ホタルに願いを込めて…… ②

 ――その数週間後。すでに七月に入っていたある日。


「相川さん、ちょっと」


 短縮授業期間のため、午前の授業を終えて帰り支度をしていた愛美は、上村先生に手招きされた。


「――先生? どうしたんですか?」


「あなたの保護者の方から、今さっき奨学金の申請書が送り返されてきたそうよ」


「えっ、そうなんですか? それで、必要事項は――」


 もしも白紙で(愛美が埋めたところ以外は、という意味で)戻ってきたのなら、〝あしながおじさん〟は愛美が奨学金を受けることに反対。キチンと書かれていたのなら、反対はされなかったということなのだけれど。


「キチンと埋められていたそうよ。というわけで、奨学金の申請はこれで無事に終わり。審査の結果は夏休み中に分かるはずだから、事務局からあなたに直接連絡があると思うわよ」


「そうですか……。分かりました。知らせて下さってありがとうございます」


 愛美は半信半疑ながらも、担任の先生にお礼を言った。


(おじさま、反対しなかったんだ。――あれ? でも『あしながおじさん』のお話の中では……)


 あの物語の中では、ジュディが奨学金を受けることに〝あしながおじさん〟は猛反対で、何度も何度もグダグダと文句を書き連ねた手紙を秘書に出させていた。――あれは、彼女が自分の手を離れるのがイヤでやったことだと思うのだけれど……。


(じゃあ、わたしの方のおじさまには、わたしの自立を後押ししたいって気持ちがあるってことなのかな?)


「――ところで、今日は午後から文芸部の活動があるけど。相川さんは出られる?」


 上村先生は、今度は文芸部顧問の顔になって愛美に訊ねた。


「はい、出るつもりです。この夏に、ちょっと応募してみたい文芸コンテストがあって。その構想を練ろうかな、って」


「そうなの? その年で公募にまでチャレンジするなんて、さすが小説家志望はダテじゃないわね」


「……はあ。でも、他の部員の人たちもそうなんじゃないですか? みんな書くのは好きみたいだし」


「そんなことないわよ。ほんの趣味程度にやってる子がほとんどね。プロの作家を目指してる子の方が珍しいくらいよ」


 今年入ったばかりの一年生はまだどうか分からないけれど、二年生から上の部員はみんな文才がある。前年、部の主催で行われた短編小説コンテストでも、愛美以外の入選者はみんな文芸部の部員だった。


「文才があるからって、みんながみんなプロを目指してるわけじゃないの。お家の事情とか、色々あるんだから」


 例えば医者の家系に育ったら、自分も医学の道に進むことが決められているとか。経営者の一族だったら、後継者にふさわしい婚約者(〝フィアンセ〟と言った方が正しいかもしれないけれど)がすでに決められているとか。

 愛美は施設育ちだし、両親のこともよく覚えていないけれど、珠莉を見てきているから何となく分かる。


「そうですよね……。お嬢さまって大変なんだなぁ。――じゃあ先生、失礼します」


 愛美は上村先生に挨拶をして、スクールバッグを提げて寮までの道を急いだ。――要するに、お腹がグーグー鳴っていたのだ。


「あ~、お腹すいたぁ。今日のお昼って何だっけ」


 〈双葉寮〉の食堂のメニューは、朝昼夕とそれぞれ日替わりなのだ。好きなメニューが当たった日はハッピーだけれど、キライなものや苦手なメニューが出た日は一日ブルーでたまらなくなる。


 ……と、昼食メニューのことに意識を飛ばしながら早足で歩いていた愛美のスカートのポケットで、マナーモードにしていたスマホが振動した。


「……電話? 知らない番号だなぁ。誰からだろ?」


 ディスプレイに表示されているのは、まったく見覚えのない携帯の番号。愛美は首を傾げながら、通話ボタンを押した。


「もしもし? 相川ですけど、どちらさまですか?」


『恐れ入りますが、相川愛美さまの携帯でお間違いないでしょうか』


 聞こえてきたのは、穏やかな初老と思しき男性の声。


「はい、そうですけど。……あの」


『失礼。申し遅れました。わたくし、田中太郎氏の秘書を務めております、久留島栄吉と申します』


「久留島さん? ……ああ、あなたが! いつも何かとお気遣い頂いてありがとうございます」


 まさか、〝あしながおじさん〟の秘書から電話がかかってくるなんて……! 普段から何かとお世話になっているので、愛美はまず彼にお礼を言った。


『いえいえ。私はただ、ボスの言いつけに従って自分の務めを果たしているだけですので』


「……そうですか」


(なんか腰の低い人だなぁ。「ボス」なんて、おじさまの方がこの人より絶対若いのに。よっぽど慕ってるんだ)


