恋は理解出来なくても(前編)
満の成人式の前日。当日は朝早くから着付けがあるからと言って、夕方ごろに満は実家に帰って行った。思えば実家にいた頃も、実家を出た後も、家には常に誰かが居た。昔、部屋に一人閉じこもった時があった。あの時は外から聞こえる人の声が煩わしいと思ったが、誰の声もしないというのもまた寂しいものだ。一人の家は思った以上に静かで、意地を張らずについて行けばよかったなんて思ってしまう。
冷蔵庫を開ける。食材は十分あるが、ここにあるもので何が作れるかと問われると、思い浮かばない。浮かんでも作る技術も気力も無い。コンビニで何か買ってこようかと悩んでいると、スマホが鳴る。満だろうか。少し間を置いて確認する。柚樹だった。なんだ柚樹かとため息を吐きながら既読を付ける。『今から行っていい?』の一言。また静と喧嘩でもしたのかと呆れると『別に喧嘩したわけじゃないんだけど』と聞いてもないのにわたしの心を読んだように言い訳を始めた。結局なんの用かも分からずやってきた彼を家に入れ、紅茶を淹れて隣に座る。
「で、何の用?」
「今、静ちゃんのお友達が来てて」
「お友達?」
「そう。今はね」
「ふぅん。気を利かせて出てきたってわけね」
「そ。上手くやれると良いんだけどねぇ……」
柚樹は満と同じく他人に恋愛感情を抱かない人間だが、静は恋愛感情は抱くものの性的な欲求は抱かないという、これまた複雑なセクシャリティの人だ。中学生の頃に恋人が居たが、キスをしたくないと言ったことが原因で愛していないのかと責められ、理解されずに別れたらしい。それ以来恋愛はしてこなかった静に気になる人が出来たと聞いても、応援したい気持ちより心配が勝ってしまう。
「そのことは相手も知ってるの?」
「さぁー。言ってないんじゃないかなぁ。……傷ついてほしくないなぁ。静ちゃんには」
そう言って彼はわたしの肩に頭を寄せる。
「……貴方って、本当に静のこと好きよね」
「そうだね。好きだよ。実と同じくらい、大切な人。きららと、みぃちゃんもね。別に静ちゃんだけが特別なわけじゃない」
「……そう」
「そうだよ。だから、彼が側にいてって言うなら側にいてやることは出来るけど、自分だけを愛してって言われたら無理かな。博愛主義なので。一途に愛してくれて、性的な接触を求めない人なんて、まぁなかなかいないよね。俺は彼が嫌なら性欲な接触を求めないし、彼のことを愛してはいるけど……」
「セックスしない人生は耐えられない」
「そう。俺にとってセックスはただのコミュニケーションで、一緒にカラオケに行くのと同じくらい気軽なものなんだよね。だから、それを禁止されると、自分以外の人間と遊びに行かないでって言われるようなもので」
「同性とならともかく、異性とのそれは本来は生殖のための行為なんだからもっと慎重になるべきだと思うのだけど……」
ため息を吐くと、彼はヘラヘラと笑いながらこう言った。
「大丈夫大丈夫。俺、パイプカットしてるから」
「だからって……え、なんて?」
思わず聞き返すと、彼は「切ったのよ。精子の通り道」と冗談っぽく笑いながら言う。絶句してしまう。
「まぁ、ごく稀に妊娠する可能性はあるらしいんだけど。あ、自分の意思でだよ。父様に無理矢理同意させられて手術させられたわけじゃないから安心して」
笑い事のように彼は言うが、流石に父はそこまでしないだろうとは言い切れない。あの人は優秀な遺伝子にこだわる優勢思想な人だから。全く笑えない。
「……流石にそこまでしてるとは思わなかったわ」
「俺を繋ぎ止めるためとか、一条家に取り入るためとか、私欲のために妊娠を利用しようとする女性もいるからね。そんなの、生まれてくる子が可哀想じゃん」
「……女性とそういうことしなければ良いだけの話じゃない?」
「あははー。それはそう」
「はぁ……全く……」
「あ、ちなみにパイプカットしてもちゃんと「ところで貴方、ご飯食べた?」
これ以上生々しい話を聞きたくなくて無理矢理話題を変える。彼は「セクハラだったねごめんね」と悪びれる様子もなくヘラヘラと笑いながら「まだだけど、実が作ってくれるの?」とどこか嬉しそうに言う。
「いや、貴方に作らせようかと」
「ええー! 客に作らせるのー!?」
「わたし、料理苦手だもの」
「いや、俺もそんなに得意じゃないんだけど……」
