ホタルに願いを込めて…… ①
――愛美たちの原宿散策から一ヶ月が過ぎ、横浜は今年も梅雨入りした。
「――愛美、あたしこれから部活だから。お先に」
終礼後、スポーツバッグを提げたさやかが愛美に言った。
「うん。暑いから熱中症に気をつけてね」
梅雨入りしたものの、今年はあまり雨が降らない。今日も朝からよく晴れていて蒸し暑い。屋外で練習する陸上部員のさやかには、この暑さはつらいかもしれない。
「あら、さやかさんもこれから部活? 私もですの」
「アンタはいいよねー。冷房の効いた部室で活動できるんだもん」
「そうでもないですわよ? お茶を
珠莉は茶道部員である。さすがに活動のある日、毎回和装というわけではないけれど、定期的に
「へえー、そういうモンなんだぁ。どこの部も、ラクできるワケじゃないんだね―。――愛美も今日は部活?」
「ううん。
「え~~~~、いいなぁ。……じゃあ行ってくるね」
「うん。行ってらっしゃい」
親友二人を見送り、自分も教室を出ようと愛美が席を立つと――。
「相川さん、ちょっといいかしら?」
クラス担任の女性教師・
彼女は四十代の初めくらいで、国語を担当している。また、愛美が所属している文芸部の顧問でもあるのだ。
「はい。何ですか?」
「あなた、今日は部活に参加しないのよね? じゃあこの後、ちょっと私に付き合ってもらってもいい? 大事な話があって」
「はあ、大事なお話……ですか? ――はい、分かりました」
(大事な話って何だろう? まさか、退学になっちゃうとか!?)
愛美は頷いたものの、内心では首を傾げ、イヤな予感に頭を振った。
(そんなワケないない! わたし、退学になるようなこと、何ひとつしてないもん!)
とはいうものの、先生から聞かされる話の内容の予想がまったくできない愛美は、小首を傾げつつ彼女のあとをついて行った。
****
「――相川さん、ここで座って待っていてね。先生はちょっと事務室でもらってくるものがあるから」
「はい」
通されたのは職員室。上村先生は、その一角の応接スペースで待っているように愛美に伝えた。
(……事務室でもらってくるものって何だろ? ますます何のお話があるのか分かんない)
愛美は言われた通りにソファーに浅く腰かけ、一人首を捻る。
事務室といえば、管理しているのは生徒の名簿や成績や、学費・寮費などのお金関係。
(おじさまに限って、学費の振り込みが
〝あしながおじさん〟は律儀な人だと、愛美もよく知っている。間違いなく、この学校の費用は毎月キッチリ納められているだろう。
ということは、それ関係の話ではないということだろうか?
「――お待たせ、相川さん。あなたに話っていうのはね、――実は、あなたに
「えっ、奨学金?」
思ってもみない話に、愛美は瞬いた。
「ええ、そうよ。あなたは施設出身で、この学校の費用を出して下さってる方も身内の方じゃないんでしょう?」
「え……、はい。そうですけど」
「ああ、気を悪くしたならゴメンなさい。言い方を変えるわね。……えっと、あなたは入学してから、常に優秀な成績をキープしてるわ。そしてあなた自身、『いつまでも田中さんの援助に頼っていてはいけない』と思ってる。違うかしら?」
「それは……」
図星だった。愛美自身、〝あしながおじさん〟からの援助はずっと続くわけではないと思っていた。いつかは自立しなければ、と。
そして、ちゃんと独り立ちできた時には、彼が出してくれた学費と寮費分くらいは返そうと決めていたのだ。
「この奨学金はね、これから先の学費と寮費を全額
「はあ……」
大学進学後も受けられるなら、愛美としては願ったり叶ったりだ。大学の費用まで、〝あしながおじさん〟に出してもらうつもりはなかったから。そこまでしてもらうくらいなら、大学進学を諦める方がマシというものである。
「まあ、一応審査もあるから、申請したからって必ず受けられるものでもないんだけれど。あなたの事情や成績なら、審査に通る確率は高いと思うの。これが申請用紙よ」
上村先生はそう言って、ローテーブルの上に一枚の書類を置いた。
「あなたが記入する欄だけ埋めてくれたら、あとは事務局から保護者の方のところに直接書類を郵送して、そこに必要事項を記入・
「分かりました。――わたしが書くところは……。あの、ペンをお借りしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
愛美は上村先生のボールペンを借りて、本人が記入すべき
「――先生、これで大丈夫ですか?」
「書けた? ……はい、大丈夫。じゃあ、すぐに相川さんの保護者の方宛てに郵送しておくわね」
「先生、このこと……わたしからも伝えておいた方がいいですか? 田中さんに」
こんなに大事なことを、愛美ひとりで決められるはずがない。学校の事務局から書類が送られるにしても、念のため愛美からもお願いしておいた方がいいと思ったのだ。
だいいち、〝あしながおじさん〟が「もう自分の援助は必要ないのか」とヘソを曲げないとも限らないし――。
「そうね。それは相川さんに任せるわ。私からの話は以上です」
「はい。先生、失礼します」
――職員室を後にした愛美は、寮までの帰り道を歩きながら考え込んでいた。
(奨学金……ねぇ。そりゃあ、受けられたらわたしも助かるけど……。おじさまは気を悪くしないのかな……?)
