第251話 8月30日(……機嫌がいい、とまではいきませんよ)

「……なんだか、今日は機嫌が良さそうだな?」


 珈琲カップと見つめ合っていたら、彼が興味深そうに首を傾げた。

 しかし『機嫌が良さそうだ』と言われても、いつもと変わらないと思う。

 頭上に疑問符が浮かぶ中「……そうですか?」と首を傾げて返した。

 すると、彼は静かに珈琲を啜り「ああ。少しだけな」と頷く。


 機嫌がいい? 私が?


 一度カップから口を離し、テーブルの上に置く。

 ひじ掛けに頬杖を付きながら考えてみたが……今日、取り留めて機嫌が良くなりそうな出来事なんて思い浮かばなかった。


(……別に、普段通りだと思うんだけど)


 朝起きて、昨晩から読み始めた本の続きを読み……朝食が近くなったら栞を挿む。

 顔を洗って、歯を磨いて、朝食を食べ……また読書へ戻り、キリの良い所まで読んだらまた栞を挿む。

 そして、午前中に彼の家へ向かい、素っ気ない挨拶の後で珈琲を淹れてもらって、またまた読書へ戻る。


 もうすっかり日常になってしまった、夏休みの過ごし方だ。

 あくびが出るならまだしも、機嫌の良くなる要素なんてひとつもない。


「……やっぱり、あなたの思い過ごしだと思います。今日、機嫌が良くなるようなことなんて一つもなかったですから」


 だが、彼はあごに手をあてだす。

 その後、物憂げに「ふむ」と呟き、安っぽい探偵の真似事を始めた。


「今読んでる本がおもしろかったとか?」

「……いえ、特におもしろくはないです」

「……おもしろくもないものを何で読んでるんだよ」

「最後まで読まないとスッキリしないからですよ。途中で放り出すほどつまらなくもないですしね」


 珈琲カップから昇る湯気が躍るのを見つめながら、くだらない質問に答えていく。


「実は、今日の珈琲をサイフォンで淹れたことに気付いて黙ってる?」

「……ノーコメント」


 涼しい部屋の窓辺で暖かな木漏れ日に抱かれながら……私も、ちょっとした自己分析を始めてみたけれど……結論は変わらなかった。


 だって――今、読んでいる本は過不足なく、機嫌を左右するような要因にはなりえない。

 珈琲の違いだってわからなかったし、一緒に出されたお菓子もコンビニで買える安いチョコレート菓子だった。

 午後から楽しい予定がある訳でもないし……やはり、私の機嫌が良くなるようなことはない。


 だけど――、


「やっぱなんかあったか?」

「いいえ。何でもないです」


 ――この何でもない穏やかな時間が心地よくて、つい微笑みがこぼれたというなら……なくはないのかもしれない。

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