9‐3.蕩けてしまいます
そうして耳を揉まれること、しばし。マティルダお婆様が、台所から戻ってきました。
ほんの少し離れていただけなのに、見違える程毛艶が良くなっています。
一体台所で何があったのでしょうか。ドキドキとわくわくが止まりません。
「いや、すまないなレオン。折角実家へ帰ってきたというのに、放っておいてしまって」
「別に、どうでもいい」
「そうか、ありがとう。不甲斐ない母親を許してくれるだなんて、優しい子だな、お前は」
ソファーへ腰掛け、マティルダお婆様は目を細めました。
「では、レオン。優しいお前ならば、私に孫を抱かせてくれるだろう? こちらの準備はいつでも出来ているぞ」
さぁ、とばかりに両手を広げるマティルダお婆様。
レオン班長は、ライオンさんの尻尾で一つ、ソファーの座面を叩きます。ですが、ご機嫌が直ったせいか、渋々といったていで、わたくしをお婆様へと差し出しました。
「丁寧に扱えよ」
「当然だ。ありがとうレオン。信用をしてくれて、私は嬉しいぞ」
ライオンさんの耳をぴこりと振ると、マティルダお婆様は、逞しい両腕でわたくしを抱き抱えました。
抜群の安定感と、すっぽりと嵌り込むようなフィット感に、思わずギアーと声が出てしまいます。
「おぉ、軽いな。それに、レオンが赤ん坊の頃よりも随分と小さい。やはり
あうぅ、軽く揺さぶられただけですのに、わたくし、すこんと眠ってしまいそうです。驚く程の心地良さです。もうここから動きたくありません。
「綺麗な毛並みだ。真っ白で、汚れ一つない。触った限り、体はどこもかしこも柔らかくて、怪我をした様子もない。大切に育てられているようで、安心した。初めての子育ては、戸惑うことも多いだろう。私がそうだったからな。もし分からないことがあれば、遠慮なく聞くといい」
はぁん。お婆様に撫でられる度、どんどん体から力が抜けていきます。まるで、皮膚から幸せがしみ込んでいくかのようです。
もっと撫でて欲しくて、わたくしはマティルダお婆様の手に、思わず擦り寄ってしまいました。
「ふふ、なんだシロ。そんなに顔を擦り付けてきて。痒いのか?」
『あぁん、違いますぅ。撫でて欲しいんですぅ』
「そうか、痒いのか。では、ばぁばが掻いてやろう。ここか? それともこっちか?」
『うぅん、どっちもいいですぅ。最高ですぅ』
「気持ちいいか、シロ?」
『はぁー、とっても気持ちいいですぅ。わたくし、蕩けてしまいますぅ』
「ふふ、そうか、気持ちいいか。それは良かった」
おでこを指で優しく擽られ、思わず唸り声が出ます。なんだか堪らなくなり、わたくしは、前足でマティルダお婆様の手を抱き締めてしまいました。
お婆様は笑いながら、わたくしの好きなようにさせてくれます。それどころか、わたくしに抱えられた手の指を動かし、こしょこしょと顎の下を撫でても下さいました。うっとりとした溜め息しか出てきません。
わたくしは今、きっとだらしない顔をしているでしょう。ですが、もう良いのです。周りの目など、お婆様の圧倒的包容力の前では、意味などないのです。
あぁ。このままお婆様のお家の子として暮らせたら、どんなに幸せでしょう。毎日お婆様の腕に抱かれながら、撫でて頂けるのでしょうか? もしそうならば、それはとても素敵な日々でしょうね。
そんな想像に口元を緩めつつ、わたくしは夢見心地で目を瞑りました。
すると、どこからともなく、ペチン、ペチン、という音が、聞こえてきます。
なんだか聞き覚えのある音です。
わたくしは、閉じていた瞼を、徐に持ち上げました。
そうしましたら、マティルダお婆様のお隣に座っているレオン班長と、目が合います。
凄まじく迫力満点なお顔を、されていました。
眉間にはこれでもかと皺を刻み、元々鋭い眼光は、一層鋭利に尖らせています。口角も、見たことない程下がっていました。ライオンさんの尻尾は頻りにソファーの座面を叩き、不機嫌をこれでもかと撒き散らしています。
そのような状態で、只管わたくしを凝視するのです。非常に厳めしいです。
しかし、全身を纏う気迫は、戦場に降り立った鬼神というには殺気もなく、かと言って、伝説の暗殺者というには冷酷さがありません。
そう。
例えて言うならば、頬をぷっくりと膨らませ、浮気を咎める恋人の如き空気感です。
『……あ、いえ、違いますよ、レオン班長? 別にわたくし、本当にマティルダお婆様のお家の子になろうだなんて、これっぽっちも思っていませんからね? そんな、わたくしがレオン班長の元を離れるなど、あるわけがないではありませんか』
ギアギアと弁解をしつつ、抱え込んでいたマティルダお婆様の手を、さり気なく離します。ついでに、おほほと笑ってみせました。
レオン班長からの視線は依然刺々しいですが、きっと誤解だと伝わったでしょう。
えぇ、そうですとも。マティルダお婆様に未だ抱えられたままですが、わたくしに疚しいことなど何一つないのだと、分かって下さった筈です。わたくしはそう信じます。
「しかし、随分と大人しい子だな。初対面の私が撫で、あまつさえ抱き上げても、抵抗らしい抵抗を一つもしないなんて。豪胆なのか、単に人見知りしないだけなのか。どちらにせよ、こうも警戒心がないと、少々心配になるな。そんなにのんびりしていては、野生で生きていけないぞ?」
いえ。わたくし、今の所野生で生きる予定はありませんので。
「ほら、シロ。遠慮せずに私を殴ってみろ。気安く触るなと怒ってみろ。ほらほら」
マティルダお婆様は、わたくしのお腹をぽんぽんと叩きながら、そう煽ります。
ですが、淑女なわたくしは、当然殴ることも怒ることもしません。そもそも、マティルダお婆様に触られるのは、嫌ではありませんからね。殴る理由がないのですよ。
「ふーむ、反応なしか。可笑しいな。レオンが赤ん坊の頃は、こうして腹を触ると嫌がって、私やクライドに殴り掛かってきたのに。ラナも、殴り掛かりこそしなかったものの、元気が有り余っていたぞ。そこら中を動き回って、変な所に嵌り込みやしないかと油断出来ない位だった」
と、不意にマティルダお婆様は、レオン班長を振り返ります。
「あぁ、そうだ。昨日、ラナから連絡があったんだ。どうやら仕事が忙しいらしく、しばらくは実家に帰ってこれないのだと。お前と会えなくて寂しがっていたぞ? 一回通信を入れてやったらどうだ?」
レオン班長は、ライオンさんの耳をぴくりと跳ねさせます。しかし、マティルダお婆様を一瞥するだけで、何も言いません。
お婆様の口ぶりからして、そのラナさんという方は、レオン班長のご兄弟でしょうか?
「ラナは今、末姫のジャスミン様の警護に就いているそうだぞ。基本的には手の掛からない方らしいが、流石ドラゴンの獣人なだけあって、一度泣かれるとそれはもう大変なようだ。先日も、衝撃波で吹き飛ばされ、中庭の池に落ちたと言っていたな」
そう語りながら、マティルダお婆様は、わたくしのお腹に置いていた手を、ゆっくりと上へ滑らせていきます。顎の下をこしょこしょと擽られ、わたくしの体からは、また力が抜け始めていきました。
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