 〝ボス〟という言い方にも、彼の雇い主への愛情というか、信愛が感じられる。


『――ところで愛美お嬢さん、奨学金の申請書についてですが。私のボスがキチンと記入・捺印して学校の事務局に送り返したことは、もうお聞きになっていますか?』


「はい、今さっき伺いました」


『さようでございますか。では、お嬢さんの大学進学にも賛成だということは?』


 そのことは、上村先生からは何も聞いていない。


「いえ、それは伺ってませんけど。なんか意外だったんで、ちょっと驚きました」


『意外、とおっしゃいますのは?』


「わたし、田中さんに反対されると思ってたんです。奨学金のことも、わたしが大学に進むことも。だって、田中さんにしてみたら、『自分はもう、保護者としてお払い箱なのか』って思うかもしれないでしょう? 自分には頼ってくれないのに、大学には進みたいのかって。それって、自分でも勝手だなと思ってるんで」


 将来的に、出してもらったお金を返すつもりだということは、久留島さんにも言わないことにした。それが万が一〝あしながおじさん〟の耳に入って、今の関係がこじれてしまうのはイヤだから。


『いえいえ、そんなことはございませんよ。ボスの一番の望みは、お嬢さんが有意義で充実した学校生活を送られることなんです。奨学金がその役に立つなら、ボスに反対する理由はございません』


「はい……」


『大学へお進みになることもそうでございますよ。お嬢さんが本気で小説家を目指しておいでなのでしたら、ぜひ大学へも進まれるべきだとボスは申しておりました。学費を出す必要がなくなっても、できることは何でもするから、と』


「そうですか。――あの、わたし、奨学金で学費が要らなくなっても、毎月のお小遣いは頂くつもりでいるので」


 奨学金で学費や寮費は賄われても、個人的に必要な細々した生活費などまでは面倒を見てくれない。

 愛美だって今時の女子高生なのだ。欲しいものもそれなりにあるし、趣味に使うお金も必要になる。そうなるとやっぱり、お小遣いは必要不可欠だ。


『さようでございますか! では、ボスにそのように伝えますね。――ところでですね、もうすぐ夏休みでございますが、今年はいかがなさいますか?』


「ああ、それならもう決まってますよ。今年も、長野の千藤農園さんにお世話になろうと思ってます」


『かしこまりました。では、そのようにこちらで手配しておきます。どうぞ、楽しい夏休みをお過ごし下さい』


「ありがとうございます。……あの、一つお訊きしたいことがあるんですけど」


『はい、何でございましょうか?』


 愛美にはずっと気になっていることがあった。自分に好きな人ができたことについて、〝あしながおじさん〟はどう思っているんだろう? と。


「わたし今、好きな人がいるんですけど。そのことで、田中さんはあなたに何かおっしゃってましたか? グチでも何でもいいんですけど」


 世の中の父親は、娘に彼氏ができることが面白くないらしいと聞いたことがあった。

 〝あしながおじさん〟はいわば、愛美の父親代わりである。やっぱり、娘のような愛美に好きな男がいることは面白くないのだろうか?


『いいえ、特には何も申しておりませんでしたが。なぜでしょう?』


「わたしからの手紙、このごろその人のことばっかり書いてるので……。田中さんが呆れてらっしゃるかな……と思って」


 ここ一年近く、特にこの数ヶ月の手紙は、もうほとんどが純也さんについての内容で埋め尽くされていた。愛美自身、ノロケっぱなしで胃もたれしそうなくらいなのだ。


 すると、久留島さんは笑いながらこう答えた。


『呆れているご様子はなかったかと存じます。むしろお喜びでございますよ。「小説家になるうえでの想像力を養うにも、恋はした方がいいから」と。お嬢さんくらいの年頃でしたら、好きなおかたがいないほうが不思議だ、ともボスは申しておりました』


「そう……ですか」


『はい。ですから、何もボスの機嫌を伺うようなことはなさらなくても大丈夫でございますよ。思う存分、青春を謳歌おうかなさいませ。――では、千藤農園にはこちらから連絡させて頂きますので。突然のお電話、失礼致しました』


「はい、ありがとうございます」


 電話が切れると、愛美はスマホの画面を見つめたまましばらくその場に立ち尽くした。


(おじさま、わたしに好きな人がいることが嬉しいなんて……。どうしてだろう?)


 純也さんが自分の知り合いで、信頼できる人だから? それとも――。


「まさか、本人だから……?」


 そういえば、『あしながおじさん』ではジュディの好きな人と〝あしながおじさん〟が同一人物だった。――でも、いくら何でもそこまで同じだと考えるのはベタすぎる。


「……なワケないか。行こ」


 一人で納得して呟き、愛美はスマホをポケットにしまって、食堂に向けてまた歩き出した。


****


「――愛美ー、こっちこっち!」


 食堂に着くと、奥の方のテーブルからさやかが手を振ってくれた。もちろん、珠莉も一緒である。

 ちなみに、今日の昼食メニューはチキンカツレツとサラダ、そして冷製ポタージュスープだ。チキンカツレツにはトマトベースのソースがかかっている。 


「ゴメンね、遅くなっちゃって」


「いや、別にいいんだけどさ。どしたの? っていうかなんで制服?」


 愛美が謝りながらテーブルに着くと、さやかは怒っている様子もなく、彼女が遅れて来た理由を聞きたがった。

 愛美は食事をしながら、それを話し始める。


「ん、このチキンカツレツ美味しい! ――教室を出ようとしたら、上村先生に呼び止められて。奨学金申請の手続きが無事終わった、って。――あとね、スマホにおじさまの秘書さんから電話がかかってきたの」