「わたしよりは出来るでしょう」
「……はぁ……しょうがないなぁ。お兄ちゃんが作ってあげよう。冷蔵庫のもの適当に使うよー」
「ええ。よろしく。ご飯は昼の残りがあるから炊かなくて良いわ」
「……ちょっとくらい手伝う気は「無い」そうですか……」
柚樹に夕食を作らせている間に風呂を沸かす。風呂に入っていると、カレーの匂いが漂ってきた。カレーといえば、満の好物だ。彼女は今頃何を食べているのだろう。なんて、気づけばまた彼女のことばかり考えてしまう。きっと、彼女の方は明日のことしか考えていないのだろう。もやもやする気持ちを洗い流して風呂を出ると、キッチンから柚樹が「スマホ鳴ってたよ。満ちゃんじゃない?」と顔を覗かせた。確認すると、満から『今日の夕飯』とカレーの写真が送られてきていた。
「なに。つきみちゃんの写真でも送られてきた?」
「違うわ。夕食の写真」
「なんだった?」
「カレー」
「あらー。まさかのカレー被り」
「娘が久しぶりに帰ってくるから好物を作ってあげたんでしょうね」
「ああ、なるほど。……仲良いもんね。月島家は。あー。俺もつきみちゃんに会いたい……」
「貴方、本当につきみのこと好きね」
「あんな可愛い子、嫌いな人いなくない?」
「……そうね」
「否定しないってことは実も好きなんじゃん」
「つきみは好きよ」
「はいはい。つきみちゃんはね。出来たから自分で取りにきなー」
キッチンに行き、昼の残りのご飯をレンジで温め、カレーをかける。柚樹が作ったカレーと満が作ったカレー、ルゥは同じだし具材もさほど変わらないはずだが、なんだか満が作ってくれたカレーの方が美味しい気がする。隠し味でも入れているのだろうか。それとも——いや、わたしが知らないだけで多分何か隠し味を入れているのだろう。そうに違いない。
「えっ。何その微妙な顔。不味かった?」
「……別に。普通に美味しい」
「ならもっと美味しそうな顔してよ」
「こういう顔なのよ」
「なに。満ちゃんが恋しい? 明日帰ってくるんでしょ。てか、ついていけば良かったのに」
「うるさい」
「どうせ、誘われたけど意地張って『行かない』とか言「ところで貴方、静に恋人が出来たらどうするの?」
彼の言葉を遮り、無理矢理話題を変える。彼は「そりゃ出て行くよ。良い部屋が見つかるまでは友達の家に居候かな」と、なんでもないことのように答えた。
「ふぅん」
「ふぅんって。聞いておきながら何よその興味なさそうな顔は」
「……静、上手くやれるといいわね」
そうだねと彼が頷いたタイミングで、着信音が鳴る。音の出所は柚樹のスマホ。席を外し、電話に出る柚樹。相槌を打つ声が段々と暗くなっていく。
「うん。今、実の家でご飯食べてるよ。食べたら帰ろうか? ああ……そっか。じゃあ、今日はどっか適当に泊まってくるよ」
「うちに泊まれば。ベッドないけどそれでも良いなら」
「実が良いならそうする。けど、ベッド無いことはないでしょ。二人暮らしなんだから」
「ないわよ。一つしか」
「マジで? やだぁー。ラブラブじゃん」
「……やっぱり出てって」
「やだ。お泊まりする。というわけで静ちゃん、俺は実の家に泊まるから。うん。ちゃんとご飯食べなよ」
そう優しく声をかけて、柚樹は電話を切る。結果は聞かなくても察するが、本当に一人にして大丈夫なのだろうか。
「本人が一人になりたいって言ったんだし、大丈夫でしょ。それに……」
「それに?」
「……失恋してる人の慰め方、俺には分かんないから。下手なこと言って余計に傷つけそうで」
複雑そうに彼は言う。下手なこと言うくらいなら今は側に居ない方が良いと判断したようだ。
「……そう」
「一回、失恋したから話聞いてって言われて、家まで行って聞いてあげたことあるんだけど、慰めるどころか傷つけちゃって」
「どうせ抱いてって言われたから抱いたんでしょ」
「いやいや、むしろ断ったんだよ。そういう慰め方したら良くないなってことは流石の俺でも分かったから」
「ああ、なるほど。その優しさが逆効果だったわけね」
「そうらしい。なので、失恋話は電話で聞くくらいに止めようと決めたんですけど……」
「何しても結局惚れられると」
「……そうなんだよねぇ」
モテたい人からしたら嫌味のような悩みかもしれないが、彼は本気で悩んでいるのだろう。
