四 天文時計の娘

 その夜、寝台の横にはヨゼフだけがついていた。


 髪を解いた夜着姿は、いかにも病人に見えるだろう。着替えさせくれたエリシュカは、湿疹を見て狼狽していた。

 心配させたくなかったのに。

 内心嘆息しつつ、ヤンターは薬湯を飲み干した。ヨゼフに頼んで、今宵はとびきり濃いのを淹れてもらった。だからひときわ苦かった。


「叔父上が遺した本が、ようやく読めた」


 呟くと、窓外の月を眺めていた彼の眼が、寝台に臥せるヤンターに向いた。


「二十年前、天文時計が止まった理由が分かった」


 閉じ込められ、秘密を持てなかった叔父が、自らの動力で守りぬき、伝えてくれた真実だった。


「恋をしたから。召使のリブシェを好きになったの」


 ――この本が開いたということは、君は恋に落ちたのだろう。


 オタカルは、恋をしたヤンターが触れたときだけ、留め金が開くようにして手記を遺した。姪の何らかの助けになることを願って。


「動力は、つまるところ技師の思念の力なの。だから、色恋に思考を割いてはいけない。動力に使うべき力が、足りなくなってしまう」


 動力技師が、人に会わずに過ごすのはそのためだ。暗殺の防止もあるけれど、誰かと恋に落ちないため。


 だが人の心に、鍵はかけられない。


「王は叔父に、自由も恋も許さなかった。私にも」


 蒸気機関の勢いは、留まるところを知らない。西方では、産業のあり方を根本から変えようとしていた。なのに王は研究の禁止を解かず、ヤンターに子を産ませて危機を乗り切ろうとしている。


「愚王を持った国は哀しい。蒸気機関を禁止するより、研究を進めるべきなのに」

「殿下」

「王家にとっては悲劇でも、国にとってはそのほうがいい」


 不意に眩暈に襲われた。もうすぐ死がやってくる。縁組をして誰かの妻になっても、間に合わない。すでに体は毒に侵されていた。


「愚王などと」


 戸惑うヨゼフに、ヤンターは淡々と言った。


「真実から目を背けている。王家の血脈を絶つ娘は、生きている」


 辻占つじうらが名指したのは、五年前に殺された町娘ではないと、ヤンターは悟っていた。


天文時計オルロイが止まった日に生まれたのは、私も同じ」


 青い瞳の奥が、かすかに揺らいだ。初めて話すことだった。


「考えてみれば当然ね。力を持つ本人は、いつでも力を絶つことができる」

「しかし」

「貴方も愚王だと思ったから、ここにいる」


 ヨゼフが微かにたじろいだ。きっと彼は、五年前に殺された技師の仲間だ。仇討かあるいは、王の目を覚ますため、ヤンターを殺しに来た。

 片目を閉じて炉の火を見続ける鍛治仕事に縁があったから、片眼鏡モノクルが要る目になったのだろう。強すぎる光に視力を奪われながら、蒸気機関を鋳たのだ。


「時計を直していたとき、工房では薬湯を飲まなかった。苦いのが嫌で、暖炉の火を消すのに使った。すると体調が良くなった」


 愕然としたヨゼフの目が、食い入るように彼女を見た。

 たぶん、砒素ひそか何かが盛られていたのだろう。今夜の薬湯がとどめになるはずだ。


「でも、飲んだほうが貴方や国のためだわ。王は動力の幻から離れなければ」


 縁談の一件でよくわかった。最後の一人が死ぬまで、父王は動力技師の力に縋り続ける。


「なぜ、毒と知っていて――」


 ヨゼフの言葉は先が続かなかった。静かな声にひそんだ良心の痛みを聞きとりながらも、ヤンターは精いっぱい笑んだ。


「恋をしたから」


 王のため削る宿命にある心を、ヤンターはどうしても彼に捧げたかった。籠のなかの動力技師が、最後に持ちうる自由として。

 心に立った漣の反響で、領主たちの時計を止めてしまっても。


琥珀姫ヤンター


 白銀のような月影が、ヨゼフの蒼褪めた頬を照らしだしていた。


「最期だけは、本当の名で呼んで」


 彼が寝台に置いていた手を、ヤンターの冷たい掌が求めた。侍医は武骨な手を重ねると、初めて口にする名を茫然と呟いた。


「――オフェリア」


 口許が、温かい安堵にゆるんだ。これでもう、思い残すことはなかった。




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機械仕掛けの滅びの美学 丹寧 @NinaMoue

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