第83話 大母性霜乃さん

 翌日、芳樹はいつもと変わらず、女子寮の住人たちを見送った後、寮内の掃除を終えて、管理人室にて事務作業を行っていた。

 

 昨日のかっしーから受けた告白以来、二人の間には微妙な距離感が生じてしまい、就職活動の手伝いは中断。

 結局、『大学のキャリアセンターの人に相談に行ってくるっす』と言って、かっしーは大学へ向かってしまった。

 正直、かっしーの中ではずっと、芳樹へ対する想いというのがあったのだろう。

 それは彼女にとって、就職活動よりも優先すべきことであり、今一番取るべき行動だったのだ。

 芳樹の記憶している限り、他の住人のように、かっしーと昔どこかで出会ったという記憶はない。

 芳樹との関係性が一番浅いかっしーにとっては、真っ先に仕掛けなければという、焦燥感しょうそうかんのようなものもあったのだろう。

 けれど残念ながら、芳樹にとっては、仕事をすることの方が恋愛よりも最優先事項だった。

 

 この女子寮の管理人として、住人のみんなに幸せに暮らして欲しい。

 その願いの方が大きかったのだ。

 結果、芳樹と結ばれて幸せになりたいというかっしーの気持ちを傷つける形になってしまった。

 芳樹は無意識のうちに、『仕事と恋愛の両立』という検索ワードをネットで検索していた。

 これは、どの人類においても最大の悩みかもしれない。

 芳樹はそれほどに、心の中で矛盾むじゅん葛藤かっとうの渦に巻き込まれていた。


「はぁ……」


 芳樹は何とも言えないため息を吐いてしまう。


「あぁ、ダメだ、ダメだ!」


 芳樹は首をぶんぶんと振って、考えていた思考を停止させる。

 椅子から立ち上がり、芳樹は脳を休ませるために、共有のリビングへと向かった。

 リビングへと入ると、テーブルの席に座りながら何やら作業をしている霜乃さんに遭遇する。


「あら芳樹さん。お仕事は終わったの?」

「いえっ……ちょっと今日はなんだか捗らなくて。気分転換に休憩です」


 そう言って芳樹はキッチンへと向かい、湯沸しポットに水を注ぐ。


「霜乃さんも、お茶飲みますか?」

「えぇ、折角だから頂こうかしら」

「分かりました」


 湯沸しポットに少々多めに水を注ぎ、スイッチを入れる。

 待っている間、芳樹はぼけーっと霜乃さんの様子を眺めた。

 霜乃さんは、ずっとノートPCでカタカタとタイピングして文字を入力している。

 その様子はどこか、楽しそうに見えた。


「ブログの記事ですか?」

「えぇ……まあ、そんなところかしらね」

「やってみてどうですか?」

「そうね。自分をさらけ出すのって、最初は怖かったけれど、慣れると案外楽しいわ」

「それならよかったです。すすめてみた甲斐がありました」


 そんな他愛のない会話をしていると、湯沸しポットの中の水が沸騰して、熱湯へと変化してスイッチが自動で停止する。

 芳樹は、近くにあった急須にお茶っ葉を入れて、ポットで沸かしたお湯を少しずつ流し込んでいく。

 食器棚から湯飲みを二つ取り出して、そこへ香りを逃がさないよう、少しずつ緑茶を注いでいく。

 緑茶を注ぎ終えて、お盆に載せた湯飲みをテーブルへ持って行くと、霜乃さんはノートPCの電源を切って、ゆっくりと画面を閉じた。


「熱いので気をつけてください」

「ありがとう」


 お盆にのっている湯飲みを、霜乃さんはつつみ込むようにして手に取った。

 もう一つの湯飲みを芳樹は霜乃さんの向かい側の方へと置いて、正面の席に座り込む。

 ずずっとお茶を啜った霜乃さんは、頬に手を当てて、朗らかな笑顔を向けてくる。


「美味しいわ。芳樹さんのお茶の入れ方は丁寧で優しい味がするわね」

「ありがとうございます。恐縮です」


 お礼を言いながら、自分で入れたお茶を飲む。

 けれど芳樹には、いつも自分が淹れていることもあってか、違いというのがあまり理解できなかった。

 お茶を一口飲んで、思わず嘆息を漏らしてしまう。


「芳樹さん、何かあったのかしら?」

「っへ……?」


 霜乃さんに尋ねられて、ほうけた声をあげる芳樹。


「なんだか、ずっと考え込んでいる様子だったから」

「いえ……別に大したことではないのですが……」

「大したことでなくとも、芳樹さんがもし何か悩んでいるのだったら、いつでも相談に乗るわよ?」

「お気遣いありがとうございます。でも、本当に大したことではないので、大丈夫ですから」


 そう言って、芳樹が取り繕うと、霜乃さんはふぅっと大きく息をついてから顔を上げる。


「芳樹さん。ちょっとこっちに来て頂戴」

「えっ?」


 すると突然、霜乃さんは椅子から立ち上がり、くるりと体を反転させて、ソファーの方へと向かっていく。

 それを見て、芳樹も椅子から立ち上がり、霜乃さんの言われた通りソファーの方へと向かう。

 霜乃さんは、そのままソファへ腰かけると、芳樹の方を見上げて、優しい笑みを浮かべながら自身の太ももをトントンと叩いた。


「芳樹さん。こっちに来なさい」

「は、はい……」


 有無を言わせぬ雰囲気に、芳樹はソファーの方へと歩み寄る。


「それじゃあ、そのままソファに寝っ転がって、頭を私の太ももへ置いて頂戴」

「へっ!?」


 いきなりの霜乃さんからの言葉に、芳樹は狼狽うろたえる。

 けれど、霜乃さんはすっとした目で芳樹を見据え続けた。


「悩んでいる時は、母性を感じるのが一番リラックスできるのよ。ほら、早く来て頂戴」

「いやっ……でもさすがにそれは……」

「なら今度、一葉に『実は、芳樹さんに慢性的にセクハラを受けていて困っているの』って虚偽申告しようかしら?」

「なっ!?」


 住人と管理人という関係性を利用して、霜乃さんは芳樹に膝枕を強要させようとしていた。

 今の状況下で、そのようなことを出されてしまえば、女子寮の住人から白い目で見られることだろう。


「わ、分かりましたよ……」


 半ばなげやりな気持ちで、芳樹は霜乃さんの膝枕を受け入れることになった。

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