実と海菜
光に擬態した闇
「私、男の人好きになれないから」
部活見学にやって来た日、何でも無いことのように、彼女は言った。
あまりにも自然なカミングアウトに、周りは誰も突っ込まずに会話が進む。驚いていたのは、後輩の美麗だけだった。
「……あ、あの、皆様知っていましたの?鈴木さんがその……女性が好きだということ……」
「あいつは隠してないから」
「あたしも最初は『えっ』って思ったけど、考えてみたら今は別に同性愛とか普通じゃんね」
きららが言う。普通。そんなわけないだろう。だったらどうしてわたしは彼女と別れさせられた?
「サラッと言われてしまうと驚いてしまいますけどね」
「舞華は表情が乏しいですから。…でも…そうですわね。考えてみたら普通のことなのですよね…」
「ふふ。そうだよ。私達は普通の人だよ」
そう言って、彼女は笑う。
誰も彼女をおかしいと言わない。
誰も彼女を否定しない。
普通だというのなら、何故わたしは罵られた?何故彼女は罵られた?何故?この子は、何を根拠に同性愛者である自分を普通だと言うの?
自分は普通だなんて、そんなの、恵まれた環境に生まれたから言えるんだ。
「…ん?…女性で男の人は好きにならないって…あれ?ちょっとまって、もしかして今の、カミングアウトってやつ?」
きららが遅れて首を傾げる。
「ほんと鈍いわね、貴女」
だけど無理もない。彼女はあまりにも堂々としすぎているから。
「だって、こういうのってもっとこう……深刻な空気になるもんだと思ってたから……」
そう。それが普通だ。この子みたいにサラッと言えるのはよっぽど恵まれている子だけ。
「…そうね。普通は言いづらいと思う」
「そうですね。私も初めて人に打ち明けた時は凄く緊張しましたけど……初めてカミングアウトした人が『それは大したことじゃないよ』って、気付かせてくれたので。そもそも恋愛観って人それぞれで、他人が口出しするものじゃないですし。未成年に手を出したとなると犯罪になってしまいますけど……」
「……そう。……人に恵まれてるのね、貴女」
羨ましい。妬ましい。「この国に差別なんて無い」と、本気で思えるおめでたい頭をしているのだろう。
「『私が私を否定したら私を愛してくれる人が悲しんでしまう』と思えるくらいには恵まれまくってますよ」
彼女はそう、嫌味ったらしくにこやかに笑って返してきた。
「嫌味が通じないわね。この子」
彼女の従妹である空美の方を見る。すると空美は
「ふふ。いい性格してるでしょ?私の従姉妹」
と、彼女とよく似た嫌味ったらしい笑みを浮かべた。
「……そうね。親戚だけあって貴女そっくり」
「おっ、良かったねうみちゃん。実ちゃん、うみちゃんのこと気に入ったって」
「あははー。ありがとうございますー」
へらへら笑う彼女。なんなんだこの子。
「……どう解釈したらそうなるのよ」
「ふふ。だって実ちゃん、私のこと気に入ってるじゃん」
「おめでたい頭してるわね。ほんと」
確かに、空美のことは嫌いではない。だけど、従妹である彼女は嫌いだ。嫌いというか、本能が拒否している。あの爽やかな笑顔が不気味で仕方ない。わたしとは違う世界で生きているのではないかと思うほどに眩しかった。
きっと、否定なんてされたことは無いのだろう。どうしてみんな隠すの?とでも思っているのだろう。
わたしも同じだと知ったらきっと「隠さなくて良いのに」とか「堂々とすれば良いのに」と言うのだろう。彼女だけには絶対に知られないようにしなければ。
「聞いてくれてありがとうー。時間的にもう一曲はちょっと厳しそうだから、今日はここでお開きにします。一年生ちゃん達、今日は来てくれてありがとう。お疲れさまでした!」
「お先に失礼します」
部活が終わると同時に、逃げるように部室を出る。あの眩い光にいつまでも当てられていたら、手を伸ばしてしまいそうで怖かったから。
