、そのまま……」

 

 眠気のせいとは言え、そんなことを言ったのか俺!?

 台詞だけ聞いたら完全にベッドインのお誘いじゃねえか!


「その、私ったら一晩中新浜君に寄りかかっていたみたいなんですけど……重くなかったですか? それにエアコンが効いてはいましたけど、密着していて暑苦しかったりしませんでした……?」


 本来なら目覚めたら俺が一緒に寝ているなんて悲鳴を上げてもいい状況だろうに、紫条院さんはおずおずと自分が迷惑じゃなかったかと尋ねてくる。

 そしてもちろん、天使との同衾は俺にとって迷惑どころか天国でしかなかった。


「いや全然そんなことはないけど……こっちこそごめんな。その……お互い眠気が限界だったとはいえ、男の俺が一緒に寝ちゃって……」


紫条院さんとはかなり親しくなれた自信はあるが、さすがにこれは別問題だ。

紳士的な観点から言えば、俺は眠気に屈することなく紫条院さんを香奈子の部屋に戻してから寝るべきだったのだ。


「え? あ、いえ、それは平気です。全然不快だなんて思っていませんから」


「そ、そうなのか?」


 俺の隣に腰掛けている紫条院さんは、嫌なことなんて何一つないとばかりにあっけらかんと言う。

 

「はい、もちろんちょっとはしたなかったとは思いますし、こうしてお互いに起き抜けの顔を見ると少し恥ずかしいですけど……」


 頬を微かな桜色に染めて、紫条院さんは恥じらいを含んだ声で言う。

 続く言葉を紡ぐのは、普段ほわほわしている彼女でも気恥ずかしさを我慢する必要があるようだった。

 

「でも、新浜君ですから」


「え……?」


「私の一番親しい友達で、とっても頼りになる男の子だって知ってます。だから、何も嫌なことなんてありません。むしろ凄く安心できて、とても良い心地で眠れましたから!」


 天使そのものの笑顔でそう語る紫条院さんに、俺は言葉を失ってしまった。

 その一連の言葉は、ただ友達だから平気だという意味に留まらないからだ。


 俺と一緒に寝落ちしたことを『ちょっとはしたない』と認識しつつも、『凄く安心できて、とても良い心地で眠れた』と彼女は心から言う。


 それは……俺の男子という属性を意識しつつも、それも含めて近しい間柄なのだと――そう言ってくれているように聞こえてしまう。


「あ、すいません。そういえばせっかく一緒の朝なのに一番大事なことを言っていませんでした!」


 ぽーっとしている俺の内心を知ってか知らずか、紫条院さんは同じソファに座るこちらへ向き直る。


「おはようございます、新浜君!」


 紫条院さんの笑顔は夏の朝日にも負けない眩さで、俺はこれまでの人生で最高の『おはよう』を聞いた。


「ああ……おはよう紫条院さん」


 大好きな子と迎えた朝を言祝ぐように、俺も精一杯の笑顔で挨拶を返す。昨晩の豪雨が嘘のような晴天が爽やかな空気を作る中、俺たちはとても和やかで清澄な空気を共有して笑い合った。



 なお――この時香奈子が撮った写真について、後に『朝チュンの二人♪』などとストレートすぎるタイトルの写メを送りつけてきたので、お前これ絶対に他の奴に流出させんなよ!?と念を押しつつ、紫条院さんの寝顔が写ったそれをちゃっかり保存したことは内緒である。







【読者の皆様へ】

 更新が久しぶりになってしまい申し訳ありません。

 お詫びと同時のお知らせとなって恐縮ですが、本作が第6回カクヨムWeb小説コンテストのラブコメ部門大賞を受賞しましたことをご報告します。

 詳しくは近況ノートをご覧ください。

 https://kakuyomu.jp/users/keinoYuzi/news/16816452220648882921



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る