彼はよかれと思って、厚意で愛美の援助に名乗りを上げたのだ。他に手助けしてくれる人がいないのなら、自分が――と。
それに水を差されるようなことをされて、「もう援助は打ち切る」と言われてしまったら……?
(もちろん、奨学金でもわたしのお小遣いの分までは出ないから、それはこの先もありがたく受け取るつもりでいるけど)
今までのようにはいかなくても、お小遣いの分だけでも愛美が甘えてくれたなら、〝あしながおじさん〟も自分のメンツが保てるんだろうか?
「こんなこと、純也さんに相談してもなぁ……」
彼とは一ヶ月前に連絡先を交換してから、頻繁に電話やメッセージのやり取りを続けている。「困ったときには何でも相談して」とも言ってくれた。
でも、こればっかりは他人の彼が口出ししていい問題ではない気がする。
「っていっても、もう手続きしちゃってるし。今更『やっぱりやめます』ってワケにもいかないし」
本校舎から〈双葉寮〉まで帰るには、途中でグラウンドの横を通る。グラウンドでは、さやかが所属する陸上部が練習の真っ最中だった。
「――わあ、さやかちゃん速~い!」
百メートル走のタイムを測っていた彼女は、十二秒台を叩き出していた。
「暑い中、頑張ってるなぁ」
本人に聞いた話では、五月の大会でも準優勝したとか。この分だと夏のインターハイへの出場も確実で、今年は夏休み返上かもしれない、とか何とか。
「さやかちゃ~ん! お疲れさま~!」
愛美は親友の練習のジャマにならないように、その場から大声で声援を送った。すると、タオルで汗を拭きながらさやかが駆け寄ってくる。
「愛美じゃん! さっきの走り、見てくれた?」
「うん! スゴい速かったねー」
愛美は体育は得意でも苦手でもないけれど(
中でも短距離走には、かなりの自信があるようで。
「でしょ? この分だと、マジで今年は夏休み返上かも。あ~、キャンプ行きたかったなぁ」
インターハイに出られそうなことは嬉しいけれど、そのために夏休みの楽しみを諦めなければならない。――さやかは複雑そうだ。
「仕方ないよ。部活の方が大事だもんね」
「まあね……。ところで愛美、今帰り? ちょっと遅くない?」
部活に出なかったわりには、帰りが遅いんじゃないかと、さやかは首を傾げた。
「うん。あの後ね、上村先生に呼ばれて職員室に行ってたから。大事な話があるって」
「〝大事な話〟? ってナニ?」
さやかは今すぐにでも、その話の内容を知りたがったけれど。
「うん……。でもさやかちゃん、今部活中でしょ? ジャマしちゃ悪いから、寮に帰ってきてから話すよ。珠莉ちゃんも一緒に聞いてもらいたいし。――そろそろ練習に戻って」
「分かった。じゃあ、また後で!」
さやかは愛美にチャッと手を上げ、来た時と同じく駆け足で他の部員たちのところへ戻っていった。
****
「――えっ、『奨学金申し込め』って?」
その日の夕食後、愛美は部屋の共有スペースのテーブルで、担任の上村先生から聞かされた話をさやかと珠莉に話して聞かせた。
「うん。っていうか、その場で申請書も書いた。わたしが書かなきゃいけないところだけ、だけど」
「書いた、って……。愛美さんはそれでいいんですの?」
珠莉は、愛美が自分の意思ではなく先生から無理強いされて書いたのでは、と心配しているようだけれど。
「うん、いいの。わたしもね、おじさまの負担がこれで軽くなるならいいかな、って思ってたし。いつかお金返すことになっても、その金額が少なくなった方が気がラクだから」
「お金……、返すつもりなんだ?」
「うん。おじさまは望んでないと思うけど、わたしはできたらそうしたい」
