三章

「・・・ああ、やっぱり俺は大した怪我じゃなかったから。・・・うん、友達もひとまず大丈夫そう。その子の両親が病院に来るまで待つから、それで大丈夫そうだったら夜には帰るよ。・・・ああいや、いいよ。自分で帰れるから。うん・・・うん、じゃあ後でな」

 事件の起きた日、俺は妹の遥に夜には家に帰れそうだということを伝えるため、電話を掛けていた。今日とんでもないことが起こってしまったのはわかるが、頭でそれを整理する時間もなく、現実に起きたことだという実感をあまり得られていない。

「待って、お兄ちゃん」

「ん、どうした?」

「まだお父さんと連絡取れなくて・・・なるべく早く帰ってきて」

「わかった」

「・・・待ってるから」

 どうやら父は会社の都合で忙しいらしい。別にそうと決まったわけではないが、それ以外にない。父は新宿に勤めているわけではないので、事件そのものに巻き込まれているはずもない。遥が可哀想だから、なるべく早く帰ってあげよう。帰りに、あいつの好きなアイスでも買っていくか。


「・・・」

 妹の心配をしつつ、またさっきまでいた病室に戻り腰を落ち着かせる。今日初めて話した友達、小野さんの寝顔が目に入る。気を失って倒れてからは、ここに連れてくるまでずっと苦しそうな顔をしていたが、ベッドに寝かせてからはかなり穏やかな顔になったようだ。とは言え、幸せそうに惰眠を貪っているわけではない。時折苦しそうに、小さく声を漏らすことがある。

「・・・」

 女の子にしてもそれほど高くない身長、雪のように白い肌、平均体重よりも軽そうな細めの身体。触れれば簡単に壊れそうな、華奢という言葉が完璧に当てはまるその風貌を眺めていると、今日の死者が大勢出てしまった事件の中から生還できたことが奇跡のように感じられる。いや、もしかすると彼女ひとりでは危なかったのかもしれない。たまたま映画館から俺と行動を共にできたことが、彼女の幸運だったとも考えられる。


 何分くらい、そうして無言の時間を過ごしていただろうか。気が付くと窓の外は真っ暗になっていて、結構長い時間、彼女の呼吸のリズムに時の流れを委ねていたことがわかった。

 そう思っていた矢先に、今いる病室に徐々に近づいてくる会話の声が聞こえてきた。おそらく、小野さんの両親が到着したのだろう。小野さんは俺が病院に連れてきてからも目を覚ましていないので、代わりに日高さんから彼女の自宅の連絡先を教えてもらい、状況を伝えた。当然ではあるが、親御さんは娘が事件に巻き込まれて目を覚まさないと聞いてとても驚いた上で、とにかく一秒でも早くこちらに来ると話していた。気を失っているだけで大きな怪我はしていないと一応伝えてはいるが、それでも心配になるのは無理もない。

 病室に入ってきた男女の大人が、こちらの方を見てはっとしたような顔になったので、間違いないなと思い、会釈しながら立ち上がった。

「あなたが、宮尾さんですか?」

「はい。小野さんと同じ大学の学科で、宮尾涼と申します。雪菜さんのご両親ですよね?」

「そうです。色々とありがとう、世話を掛けてしまったようで」

 小野さんのお父さんがこちらに手を差し出してきて、慌てて握手をする。俺も結構背は高いのだが、それよりももう少し背が高くて、非常に厳格そうな雰囲気を纏った男性だ。小野さんは小柄だから、身長に関しては遺伝しなかったんだな、なんて少し思った。

「いえ、そんな。当然のことをしただけですから」

 小野さんのお母さんとも軽く挨拶を交わしたが、娘がとにかく心配なようで早々にベッドに駆け寄っていた。雪菜、と呼びかけているがまだ目を覚ます様子はなく、後ろから小野さんのお父さんが「休ませてあげなさい」と静止していた。