「あぁ!お姉様!お待ちになって!一緒に帰りましょう!」
美麗が慌てて追いかけてくる。
彼女を引き離すために足を早める。すると、別の足音が近づいて来た。兄が隣に並ぶ。
「美麗ちゃんには、この後俺とデートだからって言っといた」
「変な嘘つかないでください」
「嘘じゃないよ」
そう言って兄はわたしの手を引き、駅までの道を逸れて歩道を曲がった。
「ちょ、ちょっと!」
「いいじゃん。たまにはさ」
向かった先は、一軒の和菓子屋。そこでみたらし団子を二本買って、一本をわたしに渡した。
「……買い食いなんてはしたない」
「そんなこと言うなら、はしたない俺が二本とも食べちゃうよ」
「……貴方に食べられるくらいならいただくわ」
「素直じゃないなぁほんとに。……まぁ、あんな家に居たら捻くれたくなるのも分かるけどさー」
わたしは中学生の頃、女性と付き合っていた。それを母に知られて、こっ酷く否定された。「普通じゃない」と。
「……柚樹はどう思いますか」
「……空美ちゃんの従妹のこと?」
「……ええ」
「……一言で言うなら、不気味。……不気味なくらい明るい。まるで、自分は希望の象徴であるべきだと言わんばかりに」
団子を齧りながら、柚樹は表情を変えずに答える。
「……わたしには、この国に差別なんて無いと、軽々しく言いそうに見えました。わたしのことを知ったらカミングアウトを勧めてくるタイプだと思う」
「……そうかな。あの子は分かってると思うけど。学年代表になるくらい賢いし、空美ちゃんの従妹だし。……さっき言ってたことはほとんど強がりだと俺は思うけどね。明るい人ほど意外と闇が深いもんだよ」
「……貴方が言うと説得力あるわね」
「それに、空美ちゃん言ってたよ。従妹のこと。『雰囲気が柚樹くんに似てる』って」
「……だとしたら、恐ろしいわね」
わたしには、あの笑顔は、一点の曇りもないように見えた。対して柚樹の笑顔はいつだって愛想笑いだ。わたしには、彼女はわたし達とは対極に居るように見えた。柚樹やわたしが闇なら、彼女は光。似ているとは思えなかった。
「……話してみたら?」
「絶対嫌。近寄りたくない。……あの子といたら、絶対、望んでしまう。もう一度、誰かを好きになりたいと、望んでしまう」
「……けどさ、いつまでも闇の底にいたら、いつか心が壊れるよ」
「良いの。それで良い。希望なんて持つくらいなら、闇の底に閉じこもっていた方がマシよ」
「……ならいっそ、死ぬか?死ぬなら付き合うよ。俺も」
そう言って、彼は笑う。不気味なほど、優しい顔をして。そしてその不気味な笑顔のまま「冗談じゃないよ」と続けた。
「……死にたいなら一人で死んで」
「こんな地獄に可愛い妹を一人残して逝けないよ」
「わたしを生きる言い訳にしないで」
「実だって、言い訳しながらなんだかんだ生きてるじゃん。闇の底に閉じこもっていたいとか言って、本当はあっち側に行きたいくせに」
「……っ……恋愛感情を持たない機械が偉そうに……」
「同性に惹かれる心を持ってしまった出来損ないな操り人形には言われたくないね」
咄嗟に出たわたしの手を、彼は一瞬も怯むことなく受け止める。
「……貴方なんて、大嫌い」
「……知ってる。俺も俺が大嫌い。……送ってくよ」
「今日も帰らないのね」
「あの家にいたら息が詰まるから。帰らなくてもどうせ探しにも来ないし」
「……はっ。良いわね。気軽に家出出来て」
「実も来れば?怒るのは母さんだけだよ。父さんは兄さまにしか興味無いから。いやー。次男で良かった。期待されないって楽だよ。誰も俺を必要としない。どこで何をしようが、干渉しない、束縛しない。だけど、毎月小遣いだけはちゃんと振り込まれる。充分すぎるくらいな額が。……こんなに楽なことないよ」
