第320話 11月7日(待って……え? 母さん、何? これ?)

 初めて珈琲を飲んだのは中学生になってすぐのこと。

 最初はただ彼に背伸びをしてみせたかっただけだった。

 自分で飲む珈琲とは別に私用の飲み物を用意する気遣いが……子ども扱いされているみたいで嫌だったのだ。

 でも、珈琲を飲むようになっても必ず『砂糖とミルク、いるか?』と訊かれた。


 それから、『砂糖とミルク、いるか?』と訊かれなくなったのは高校生になってからだ。


『珈琲でいいんだよな?』


 言葉の尻に砂糖とミルクがくっ付いて来なかった時は、嬉しくてつい笑ってしまった。

 今思えば、それだって彼に子ども扱いされていたのかもしれないのだけれど……。


 彼は、私が大人になったから『砂糖とミルク、いるか?』と訊かなくなったんじゃない。

 ただ、訊けば機嫌が悪くなると思ったから訊かなくなっただけだ。


 ちなみに、結局子ども扱いされていたんだと気付けたのは、最近になってからだった。

 しかも、これは彩弓さんのおかげかもしれない。


 大人の女性が微糖の珈琲を飲んでいる。

 少し考えて、いくらか視野を広げればわかることに……私はこれまで気付けなかった。


 しかし、一度気付いてしまえばなんてことはない。

 どれも、ごく当たり前のことだったのだ。


 珈琲を飲めば、子どもじゃなくなる訳じゃない。

 砂糖とミルクを入れなくなれば、大人になる訳でもない。

 時間が経ちさえずれば、自然と大人扱いされる……なんて話も間違いだ。


 親にとってはいつまでも子どもが子どもであるように……彼にとって、私はいつまでも経っても私でしかないんだろう。


 けれど、それは――このままならばという話だ。


『もしかして……行きたい大学、他にもあるの?』


 茉莉にはそう訊かれた。


 『ある』と答えれば半分は嘘になってしまう。

 だって、明確に行きたい大学はないのだ。

 ただ、一人でどこか遠くに行かなければと――彼の傍を離れなければ、何も変わらないと思っているだけだった。


 けれど、ここ彼の傍を離れても……何も変わらないかもしれないとも考えている。

 彼や家族と離れて一人で暮らして――大学を卒業して四年ぶりに再会した時、そうまでして何も変わらなければどうしようと。


 だけど、何もせずにはいられない。

 だから、どっちに転んでもいいようにと……かっこ悪い理由で勉強だけはしていた。


 なのに――、


「ちーちゃん、明日からしばらく私と一緒に彼の家に住むわよ。さ、準備して!」

「……は?」


 ――彩弓さんの唐突な一言で、何故か荷造りをすることになったのだ。

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