三 碧眼の侍医


 五年のあいだにエリシュカは三回縁談を断り、侍医は交代した。後継は、八つ年上のヨゼフだった。


 ヨゼフは夜のような黒髪と、深い青の目を持っていた。思慮深く寡黙な彼の近くでは、歯車すら行儀よく、控えめに音を立てそうだった。

 彼は、若い齢に見合わぬ秘密を持っているかに見えた。秘密を持つことが不可能だったオタカルや、同じ境遇のヤンターには持ちえない深遠さがあった。澄んだ水をたたえる深い泉のように、どこまで見つめても、すべてを見つくしたと思えない何か。


 やがてヤンターのもとへは、オタカルの死後直した時計が、領主たちから送られてくるようになった。城の機構や鍵は問題なく動いていたが、ちらほらと時計が止まることに、王は気を揉んだ。

 ある日王はヨゼフを呼んで、ヤンターの体調を尋ねた。


「ご丈夫とは言えませんが、めだった病気もございません」


 簡潔に答えた侍医に、王は命じた。


「動力技師を健やかに保つため、あらゆる手を打つよう。近く王女に縁談をあてがう」


 新たな動力技師を得るため、王はヤンターに子を産ませようとしていた。後継がいない以上仕方なかったが、初めてヤンターは王に反感を覚えた。

 籠の鳥のような自分の命運が、王の意向ひとつで簡単に変わると思い知らされたからだった。そして王は、籠の鳥が動力を持ってはいても、意志を持つとは思いもよらないのだろう。


 ヤンターの思いをよそに、以来ヨゼフは毎晩、薬湯を調合した。美味とは言えなかったが、彼に恨みはなかったので、枕もとでしぶしぶ飲んだ。


 それでも体調が芳しくなかった冬の日、また領主から時計が送られてきた。ヤンターは蒼褪めた顔で時計を見つめた。濃紺の塗りに、砂金を散らした文字盤が星空のようだった。


「これからは領主の時計も、発条じかけに変えよう」


 吐息とともにヤンターは呟いた。エリシュカが労わるように背中を撫でた。


「でも、お体に障ります」


 動力を吹きこむなら、一瞬で仕事は終わる。しかし発条仕掛けに作り替えるとなれば、何日も作業しなければならない。


「大丈夫だ。ヨゼフもいることだし」


 それから十日ほど、工房にこもりきりで過ごした。

 心配したエリシュカは、常に工房にいるようヨゼフに頼んだ。エリシュカよりずっと年上のヨゼフは、あっさり了承した。


 炉端のスツールに腰かけ、彼は静かに本を読んでいた。ヤンターは書棚から炉端を振り返って、あるいは座って作業しながらこっそりと、ヨゼフの横顔を盗み見た。

 青い目に火影が踊るさまは神秘的だった。多くを語らないが、知性溢れる面立ちからそう感じるのかもしれない。


 口数の少ない彼と話すとき、視線はいつも片眼鏡モノクル越しにヨゼフの碧眼に引きつけられた。見つめていると、吸い込まれそうな心地を覚える。

 危険に思うべきその感覚は、しかし甘く快かった。好きなだけ耽溺していたかったが、いつも彼が目線を逸らして、陶酔は終わりを迎えた。


 夜に工房に籠るときだけ、ヤンターはひとりだった。薬湯を受け取って石の階段をのぼり、塔の最上階の工房に行った。月光と蝋燭の明かりのもと、細々と作業をした。


 王の庭にいた頃より、見晴らしはよくなった。だが、地上のぬくもりや喧騒を離れた塔は寒く、身を切るような静寂に満ちていた。

 時計を直し終えた日、ヤンターはヨゼフに言った。


「あなたにも、庭の家を見てほしかった」


 ヨゼフは顔を上げた。凪ぎ切った、だが問うような目線がこちらを見る。

 彼の視線を浴びるたび、心は熱を覚える。そして同時に怖ろしい。初めて抱えた秘密は、けっして暴かれたくなかったから。


「明るくて、きっと片眼鏡がなくても本が読めた」


 青い瞳があまりに静かなので、ヤンターはどぎまぎした。彼の背後の窓には、暮れかけた空に輝く星が見えていた。

 死んだ後にも、星は見えるだろうか。ヨゼフの目のような、碧い星に燃えていてほしい。


「私は務めのある場所へ伺うだけです」

「そうね。おかしなことを言った」


 ヤンターは医師から目を逸らすと、落ち着かない気分で本棚へ歩み寄った。何年ぶりかに、オタカルが遺した本に手を伸ばす。黄昏の薄赤い陽光を浴び、黒ずんだ金の彫り物が、背表紙に影を落としていた。


 何気なく手に取ると、ずっと外れなかった掛け金が、まるで鍵のように複雑な動きをした。そこに現れた鍵穴を見て、ヤンターは首から提げた鍵に手をのばした。

 握り手の四葉の横の一葉をねじり、いつもとちがう形が現れたブレードを鍵穴に入れる。留め金は弾けるような音を立てて開いたが、同時に暖炉の火が爆ぜたのでヨゼフには聞こえなかったはずだ。


 慄く手で表紙を開いた。

 最初の頁は空白だったが、ただ一行、見慣れた筆跡の走り書きがあった。


『この本が開いたということは、君は――


「姫様?」


 弾かれたように顔を上げ、本を閉じた。見ればエリシュカが、開いた扉の脇に立っていた。


「時計が仕上がったなら、私が持っていきます」

「ありがとう――よろしく」


 エリシュカは訝りつつも頷き、時計を取りに行った。いつも通り感情の窺えない目で、ヨゼフが二人を一瞥した。





 十日後、エリシュカが大きな包みを抱えて居室にやってきた。取り出されたのは琥珀色のドレスだった。彼女の体格より一回り小さく、したがってヤンターにぴったりの寸法だ。


「きっと姫様の目の色に合うと思って、従妹から借りてきましたの」


 王が縁談を見繕った貴族に会うため、この日は特別な装いをするよう言われていた。以前は女性らしい格好に興味はなかったが、今日は自分がどのように見えるか、楽しみでもあり、不安でもあった。


「どうぞ座って」


 エリシュカが髪を梳って編みこむまで、長い時間がかかった。ひどい湿疹を見られたくなくて、服はいつも通り自分で着た。下着を締めあげるのだけ手伝ってもらった。

 最後にエリシュカは、紅玉の首飾りをつけてくれた。


「東洋の果てで採れる宝石だそうです」


 貧血で白くなった肌に、血のように赤い珠が冴えた。鏡に映る姿は、機械油にまみれて働いている時とは別人だ。

 時計はますます頻繁に止まり、送られてきている。広場の天文時計が止まっていないのが、不思議なくらいだった。


 不意にノックの音が響いた。止める間もなく、エリシュカがすっ飛んで行って戸を開けた。

 何があったか知らずに足を踏み入れたヨゼフは、淑女らしい装いのヤンターを見て、一瞬呆けた顔をした。めったに開かない唇を半開きにし、言葉を失った。


「何とか言ったらどうです?」


 不安そうなヤンターを一瞥し、エリシュカが言った。ヨゼフはしばらく言葉を探した。


「驚きました」

「ふむ」

「美しくて」


 満足げに笑うエリシュカと目があって、ヤンターは口許を綻ばせた。鏡のなかの自分をもう一度見た。折からの不調で顔色は良好といえない。でも、弱り果てて死ぬ前に、この姿になることができてよかった。


 思ったときにぐらりと視野が揺らいで、ヤンターは椅子の上から、冷たい石の床に倒れ伏した。


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