第103話 4月4日(楽しかったんですよね……?)

「――っ、なんだ。結構余裕あったね」


 肩で息をする彩弓さんは時刻表と睨み合いつつ呟いた。


「これなら、走る必要なかったんじゃない?」


 私達へ振り返って笑う彼女は、誰が走ろうと言ったのか忘れたようだ。


「……走ろうって言い始めたの、彩弓さんですけどね」

「ん? 結果オーライでしょ。多少ゆっくりできるよ」


 彩弓さんは悪びれることなく、一人で先々とベンチへ腰掛けた。

 私は彼女に呆れながら、自分でも時刻表を確認しに行く。


 数字の羅列に視線を滑らせていくと、


(……あった)


 乗ろうとしている電車が見つかった。


(0時17分発――今から10分後か)


「……余裕って言いながらギリギリじゃないですか」

「えぇ……10分前だよ? 余裕でしょ?」

「終電の10分前ですよ? ギリギリです」


 コレ終電を逃したらどうする気だったんだろう?

 思わず、口から溜息が漏れる。

 すると、


「はぁ……」

「はぁ……」


 彼も同じように肩が下がっていて、二人の溜息は重なった。


「……ちなも、そろそろ慣れてきた頃か?」

「つきたくもない耐性がついただけですよ」


 私は彼にそっぽを向き、彩弓さんの隣へ座――ろうとしたのだけれど、


「……」


 視界に自販機を見つけた途端、自然と足が動いていた。

 当たり前に無糖の缶珈琲を選ぶ。

 ガコンッと、転がり落ちてきた冷たい缶を取り出す瞬間――、


「ちーちゃんはいつもそれだねぇ」


 ――ふいに耳元で声がして、変な悲鳴をあげそうになった。


「ちょっ――急にやめてください」

「怒らない怒らない。私も飲み物買いに来ただけなんだから」


 ……本当にそれだけなら、人の耳へ息を吹きかけるようなことにはならないと思うのだが――飲み込む。

 そして、恨めしく彩弓さんの指先を目で追っていると、


(……あれ?)


 彼女の指は、無糖の缶珈琲を選んで止まった。


「今日、甘いのじゃなくていいんですか?」

「んー? まあ、たまにはね?」


 自販機の白っぽい蛍光灯に照らされながら、彩弓さんは缶を開ける。

 ベンチで座って飲もうと考えていた私も、彼女の傍で同じようにフタを開けた。


「桜、綺麗だったねぇ」


 冷たいスチールに口付けていると、そんな言葉が聞こえてくる。


「そう、ですね」

「……来年も、また来たい?」


 微笑む彩弓さんは……走った直後だからか頬がうっすら赤く――、


「……そうですね。また来年、来れたら来たいです」

「じゃあ、また来れるようにしなきゃだね」


 ――闇夜に向かって笑う横顔は、何故だか散りゆく桜の花弁を連想させた。


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