第106話 一葉さんの一歩引いた立ち位置

 朝食を提供した後、いつものように瑞穂ちゃんを最寄り駅まで送り届けた帰り道。

 色々とぐちゃぐちゃになった思考をリフレッシュするようにぼぉっと歩きながら帰路についていると、ププッとクラクションが鳴った。

 顔を上げると、向こう側からやってきたプリウスが芳樹の真横に停車する。

 ドアガラスが開かれ、車内から一葉さんが顔を覗かせた。


「見送りお疲れ様芳樹君。今帰り?」

「はい、一葉さんは出社ですよね? 事故には気をつけて行ってらっしゃい」

「えぇ、心遣こころづかいありがとう。と言いたいところなのだけれど、ちょっと寄り道していかない?」


 そう言って、一葉さんはポンポンと助手席を叩き、芳樹へ乗り込むよううながしてくる。


「えっ……でも今から出社ですよね? 寄り道なんてしたら間に合わなくなっちゃうんじゃ……」

「少し遅れても何も言われないわ。こう見えて私、一応社長令嬢だから」

「いやっ、そんな変なところで特権を使われても……」

「いいから乗る! 後続車が来たら迷惑掛かっちゃうでしょ!」


 変なところに気を使いつつ、半ば強引に芳樹へ乗り込むよう急かしてくる一葉さん。

 周りの視線も気になってきたので、芳樹は仕方なく一葉さんのプリウスへと乗り込んだ。


「本当に大丈夫なんですか?」

「えぇ、ちゃんと連絡はしておくわ」


 そう言って、アクセルを踏んで車はスピードを上げて芳樹が歩いてきた道を引き返していく。


「最近随分と悩んでいる様子だけれど、芳樹君らしくないわね。どうかしたの?」


 ぼんやりとフロントガラスから街並みを眺めていると、不意に一葉さんが的を得た質問を直球で投げてきた。


「いえっ……大したことではないのですが……」

「あっ、言わなくていいわ。別に悩むのは構わないの。けれど、日々の業務に支障をきたすようじゃ、こっちだって心配になるわよ。前にも言ったけれど、管理人とはいえ芳樹君はもう寮の仲間で家族みたいなものなの。だから、相談ならいつでも乗るわ」


 実は今日、芳樹は考え込んでいたせいで、朝食の焼き魚を焦がしてしまったのだ。

 いつもの調子ではありえない凡ミスをする芳樹の様子を見て、一葉さんは心配してくれたのだろう。見事に気遣われてしまっていた。


「……ありがとうございます。でも今回に関しては、皆さんに相談できるような内容じゃないので」


 そう、だってこれは、芳樹自身が決めなければならないことだから。


「それは、私達わたしたちの誰を選ぶか困っているから?」


 赤信号で車が停車したタイミングで、含みのある笑みを向けながら首を傾げて問いかけてくる一葉さん。

 あぁ、一葉さんも薄々勘づいているのだ。

 何故芳樹が選ばなければならない状況に陥ってしまっているのかというバックグラウンドに……。


「何か他に決めなければいけないことがあるから、私達の答えも早急に出さなければいけなくなってしまったんでしょ? 違う?」

「……はぁ。やっぱり洞察力どうさつりょくが鋭いですね一葉さんは」

「まあ、これでも一応営業やってますから」


 言いながら胸を張り、ドヤ顔を浮かべる一葉さん。

 信号機が青に変わり、大通りへと出ると、駅とは反対側へと曲がる。

 車はそのまま再び細い住宅街の路地へと左折して、坂道を進んでいく。

 そして、坂を上り切ったところで、公園のような場所に出たかと思うと、一葉さんは迷わずその近くの駐車場へ車を止めた。


「さっ、着いたわよ。降りて頂戴」


 シートベルトを外して車から降りると、一葉さんは車の鍵を閉めて、公園内へと歩いて行ってしまう。

 芳樹も一歩後ろを歩くようにして付いて行く。

 公園内の舗装された道を歩いて行くと、突然開けた広場のような所へと出た。


「おぉ……」


 感動のあまり、芳樹は感嘆の声を漏らしてしまう。

 無理もない、その丘の上からは都内の家々を一望できるのだから。

 朝の都会の喧噪けんそうを忘れてしまいそうなほどに、芳樹はその景色に見入ってしまう。


「どうかしら? 都内にしては、気の安らぐいい所でしょ? 私のお気に入りの場所なの」

「はい……こんなところがあるなんて知りませんでした」

「ふふっ……気にいってもらえたようでなによりだわ」


 満足げに微笑む一葉さんを横目に、芳樹は高台からの景色を堪能する。

 都内の喧噪の隙間に入り込んだような心地よい静寂せいじゃく

 朝日を浴びて、かすかに春の訪れを漂わせる風。

 地面からただよう土の香り。

 自然を感じることで、芳樹の悩みや心が浄化されていく。


「聞かないんですか? どうして今すぐに結論を出さなきゃいけないのか……」


 すっきりした頭で芳樹から最初に出た言葉は、そんな純粋な疑問。

 芳樹の問いに対して、一葉さんは髪をき分けながら答える。


「確かに相談しなさいとは言ったけれど、芳樹君が悩んでいることだもの。本人の口から言わない限り、私から問いただすようなことはしないわ。でないと、本人に不快感を与えてしまうかもしれないでしょ?」

「そこまで考えなくていいと思いますけどね。少なくとも俺には」

「そうかしら? でも今回は多少なりとも、その悩みに私も関わってくるのでしょ? なら、芳樹君が結論を出すまで待ってあげるのも、大人としての慎みだと私は思っているわ」

「……ホント、一葉さんは大人びているのか子供じみているのかわかりませんね」

「何よそれ……」


 一葉さんは不貞腐ふてくされたように頬を膨らまして、不満の意を唱えてくる。


「だって時には凄い大人の対応をするのに、家事とかは人任せで、自分のわがままを突き通して生きてる。大人のようで子供です」

「かっ、家事は仕方ないでしょ! それに今の仕事だって、どこかの誰かさんが背中を押してくれたからで、私の意志ではないわ!」

「でも結局、その道に進むことを決めたのは一葉さんですよね」

「そ、そうだけど……」

「だから、一葉さんの言う通り、俺も自分で結論を出すことにします」


 今話していてわかった。

 いくら相談して背中を押してもらったとしても、決めるのは自分自身なのだと。


「芳樹君。一つ言わせてもらってもいいかしら?」

「はい、なんでしょうか?」


 一葉さんは少し頬を染めつつ、上目遣うわめづかいで見つめてくる。


「芳樹君が誰を選んでも構わないわ。でも、私はあなたのこと。ずっと待っているわ」


 それは、彼女の本音にして本心。

 心の底から思っている純粋な恋心。


「はい……ありがとうございます」


 彼女の望む答えを出すことが出来るかは分からない。

 けれどこうして気持ちを伝えてくれるだけでも、芳樹の心は多少軽くなったような気がした。

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