愛美の意思は固い。元々自立心が強い彼女にとって、経済面で〝あしながおじさん〟に依存している今の状況では「自立している」ということにはならないのだ。
もし彼がその返済分を受け取らなくても、愛美は返そうとすることだけで気持ちの上では自立できると思う。
「それにね、奨学金は大学に上がってからも受け続けてられるんだって。大学の費用まで、おじさまに出してもらうつもりはないから」
「それじゃあ、あなたも私たちと一緒に大学に進むつもりなのね?」
「うん。そのことも含めて、おじさまには手紙出してきたけど。さすがにこんな大事なこと、わたし一人じゃ決めらんないから」
愛美はまだ未成年だから、自分の意思だけでは決められないこともまだまだたくさんある。そういう点では、彼女は〝カゴの中の鳥〟と同じなのかもしれない。
「おじさまが賛成して下さるかどうかは分かんないけどね。一応おじさまが保護者だから、筋は通さないと」
「律儀だねぇ、アンタ。何も進学のことまでいちいちお伺い立てなくても、自分で決めたらいいんじゃないの?」
「それじゃダメだと思ったの。誰か、大人の意見が聞きたくて。……でも、誰に相談していいか分かんないから」
「でしたら、純也叔父さまに相談なさったらどうかしら?」
「えっ、純也さんに!? どうして?」
何の脈絡もなく、この話の流れで出てくるはずのない人の名前が珠莉の口から飛び出したので、愛美は面食らった。
「ええと……、そうそう! 叔父さまは愛美さんにとって、いちばん身近な大人でしょう? きっと喜んで相談に乗って下さいますわ。愛美さんの役に立てるなら、って」
「そ、そう……かな」
珠莉は何だか、取って付けたような理由を言ったような気がするけれど……。他に相談相手がいないので、今は彼女の提案に乗っかるしかない。
「じゃあ……、電話してみる」
愛美は二人のいる前でスマホを出して、純也さんの番号をコールしてみた。〝善は急げ〟である。
『――はい』
「純也さん、愛美です。夜遅くにゴメンなさい。今、大丈夫ですか?」
『うーん、大丈夫……ではないかな。ゴメンね、今ちょっと出先で』
純也さんは声をひそめているらしい。出先ということは、仕事関係の接待か何かだろうか?
「あっ、お仕事ですか? お忙しい時にゴメンなさい。後でかけ直した方がいいですよね?」
『いや、僕一人抜けたところで、何の支障もないから。――それよりどうしたの?』
「えっ? えーっと……」
純也さんも忙しいようだし、あまり長話はできない。愛美は簡潔に要点だけを伝えることにした。
「……実は、純也さんに相談に乗って頂きたいことがあって。電話じゃ長くなりそうなんで、ホントは会ってお話ししたいんですけど。何とか時間作って頂けませんか?」
電話の向こうで純也さんが「う~~ん」と唸り、十数秒が過ぎた。
『そうだなぁ……、しばらく仕事が立て込んでるからちょっと。でも、夏には休暇取って、多恵さんのところの農園に行けそうだから、その時でもいいかな? ちょっと先になるけど』
「はい、大丈夫です! 急ぎの相談じゃないから。――いつごろになりそうですか? 休暇」
この夏は、純也さんと一緒に過ごせる! それだけで、愛美の胸は躍るようだった。
『まだハッキリとは分からないな。また僕から連絡するよ』
「分かりました。じゃあ、連絡待ってますね。失礼します」
愛美は丁寧にそう言って、通話終了の赤いボタンをタップした。
今すぐには相談に乗ってもらえなかったけれど、電話で純也さんの声を聞けて、しかも夏休みには彼と一緒に過ごせると分かっただけでも、愛美の気持ちは少し楽になった――。
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