第192話 7月2日(言ったことがないし、聞いたこともない……)

 まだ気持ちの整理はついていなかった。

 でも、見てると言ったからには、もう避けたりしない。


 初戦を終えた楠の顔は、ほっとしたように見えた。


「勝ったよ」


 昨日、文章で送られてきた報告を改めて聞かされる。

 面と向かって言われると、確かな実感が胸の内から生じた。


「ん……知ってる」

「だよな」


 照れくさそうに話す横顔からは、どこか余裕が感じられる。

 自然に頬が緩む中「二回戦はいつなの?」と訊ねた。


「7月9日。ちなみに対戦相手はシード校……去年のベスト4な」


 一瞬、楠の表情に影が差す。

 先程まで見て取れた余裕は消えていて……次も楽に勝てる相手ではないとわかった。


「ねぇ、確か一回戦の相手も強かったよね?」

「ああ。去年のベスト16な」

「……トーナメントの抽選って楠が引いたんでしょ?」

「まあ、主将だからな」


 楠の唇がへにゃりと歪む。


「くじ運、悪すぎない?」


 意地悪っぽく訊くと優しい声色が返って来た。


「いや、去年の三年生に比べたらマシだよ。なんせ、一回戦で優勝校と当たったからな」

「それは……」


 ……くじ運が悪過ぎる。

 言葉を濁すと、楠は微笑みながら続けた。


「今だから笑ってられるけどさ。俺も負けた直後はかなり腐ってたんだぜ」


 思わず「え?」と声が漏れる。

 だって、楠はもっとメンタルの強い人だと思っていたからだ。


「なんか想像できないな」

「はは、あの時は先輩からスタメンを奪った直後だったからさ……張り切ってた分、反動も大きかったんだよ」

「でも、立ち直ったんでしょ?」

「ああ」


 短い返答が来るなり、やっぱりと思った。

 しかし――、


「でも、立ち直るきっかけは向坂にもらったんだ」


 ――予想外の言葉が続き、納得は疑問に変わる。


「なんで?」

「夏休みに入った直後にさ、体育館で剣道部の団体戦を見たんだ。4対0で負けが決まってる試合……向坂は大将だった」 


 それは、覚えていた。

 他県から強豪校を招いた合同練習の最中――部員の惜敗が続いた時のことだ。


「勝てないってわかってる試合なのに、向坂は腐って手を抜いたりしなかった。強くて、格好良くて……あの時から、俺にとって向坂は特別になったんだ――って、俺なんか今すげぇ恥ずかしいこと言ったよな。忘れてくれ」


 そう言って笑う楠を見て……一つ確信した。

 私が楠に気持ちを隠しているのと同じで……楠にも、私に隠している気持ちがある。


 私が退部したことを楠はどう思っているか……そんなことを今まで話したことなどなかったのだから。

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