「何があったのか、教えてもらえませんか」

 スーツ姿の小野さんのお父さんが、着ていた上着を脱いで腰掛ける。よく考えたら日曜日なのだが、仕事があったのだろうか。

「もちろんです。事の発端は、昼過ぎに映画を見終わったちょうどのタイミングで・・・」


 それからしばらくは、小野さんのご両親に事件の様子をありのままに伝えた。二人とも、俺が話している間は口を挟むこともなく真剣に耳を傾けてくれていたが、病院に来たところまで話し終えると「辛かったでしょう、宮尾さんも」と小野さんのお父さんが言って、優しいような憐れむような目を俺に向けた。俺は確かに大変な目に遭ったとは思うが、自分がいなかったら彼女がもっと危なかったかもしれないと考えると辛いとは思わず、ただ「とにかく、無事にここまで来れただけ、よかったです」とだけ返した。

 そうして状況説明をしていると、小野さん本人がベッドの上で身体をもぞもぞと動かし始め、眉間に少しだけシワを寄せながら、うう・・・と唸った。ついに目を覚ましたかと思い、俺は小野さんのベッドの方へと意識を向けた。彼女がゆっくりと目を開き、病室の天井をぼんやりと見つめている。

「小野さん・・・? 目、覚めた?」



「もしもし、遥?」

「お兄ちゃん、どうなった?」

「さっき病院から出たところだ。今から家に帰るから、もう少し待っててな」

「わかった。まだお父さん電話に出ないから・・・早く来てね」

「わかってるって。じゃあ、後で」

 雪菜の目が覚めて、本人の様子も大丈夫そうだったので俺は家に帰ることにした。病院を出て、駅に向かう途中で遥に一応電話を掛けておこうと思って、帰ることを伝えた。何度も早く帰ってきてほしいと言うあたり、本当に不安で寂しいのだろう。帰りにコンビニに少し寄って、遥が好きなアイスを買ってあげよう。昔からよく、アイスを買ってくれと親にねだって断れた挙句、拗ねた顔で今度は俺に擦り寄ってきたものだ。流石にあいつが高校に入ってからはねだられた覚えはないが、今でも好きなのは変わらないし、買ってあげれば少しは喜んでくれるだろう。


「ただいま」

 玄関の扉を開けた音で俺が帰宅したことに気付いたのだろう。遥がこちらに向かってすっ飛んでくる音が聞こえる。靴を脱いでいると、玄関の前の廊下の一番奥の扉が少し開かれて、隙間からひょこっと遥の顔が覗いた。

「・・・遅いじゃん」

「いや、なるべく急いで帰ってきたって」

「じゃあそれは、なに」

 遥が俺の手に下げられているビニール袋を、ジト目で指差してくる。なんだ、俺は咎められているのか?

「ふーん。確かにちょっとだけ寄り道はしたけどさ、じゃあこれ、いらないんだ」

 コンビニで買える中では一番高い、遥の好物のカップアイスを袋から取り出してチラつかせる。それを認識した途端「あっ!」とか言って、遥が俺の方まで駆け寄ってくる。ひったくるようにして袋を手に取った遥が中身を覗き込んでいる。その横をすり抜けて、洗面所に手を洗いに行く。

「あれ、一個だけじゃないよお兄ちゃん」

 その言葉の裏には、私が全部食べていいの、というニュアンスが含まれているのだろう。

「バカ、俺も一緒に食べるんだよ」

 やったーやったーと言いながら、小躍りでリビングの食卓に向かっているのが目に入る。なんだよ、普通に元気じゃないか。だったらどちらかと言うと、事件に巻き込まれて頭に包帯を巻いている兄のことを心配してほしいものだ。


「痛くない?」

 そう言って、スプーンを持っているのと反対の手で俺の額に触れようとしてくる。

「それを聞くなら触ろうとするな」

 別にそんなに大した怪我じゃないが、触られたくはないので遥の手をパシッと払い除ける。質問攻めに遭うのかと思ったが、案外深く触れてこないで気を遣っているようだ。

「ねえお兄ちゃん」

「なに」

「無理してない?」

「してないよ、全く」

「・・・よかった」

 直後、俺の最後のひと口という量だけ残ったアイスが、遥のスプーンにかっ攫われた。

「あ、おい!」

 見ると、遥の分はもう全部なくなっている。ニヤニヤしているが、これは大方照れ隠しによる行動だろう。

「全く・・・」

 立ち上がって、遥の頭を軽く小突く。「痛い!」と騒いでいるが、絶対痛くない。空になった二つのアイスのカップを手に取って、流しに持っていく。

「じゃあ・・・今日のこと、聞いてもいいの?」

「ああ、いいよ別に。トラウマになったわけじゃないし」

 それからは結局、根掘り葉掘り聞かれた。その代わりと言ってはなんだけど、遥の方も少し大変だったようなので、お互いの状況を報告し合う形になった。結局、お母さんは精神的なショックによって気を失ってしまっただけで、明日にでも退院できるみたいだが、お父さんはどうなってしまったのかという話に行き着いた。心配だなと、二人でお父さんのことを話していたちょうどそのタイミングで、俺の携帯にメールが届いた音がした。

「あれ、父さんだ」

「嘘?!」

「本当本当。なんだこれ、なんかURLだけ貼ってあるけど」

 遥がぐいっと顔を近づけて、俺の携帯を覗き込んでくる。画面が見えなくなるので、無言でその頭を押し戻す。このURLって、WEBミーティング用のアプリケーションのものだな。何でこれを説明もなしに送りつけてきたんだろう。

「よくわからないけど、PCで開いてみよう」

 俺はそう言って、自分のノートパソコンを部屋から持ってきて食卓に置き、二人で画面が見えるようにしてメールからURLを開いた。

「誰も映ってないな」

 接続すると、向こうの映像が映し出されてどこかの研究室のような場所から繋がっていることがわかったが、見える範囲には誰もいない。

「なに、これ」

「ビデオ通話と一緒だよ。向こうの映像とこっちの映像をお互いに映して、会話できるんだけど」

 遥にそう説明していると、バタバタと音がしてから画面内にかなり慌てた様子の父親が入ってきた。

「お父さん?」

 遥が横から呼びかける。彼はしきりに周りを見渡しながら、近くに誰もいないことを確認するとカメラの方に目を向けて、荒い息を整えて口を開いた。何をそんなに警戒しているんだろうか。

「二人とも、新宿のニュースは見たか?」

 今まで連絡が取れなかったのはなぜなのかとか、今どこにいるのかとか、状況説明もなくかなり焦った様子で本題をいきなり切り出してくる。ただならぬ雰囲気を感じ取って、俺と遥は顔を見合わせたが、余計なことには突っ込まずに質問に答える。

「見たも何も、俺は今日現場にいたんだよ。事件に巻き込まれて、病院に行ってた」

「何?!」

 お父さんはそれを聞くと更に動揺した様子で言葉を詰まらせたが、一旦間を置いて、言いにくそうに目を伏せてからこう返した。

「今日の事件は、お父さんの会社が起こした可能性が高い」

 ・・・。何を言っているんだ? 意味がわからず、返す言葉が出てこない。

「え、どういうこと?」

 代わりに遥が、深く考える前に脊髄反射で聞き返していた。まあ、その方が助かる。

「知っていると思うけど、お父さんの会社は製薬会社だ。しかも国内有数で、大きな研究施設も持っている。本社がある新宿の地下にもあるんだ」

 喋りながら地面を何度か指差すジェスチャーをしているので、彼が今いる場所が新宿の研究施設だということだろう。

「前々から上層部の一部が怪しい動きを見せているとは思っていたんだが、それが今回の事件によって、何らかの人体実験をしていたことがほぼ明らかになった」

「人体実験・・・?」

 俺と遥の声が重なる。現代の日本でそんなことが起こり得るのかという驚きを隠せない。

「表向きに世に出している薬は一般社員を含めて作っているから関係ないんだが、限られた極一部の人間が、人体に生理的熱量を外部から獲得させるための実験を行っていたらしいんだ。それも実際に人を使って、だ」

 待ってくれ、待ってくれ。理解が追いつかない。一応大学は理系の学部で、生物の講義なんかもあるが、逆に言っている内容がめちゃくちゃなのが理解できる分、意味がわからない。生理的熱量を外部からということは、食べ物を体内に取り込まずに何らかの方法で熱量を身体に伝達させるということだ。

「お父さんは、その実験に携わっていた人間からリークを聞いたんだ。今までかなり厳重に情報が取り扱われていたようだが、今日の大事件が起きてしまったことで罪の重さに気付いたらしい。ただ、会社側も全力で口封じに動くだろう。リークを聞かされたのは数人いるんだが、もうその中の何人かは連絡が取れなくなっているらしい。会社に消されたのかも・・・」

「お父さん、一回落ち着いて。それで、その人体実験と新宿の事件はどう関係があるんだ?」

「具体的にはわからない。ただ、その実験の中心にされていたのは会長の孫娘らしくて、起爆剤になったのはその子だろう。研究施設の一番セキュリティの強いエリアが、今日の揺れを引き起こした中心地になっているから、そこで実験が行われていたはずだ」

「待って、どうしてその子が原因だってわかるの?」

 しばらく黙っていた遥が、会話の内容が頭の中で繋がらないらしく、聞き返す。

「いや、あくまで予想だというだけだが、地震に近いエネルギーを放出するようなものは爆弾であろうと、この研究施設に存在するとは考えにくい。エネルギーを外部から取り込む実験をしていたとすると、被検体の女の子が過去の実験で蓄積したエネルギーを一気に放出したんじゃないかと思うんだ。キャパオーバーか何かで」

 つまり、核爆弾でもなければあの規模の衝撃を引き起こすようなものは現実に存在するとも思えず、しかし実際に起こったとなれば、それこそSFみたいなことをしていた実験が原因だったと考える他ないということか。

「じゃあ、その後に新宿の人たちが発火したりしたのは・・・?」

「それなんだが・・・さっき涼が現場にいたと言っていたよな」

「ああ、いたよ。友達も入れて四人で遊びに行ってたんだ」

「何か異変はなかったか?」

「俺は特に何もなかったけど・・・友達のひとりが急に高熱を出して、頭痛がするって言ってたな。そのまま病院に連れて行って、今は入院してるよ」

 そう伝えると、お父さんは少し考えるような様子を見せてから、こう言った。

「お父さんもまさかとは思ったんだが、リークした人が、被検体の女の子の特異な能力が事件発生時に周囲に伝播した可能性があると言っていたんだ。発火や爆発した人がいたのは、それが原因じゃないかと」

「伝播した? 別に、俺は何ともないけど」

「無作為に選ばれているわけではなく、塩基配列が近しい存在に強く影響を与えたのかもしれない。つまり、その被検体の女の子の遺伝情報にある程度近い人ということだ。中途半端に近かった人は、その特異な能力に適応しなかったのか、あるいはエネルギーを蓄積できる許容量が少なかったか・・・」

 遥がもはや何を言っているのか完全にわからないといった顔で、俺の顔を見上げている。

「とにかく、細かいことはこれから調べる。お父さんも会社に追われるかもしれないが、ただ逃げるわけにはいかない。隠密に調査して、必ずこの悪事を内部告発するよ。具体的にどのような実験が行われていたのか、被検体の女の子のことも」

「・・・俺も事件に巻き込まれたから真相を知りたいという気持ちはあるけど、無理はしないで。お父さんが危険だと感じたら、身の安全を優先してほしい」

「ああ、ありがとう。その熱を出した友達のことも、注意して見てあげてくれ。高熱なだけなら、大丈夫かもしれないが」

「わかった・・・」

 その会話を最後に通話は途絶えた。あまりの情報量の多さに、頭がパンクしそうになる。

「ねえ、結局どういうこと・・・?」

「お父さんの会社がこっそり人を使って実験をしていて、被検体の女の子が大爆発を引き起こしたかもしれないってことだ。しかもそのせいで、新宿にいた人の中で遺伝情報が近い人に、そのSFみたいな能力が伝染ったかもしれないんだって」

 自分で説明をしていて、馬鹿げた話だと思う。頭の中が、今日の雪菜との出来事で埋め尽くされる。そして、見逃すことのできない大きな違和感にたどり着いてしまった。

 そうだ、あの凍らされたコーヒー。直後に人が爆発したから意識が逸れていたが、あれは明らかに雪菜がそうさせた。少なくとも、彼女が事件によって何か普通ではない状態にさせられたことを確信する。能力が伝播? 適応できずに爆発? 馬鹿言うなよ、そんなことが・・・。


「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば」

 遥に何度も呼びかけられているのに気付かないので、肩を叩かれて現実に引き戻される。

「お母さんも入院してるし、ひとりだと怖いから・・・今日はこっちにいてくれない?」

「あ、ああ・・・いいよ」

 まだ上の空で返事をしつつ、リビングのソファーで横になる遥をそばで見守る。

「ねえ、どうなっちゃうのかな・・・」

「わからない・・・けど、俺は大丈夫だから」

 不安そうにしている遥の頭に手を置く。両親もいない、俺も事件に巻き込まれた、となると不安に感じるのも仕方がない。なるべく安心させてあげられるように、優しく頭を撫でる。

「いなくならないでね・・・」

「ならないよ」

 そう言って作り笑いを浮かべながら、遥が寝息を立て始めるのを待つ。流石に今日は俺も疲れたな。明日の朝、お母さんの見舞いに行った後、昼頃に翔太と日高さんも誘って雪菜の見舞いに行こう。

 頭の中を巡る様々な不安や憶測が俺を支配しているものの、やはり疲れには抗うことができず、ゆっくりと意識が遠のいていく。遥を寝かしつけたら自分の部屋に戻ろうかと思っていたが、今日はこのままここで寝てしまおう・・・。大丈夫、きっと全部、大丈夫。



 深夜。涼くんたち三人が、見舞いに来てくれた日の夜。今までの熱っぽさとは比べ物にならないほどの苦痛を感じ目を覚ます。

 身体の内側が凍えるように寒いのに、焼けるように表面が熱く感じる。まるで自分自身が氷になって、何かから無理やり熱を奪っているようだ・・・。そう考えながら、視界に映るものを脳が認識した瞬間だった。


 目を疑った。


 自分がいる病室の床や壁、天井に至るまでの大部分が凍りついている。まるで空中の水分が突然氷になって、壁に張り付いているように見える。

 恐る恐る、他の人のベッドとの間を仕切っているカーテンに手を触れる。確かにカーテンに触れたが、それは揺れることもなく非常に冷たい温度で私の指を押し返してくるだけだった。その感覚をもって、私は確信した。


 これは夢ではない。


 昨晩の病院の廊下を彷徨っていた夢、あれも夢ではなかった可能性が高くなる。拭いきれない嫌な予感と、絶望にも似た恐怖を覚えながら足を前に出す。他の人が寝ているはずのベッドの前の、閉じられたカーテンに手を伸ばした。やはりカーテンは凍っていて思うように動かせないが、無理やりその中に踏み入る。

「嘘・・・」

 心のどこかでそうなっていることは予想していたが、現実として目に映ると俄かに信じることができない。と言うよりも、信じたくないと表現したほうが正しいか。


 病室の入院患者は、私を除いて全員、凍死していた。


 私は病室を飛び出していた。何処へ向かうというのだろう。とにかくそこだけは離れたかった。病室の外まで、ああなっているわけではないようだ。真っ暗な廊下を走り、待合室を抜け、受付を通り過ぎ、玄関を出る。昨晩の夢のことがまた頭をよぎる。いや、夢ではなくて現実だったのか。つまり、さっきの光景と、今朝院内で聞いた噂と、与えられた条件から導き出される結論は・・・。


 私が、殺した。


 そんなはずがない。心の中でそう思いたい自分もいるし、実際に確定的な理由があるわけでもない。映画じゃあるまいし、私が複数人の命を無意識に奪うなんてこと有り得ないよ。自分は何も悪くない、そう自分に言い聞かせようとするも、反対に自分がやったのでなければ説明がつかないという冷酷な自分もいる。

 たまたま、自然災害か何かで病室の中が凍ってしまった? 自分以外の全員が亡くなっている中で、私だけがすやすやと眠っていて? それこそ、有り得ないんじゃないのか。

 パニックになりながら、正確な位置はわからないが自分がいた病室のあたりを建物の外から見上げる。逃げないほうがよかっただろうか。後で誰かに見つかった時、私だけがあの場所からいなくなっていたら、私が犯人として指名手配されるだろうか。というか、されるだろう。逃げているということは、そういうことだ。

「あの、大丈夫ですか・・・?」

 突然声を掛けられて、ビクッとする。私のただならぬ様子を見かねて、近くにいた男性が心配して話しかけてきたようだ。

「・・・あっ、あ・・・」

 まともに声が出せない。私に近寄らないでと手を前に突き出して、首をぶんぶん横に振る。余計に男性が心配そうに眉をひそめて、こちらに向かってくる。私に近寄ったら、もしかしたら、また・・・。


 足元のアスファルトに、冷気が走った。見る見るうちにそれは男性の方へと近付き、彼の不思議そうな顔を呑み込んだ。

「逃げて!」

 私が叫びながら手を伸ばしても、もう意味はなかった。男性は一度痙攣するように身体を震わせた後、膝から地面に崩れ落ちてそのまま息をしなくなった。そこでようやく私は気が付いたのだ。伸ばした指先から身体の内側へと入り込んでくるように、燃えるような熱が私の身体を伝い、凍えるような寒さを和らげようとしていることに。・・・そうだ。今までの、全て。全て、そういうことか。

 男性が倒れている横に、私も両膝をつく。力が入らなくて、立ち上がることができない。このまま朝になって、通報でもされて逮捕されるのかな。怖いとか逃げたいとかではなく、ただ呆然としてしまって気力が湧かない。どんなに声を大にしたって、勝手にこうなってしまって私は何も悪くないのだと、誰も信じてくれることもないだろう。


「雪菜!!」


 幻聴・・・? 本当に心が壊れそうな時、在りもしないものを心が生み出してしまうものなのだろうか。確かに、私が求めているのは彼の・・・。

「雪菜、大丈夫か?!」

 はっとして、声の方を振り返る。どうして、どうして貴方は私を助けに来るの。なぜ、深夜に病院の前にいるのか。なぜ、私が危ない時にそばにいるのか。冷静に考えれば疑問が山ほど浮かんでくるが、今はそんなことはどうでもいい。

「涼くん・・・こっちに来ないで」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。はっきりと拒絶しないのは、彼を拒絶してしまうことを一番拒絶しているからだろう。

「大丈夫だよ」

 私の声が聞こえていなかったのかな。それとも聞こえていながら、強引に歩み寄ってきたのかも。涼くんが私の目の前まで来て、私の手を握る。温かい、人の温もり。

「・・・離れて」

「どうして」

「私、人を殺したかもしれない」

「はっきりした証拠があるのか?」

「ううん、でも絶対そう」

「確証がないなら、絶対じゃないよ」

「涼くんも、危ないんだよ!」

 私が涼くんと目を合わせられずに、握ってくれている手に視線を落としながらそう強く叫ぶと、彼は私の顔を両手で包むようにして無理やり上に向けた。彼の真っ直ぐな視線が、私を貫く。

「ほら。大丈夫だって」

 やっぱり、冷静に考えれば疑問は湧き出てくる。なぜ、彼だけ大丈夫なのか。今は大丈夫なだけで、また危険にさせる時が来るのではないか。しかし弱った私の心は、その優しい温もりに抵抗する力を残しておらず、彼に身を委ねるしかなかった。

「涼くん・・・怖いよ・・・」

 彼の背中に腕を回して、胸のあたりに顔を埋める。涙が溢れ出てきて、止まる気配がない。なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。これからどうなるの。私が何か、悪いことをしたの?

 彼は何も言わずに私の頭を撫でる。何というか、慣れた手つきというか、普段そうやって誰かに優しくしていることが当たり前のような、私を安心させてくれる温度。


 遠くで、パトカーのサイレンが聞こえる。ここに向かってきているのだろうか。もう誰かが通報したのかな。

「行こう」

 涼くんがその場を離れようと、私の手を引く。行くって、どこへ? 私のつまらない疑問は口を出ることもなく、彼にただ手を引かれて歩く。


 逃げようって、ことなのかな。


 これから先、きっと色んな人が、社会が、世界が、私を除斥しようとするだろう。その全てから逃げられるのかな。仮にそれらから逃げられたとしても、一番近くにある、私を最も許さないもの。


 私の内側にある ”それ” からは、きっと逃げられないのだろう。

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