「秘書さんから? どんな用件で?」


「書類がちゃんと着いたかどうかの確認と、今年の夏休みはどうしますか、って。わたしは今年も去年とおんなじように、長野の農園でお世話になるつもりだって答えたよ。今年は純也さんも来てくれるみたいだし」


 さやかも昼食に手を付け始めた。ゴハンよりも先に、愛美が絶賛したチキンカツレツに箸が伸びる。


「あ、ホントだ。コレ美味しい! ――そっか。もしかしたら、告白するチャンスかもしんないもんね。頑張れ、愛美」


「うん。ありがとね、さやかちゃん。……ところで、珠莉ちゃんはなんであんなに不機嫌なの?」


 愛美とさやかがおしゃべりに盛り上がる中、珠莉は不気味なくらい静かだ。


「さあ? っていうか珠莉、チキンあんまり食べてないじゃん。サラダも」


 見れば、珠莉はゴハンとスープばかりを口にしている。サラダも、トマトはのけてレタスとキュウリしか減っていない。


「珠莉ちゃん、食欲ないの?」


「そんなんじゃないの。……私、トマトが苦手なのよ」


「あれま。調理の人に言えば、タルタルソースに替えてもらえたのに。サラダのトマトは自分でのけられるにしてもさぁ」


「その手がありましたわね! 私、さっそくソースを替えてもらってきますわ!」


 途端に珠莉の顔色が明るくなり、彼女は踊るような足取りで調理室前のカウンターまで飛んで行った。


「知らなかったなぁ、珠莉がトマト苦手だったなんて。……で、何の話だっけ?」


 さやかが珠莉の背中を目で追いながら、しみじみと呟いた。

 三人の付き合いはもう一年以上になるけれど、まだまだ知らないことがたくさんあるもので。愛美も頷いた。


「夏休み、わたしは純也さんに告白するチャンスかもって話。――ちなみに制服なのは、午後から部活に出るから」


「あ、ナルホドね。だからカバン持ってきてるんだ。部屋に寄らずに直で来たワケね」


「うん。……あ、珠莉ちゃん戻ってきた」


 珠莉はタルタルソースがかかったチキンカツレツのお皿を手にして、嬉しそうなホクホク顔でテーブルに戻ってきた。


「お待たせしましたわ~~♪ こちらの方がカロリーは高そうですけど、まあいいでしよ」


 そう言いながら、コッテリしたタルタルソースがけのお肉を美味しそうに食べ始める。


「……よっぽど苦手なんだね、トマト」


「トマトのソースの方が、絶対サッパリして食べやすいだろうにね」


 愛美とさやかは、珠莉に聞こえないように囁きあった。


「――ところで、二人は今日、部活は?」


 愛美が訊ねる。さやかも珠莉も、すでに制服から着替えている。


「あたしも午後から部活だよ。でもまあ、部屋でスポーツウェアに着替えて直行できるから」


「茶道部は今日、お休みですの」


「そうなんだ」


 どうりで、珠莉がのんびりしているわけだ。愛美は納得した。


「でもさぁ、あたしはやっぱ夏休み返上で寮に居残り決定だよ。インハイの予選、順調に勝ち残ってるから。嬉しいんだけど、今年は家族でキャンプ行けない……」


 さやかは「はぁ~~」と大きなため息をついて、その場でうなだれた。


「しょうがないよ。部活の方が大事だもん。わたし、長野から応援するよ!」


「愛美さん、今年の夏も長野にいらっしゃるんですの? ……ああ。そういえば、純也叔父さまも行かれるんでしたわね」


「うん、そうなの。だから楽しみで仕方ないんだ♪ ――珠莉ちゃんはどうするの? 夏休み」


「どうせ、また海外でしょ? 今度はどこよ」


 少々やさぐれ気味に、さやかが言う。


「今年はグアムに。……でも私は、できれば日本に残りたいんだけど」


「どうして?」


 愛美が首を傾げると、珠莉はたちまち耳まで真っ赤になった。


「べっ……、別にいいでしょう!? 私だって、たまには日本でのんびりしたい――」


「あ~~~~~~~~っ! 分かった! もしかして、好きな人できた? ねっ、そうでしょ!?」


 珠莉の弁解を遮り、さやかが大声でまくし立てる。珠莉はその勢いに押され、「……ええ」と小声で頷いた。


「ああ、やっぱりそうなんだ」


「!? 愛美、何か知ってんの?」


 どうやら気づいていなかったのはさやかだけのようで、彼女は愛美に詰め寄った。


「うん、……多分。珠莉ちゃん、間違ってたらゴメンね。その好きな人って、もしかして治樹さん?」


「えっ、ウチのお兄ちゃん? まっさかぁ! そんなワケ……」


「……そうよ、愛美さん」


 その一言に、さやかがたけびを上げた。



「ええええええええ~~~~っ!?」

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