「大丈夫でしょう。あの子は貴方のこと理解してるもの。その優しさが自分だけに向けられるものだなんて勘違いはしないわよ」
「……それはそうだと思うけどさ、でも実はそれを理解した上でも満ちゃんに恋してるよね?」
痛いところを突かれ、思わず咽せ返る。
「う、うるさい! それはそれ!」
「あ、惚れてることは否定しないんだ」
「ほ、惚れてない! 好きでもないくせに優しくするから、これ以上誰かが勘違いして傷つかないようにわたしが恋人になって、管理してあげてるの! 恋人が居れば勘違いする人も減るから!」
我ながら、意味不明な言い訳をしている自覚はある。彼は「管理って。猛獣かよ」とおかしそうに笑う。
「ご馳走様。風呂入ってきまーす。あ、皿洗うから。置いておいてくれて良いよ。明日早いでしょ」
「は? 別に早くないけど」
「満ちゃんにモーニングコールしなきゃでしょ?」
そう言い残して、彼は去っていく。確かにモーニングコールしてくれと頼まれてはいるが、彼女のためだけに朝四時に起きるのは流石に——と思いながら歯を磨いていると、わたしのスマホが鳴る。満からまた写真が送られてきた。今度は丸まって眠るつきみの写真。その写真の後に『あんたと同じことしてる』と、メッセージが続く。なんの話だと思って写真をよく見ると、つきみの下には靴下が敷かれている。満の靴下だ。なんなんだ。わたしが満の靴下を枕にして寝ていたことなんて一度も無いが。『してないわよ馬鹿』と返信をすると、『この間、人の服抱えて寝てたくせに』と返ってきた。『明日早いんでしょう。もう寝たら』と話題を無理矢理変える。彼女はそれ以上掘り下げず『明日、四時に起こしてね』というメッセージの後に、丸まって眠る犬のスタンプを送信してきた。『本当にもう寝るの?』という問いかけにはもう既読もつかない。まさか本当に寝たのだろうか。明日早いとはいえ、まだ九時前だというのに。しかし、四時に起きるとなると、今から寝たら睡眠時間は七時間。まぁ、確かにちょうど良い時間ではあるかもしれない。口を濯ぎに行くついでに、風呂にいる柚樹に一声かけてから寝室へ。彼女の居ないベッドは広くて落ち着かない。気付けば無意識に彼女の枕に顔を埋めていた。ハッとして、枕に八つ当たりをしていると、コンコンとドアがノックされた。柚樹が顔を覗かせ「俺はソファで寝るから」とだけ言ってドアを閉める。思わずドアを開けて引き止めてしまった。
「……ここで寝ても、良いわよ。別に」
「……もしかして寂しいの?」
「ち、違うわよ。一人で寝るには広すぎるから。良いわよ。隣で寝て」
「いや、遠慮しとくわ。ソファで寝るねー」
揶揄うようにそう言って立ち去ろうとする彼の袖を引く。彼は仕方ないなと言わんばかりに笑って、わたしの頭をポンポンと撫でて部屋に入る。
同じベッドで彼と隣り合って眠るのはいつぶりだろうか。部屋は別だったが、彼はよくわたしの部屋に来ていた。一人では眠れないからと言って。いつもわたしを抱き枕代わりにしていた。今日はそうしないのかと問うと、彼は苦笑いしながら言う。
「もしかして、未だに何か抱いてないと眠れないと思ってる?」
流石にそんなことないよと言いたげな顔だが、本当にそうだろうか。「違う?」と問い返すと、彼は少し間をおいて「違わない」と少し恥ずかしそうに笑って、遠慮がちにわたしを抱き寄せた。
「……流石に嫌かなと思って」
「別に。いつもは静と一緒に寝てるの?」
「いや、別の部屋で寝てるよ。一緒には寝てくれないけど、代わりに猫の抱き枕くれた。呼吸するみたいに膨らんだりしぼんだりするやつでさぁ、犬とか猫抱いて寝てるみたいで落ち着くのよ」
「ふぅん……」
「でもやっぱ本物の猫には敵わんな」
「誰が猫よ」
「ふふ。……なんか、こういうの久しぶり。誰かと添い寝する時って、大体そういう時だから。何にもないの、久しぶり……」
声がだんだんと消えていき、寝息に変わる。昔からそうだった。眠れないからと言ってわたしの部屋に来るくせに、わたしを抱き枕にするとすぐに眠ってしまうのだ。よほどわたしの隣がリラックス出来るのだろうか。だけどわたしも人のことは言えなくて、彼の寝息が聞こえ始めてから眠りに落ちるまで時間はかからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます