第58話 年明けの大学で
年が明けて最初の大学の授業がある日。
俺は少し早めに教室に入っていた。
もうあと半月ほどで後期試験が始まる。
そのために必要な参考書を図書館で借り、そのまま早めに教室に入ったと言う訳だ。
だが結果から言うと、これは失敗だった。
後から教室に入って来た同じ授業を受ける学生が、ジロジロと俺を見ている。
俺が視線の方向に目を向けると、サッと視線を剃らすヤツと、変な笑いを浮かべながら俺を見ているヤツの両方がいた。
今までこんな事はなかった。
嫌な視線だ。
俺はそれらを無視する事にして、教科書と借りてきたばかりの参考書を開いた。
ごく基本的な『ネットワークの七つの階層』に関する部分だが、頭に入ってこない。
すぐ横に人の気配がした。
隣に「ドカッ」と座る。
「おまえ、一色優だろ?」
俺は顔を上げてソイツを見た。
同じ学科の一年だが、今まで話をした事はない男だ。
「そうだけど、何か用か?」
するとソイツはニタニタと笑いなが言った。
「オマエさ、クリスマス・イブに2年の桜島燈子とヤッたって、本当?」
俺はどう答えていいのか解らなかった。
ここで「イエス」と答えれば、噂はさらに広がる。
そして燈子先輩に迷惑が掛からないだろうか?
だが「ノー」と答えては、今までの苦労が水の泡になる。
どちらにしても迂闊に答える事は出来ない。
それにこのイヤらしい笑いを浮かべた付き合いの浅い男に、答える気にはなれなかった。
「知らね」
俺は素っ気なく答えた。
「隠すなよ。教えてくれたってイイじゃん」
「別にアンタに話す義理はないだろ?」
「だって桜島燈子と言ったら、この大学では有名な美人じゃん。『影のミス城都大』って言われてるしさ。気になるのは当然だろ?」
俺は無言でいた。
こんな風に興味本位で聞かれるのは、不愉快極まりない。
「それにさ、身体だってメッチャいいし巨乳だし。ツンとお高く止まった感じはするけど、そこがまたソソるって言うか」
俺はその男を睨んだ。
こんなヤツに燈子先輩を値踏みされるのが、この上なく不満だったのだ。
男はおどけた表情をした。
「おいおい、怖い顔して睨むなよ。だってオマエラの話は有名だぜ。『サークルのクリスマス・パーティで、それまで付き合っていた相手を振って、互いに乗り換えてホテルに消えた』ってな」
「誰が言ったんだよ、その話?」
これを言ったのは俺じゃない。
俺の背後から野太い声がしたのだ。
振り返ると、そこには石田がいた。
普段とは違って険しい表情をしている。
ゴツイ顔つきだけにこういう表情をされると、かなり迫力がある。
石田は言葉を続けた。
「アレはな、先に相手の方が浮気をしていたんだよ。優たちはその事実を突きつけて、相手と絶縁したんだ。誰からも文句を言われる筋合いはない」
すると男は石田にビビッたようだ。
「いや、そんなマジになるなよ。SNSでその話が流れてきたからさ、ちょっと気になって聞いてみただけだよ。別に俺だって一色を非難するつもりじゃねーしさ」
そう言って男は立ち上がると、別の席に移動して言った。
石田が隣に座る。
「ありがとう。悪いな、石田」
俺は素直に礼を言った。
「別にいいよ。それに俺もさっきの話にはムカついたからさ」
そして顔を近づけて囁いた。
「だけどSNSのグループで、優と燈子先輩の事を悪く広めているヤツがいるのは確からしい。俺にも回ってきた」
それを聞いて俺はタメ息をついた。
石田が俺の様子を見て、聞いてくる。
「心当たりはあるのか?」
「まあな」
「やっぱりカレンちゃんか?」
俺はコクリと首を縦に振った。
さすがに鴨倉が、こんな陰湿な手段を取るとは思えない。
そもそも鴨倉は燈子先輩に本気で惚れていた。
その相手をこんな風に貶める事はしないだろう。
『ネットで誹謗中傷』なんて、いかにもカレンがやりそうな事だ。
石田もタメ息を漏らした。
「そうだよなぁ。あのパーティーの時の様子から、このままで済むハズはない、と思っていたけど」
「どんな内容のメッセージか、見せてくれるか?」
すると石田がスマホを操作して、俺に手渡した。
そこにはこう書かれていた。
>【拡散希望】
>最低男、情報工学科一年、一色優
>彼女のスマホを勝手に見て、浮気疑惑をデッチ上げたクズ!
>自分は同じく情報工学科の二年・桜島燈子と浮気!
>桜島燈子はビッチ!他にも男多数と関係アリ!
他にも燈子先輩に対して、見るに耐えない罵詈雑言が書き連ねてあった。
発信者は「NANASHIKO」となっている。
おそらくカレンの裏アカだろう。
「こんなメッセージが、クリスマスの後から大学内の色んな所に流されているらしい」
俺は黙ってスマホを石田に返した。
俺の事を悪く言うならともかく、燈子先輩を中傷するなんて許せない。
そもそも浮気をしたのはカレンなのに、それをまるで逆の立場で燈子先輩に擦り付けるなんて。
「こんなこと書かれて、燈子先輩は大丈夫かな?」
俺は思わずそう呟いた。
「俺もそれを心配したんだ。燈子先輩の事だから、そんな簡単にはメゲないと思うが。それでも女性だからなぁ」
「今日、昼には会う事になっているんだ。この件も一応話しておくよ」
俺がそう言った時、授業開始のチャイムが鳴った。
その後も、休み時間に「Xデーの一夜」について聞いてくるバカが居た。
それ以外にも、俺の事を好奇心の目で見ているヤツはけっこういる。
……燈子先輩は大丈夫だろうか?……
俺の中で不安が膨れ上がった。
プライドの高い、そして貞操観念の強い彼女が、周囲からこんな目で見られるなんて耐えられるだろうか?
俺は昼休みになると、さっそく学食の入り口から少し離れた場所で燈子先輩を待った。
俺が居る場所はメッセージで伝えてある。
やがて燈子先輩がやって来た。
手には大きな紙袋を抱えている。
「どうしてこんな所で待っていたの?」
そう聞いた燈子先輩に、俺は逆に不思議に思って尋ねた。
「え、燈子先輩は学食は嫌じゃないですか?」
だが彼女は小首を傾げる。
「別に、嫌じゃないけど」
「外の方がよくありません?」
「今から外に食べに行ったんじゃ、お店も混んでるし、次の授業にギリギリになっちゃうよ。学食でいいんじゃない?」
燈子先輩にそう言われては仕方が無い。
俺は彼女と一緒に第一学生食堂に入った。
幸いにして窓際の「カップル御用達テーブル」が一つ空いていたので、そこに席を取る。
燈子先輩は今日は持参のサンドイッチ、俺は学食のカツ丼だ。
「これ、昨日連絡したハワイのお土産」
そう言って彼女は、大きな紙袋を俺に手渡す。
「ありがとうございます。なんですか、これ?」
「まず開けてみて」
袋の中には箱が入っていた。それを開けると、中から一足のスポーツ・シューズが出てくる。
「キックス・ハワイで買ってきたの。ブランドとのコラボ・モデルだから、他では売っていないし、日本では珍しいはずよ」
俺はさっそく試し履きをしてみた。
サイズはピッタリだ。
「よく俺の靴のサイズがわかりましたね」
「Xデーの夜、ホテルで君がシャワーを浴びていたでしょ。あの時に思い出して、靴のサイズを見ておいたの。ピッタリで良かったわ」
そう言って明るい笑顔で彼女は答えた。
だが俺は、燈子先輩のその笑顔を見て、逆に気分が重くなる。
そしてそっと周囲に目を走らせると、やはり何人かが興味深そうに俺達を見ていた。
「どうしたの?気に入らなかった?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。ただ……」
「『ただ』、どうしたの?」
俺は周囲を見ながら目を伏せるようにして、小声で言った。
「燈子先輩は大丈夫ですか?もうXデーの夜の事が広まっていて……その、俺と燈子先輩がヤッちゃった事になっているんですけど……」
「そんな事、最初から判っていた事じゃない。と言うより、そういう風に策を練ったのは私たちでしょ?」
「でもそれって、俺はイイけど……燈子先輩はマズくないですか?本当の彼氏が出来た時とか……」
すると燈子先輩の表情が気色ばんだ。
「どういう意味、それ?」
「どういう意味って?」
「君は私の『本当の彼氏』になるつもりは無い、って事なの?」
そう言われて、俺は「あっ」と思った。
そうだ、こんな言い方は彼女に失礼だったのではないか?
「そんな意味じゃないです。でも俺って『彼氏仮免許中』なんですよね?だから……」
「そんな態度だと、仮免許も失効になるわよ。自分で相当に失礼な事を言っているって理解してる?」
俺は何も言い返せなくなった。
「変な噂がSNSで流れている事は私も知っているわ。他の子が教えてくれたから。でもそんなデマに負けてどうするの?私たちは何一つとして間違った事はしていない。堂々としていればいいのよ」
そうだ、俺たちは間違った事もやましい事もしていない。
「君が私を心配してくれた事は解るけど……でも私にとっては、いま君が言った言葉の方がショックだわ。そんなネットのデマなんかよりもね!」
「わかりました、すみません。口が滑ったとは言え、俺の配慮が足りませんでした」
俺は頭を下げた。
「解ってくれればいいわ。今の私には君しかいないし、君にとっても私だけでしょ?二人で周りを見返してやりましょう」
燈子先輩はそう言うと、やっと笑ってくれた。
俺もそれに釣られて笑顔を返すが……
けっこうマズったかもな。
彼女からだいぶ幻滅されたかもしれない。
それに……またもや燈子先輩に頭が上がらなくなりそうだ。
>この続きは明日(1/26)正午過ぎに投稿予定です。
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