そう笑う柚樹の瞳には一切光は差さない。彼女の瞳はどうだっただろうか。思い出せない。そこまで見ていなかった。
それから数日後、彼女の方からわたしの元へやって来た。話があるからと、人気の無い場所に呼ばれた。
「あ、先に言いますけど、告白じゃないですからね。勘違いしないでくださいね」
「さっさと要件言いなさい」
「私の友達が実さんのファンなんです。もし良かったら、音源貰えませんか?」
「……図々しいのね。貴女」
「別に強制してないですよ」
「……ふん」
「……実さん、私のこと嫌いですよね」
「ええ。嫌い」
「ふふ。……気が合いますね」
そう言って笑った彼女は、確かに柚樹と同じ笑顔をしていた。彼の言った通り、彼女は光ではなかった。光を装った闇だと、その時ようやく気づいた。
「……それが貴女の本性ね」
「……ええ。あなたも、私と同じなんでしょう?」
「……隠さずにオープンにした方が楽だとでも言いたいのかしら」
「いいえ。別に、隠すななんて言いませんよ。オープンにすると変な虫が寄って来ますし。『男を知らないだけだ』とか『そういうキャラ設定なんだろ』とか『私のことそう言う目で見ないでね』とか『男だったらアリだけど、私はソッチ系じゃないから』とか。そういう鳴き声の、人の形をしたキモい虫が寄って来るので」
「……だったらなんで、貴女は隠さないの」
「……言わなければ、周りは私を勝手に異性愛者だと決め付ける。気持ち悪い虫に寄り付かれるより、その方がよっぽど苦痛です」
「……そう」
「安心してください。私はあなたにカミングアウトを強要したりはしないし、アウティングもしない。誰にも言いません。ただ……」
彼女が一歩近づく。背が高いからか、威圧感が半端無い。思わず後ずさると、後ろは壁だった。
「な、何よ」
「……同性愛者である自分を否定するのは構いませんが、自分を否定するために同性愛そのものを否定するのはやめてくださいね。私は、同性愛はおかしいという化石みたいな考えを持つ人間を、まずはこの学校から消し去ろうと思っているので。あなたが自分を否定しようが、私はどうでも良いですけどくれぐれも、私の計画を邪魔しないようにお願いします。……忠告はしましたからね。
そう言って、彼女はわたしに頭を下げて去って行った。
光だなんてとんでもない。中身は柚樹以上に深い闇だ。だけど、彼女はその闇の中から必死にもがいて光に手を伸ばしている。闇から抜け出すことを決してあきらめてはいない。
それに比べてわたしは——
わたしは、惨めだ。どうしようもなく。
しゃがみ込み、ふと顔を上げると、一人の女の子と楽しげに話す彼女が視界に入った。
きっと彼女は、自分の手でほしい物を掴み取ろうとしている。そう考えると、どうしようもない醜い嫉妬心が湧き上がった。彼女が手を伸ばす先の光を、壊したくなってしまった。わたしと同じく、絶望の底に落ちろと思ってしまった。
——だからわたしはあの日、彼女の想い人である小桜さん手を出した。そして、身代わりになると言い出した満に手を出した。
「……」
隣で眠る妻の背中に腕を回す。柔らかい。温かい。中学生の頃に諦めた温もりが、幸せが、今わたしの腕の中にある。
元カノの時のように辛い目にあうなら、心なんと殺して一生闇の中に居た方が良いと思っていた。
今はそうは思わない。この幸せは、戦わずに逃げていたら一生来なかったから。
あの時彼女に煽られなかったら、きっと、小桜さんに手を出そうとしなかった。わざわざ自分から関わりにいかなかった。
満に落ちたのは、彼女のせいだと言っても過言ではないかもしれない。まさか、計算していた?なんて馬鹿なことを考えてしまう。いくら計算高い彼女でも、流石にそれはないだろう。と、思いたい。
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