第58話 霜乃さんの本音

 母から結婚についての助言を受けた夜。

 芳樹は再び霜乃さんの部屋を訪れた。

 コンコンと部屋をノックすると、ドア越しから霜乃さんの「はい」という返事が聞こえてくる。


「霜乃さん俺です。今お時間大丈夫ですか?」

「えぇ、平気よ。どうぞ入って頂戴」

「失礼します」


 がちゃりと扉を開けると、霜乃さんはベッドのふちに腰掛け、寝間着姿でスマートフォンを操作しているところだった。


「突然すみません」

「気にしないでいいわよ」


 霜乃さんはリラックスした様子で柔らかい笑みを浮かべている。

 いつものゆったりとした霜乃さんだ。


「立ち話もなんだから、座って頂戴」


 そう言いながら、霜乃さんはポンポンと手で芳樹に隣へ座るよう促してくる。

 ぺこりと腰を低くして、芳樹は霜乃さんに促されるまま、隣に腰掛けた。


「それで、話って何かしら?」


 首を傾げて尋ねてくる霜乃さん。

 芳樹は霜乃さんの方へ顔を向けて、真っ直ぐと見据えながら口を開く。


「霜乃さん、これからやってみたいことってありますか?」

「えっ……やってみたいこと? いきなりどうして?」


 霜乃さんは質問の意図が分からないようで、少し戸惑った様子で尋ね返してくる。


「俺は、小美玉ここの住居人には、いつも幸せに笑っていて欲しいと思っています。毎日が楽しくて賑やかで、素敵な場所になればいいなって。だから霜乃さんにも、俺は幸せになって欲しいんです。これからやりたいこととか、挑戦してみたいことをやってほしいなって」

「そういうこと。うーん、でもいきなり言われてもねぇ……」


 眉をひそめて、難しい顔をする霜乃さん。


「俺が思うに、霜乃さんにはやりたいことがないんじゃないかって」

「そうね。少なくとも、今の私にはないかもしれないわね」


 予想通りの答えを口にする霜乃さん。

 芳樹はさらに言葉を続けた。


「何でもいいと思いますよ。例えば、コスプレ趣味の友達を見つけるとか、そう言った些細なことでもいいです」

「コ、コスプレ趣味の友達を見つけるなんてそんなの恥ずかしいわよ。それに、どうやって見つければいいのかもわからないわ……」

「簡単ですよ。今はSNSが普及していますから、コスプレ写真を投稿したりアップしている人に直接メッセージを送ってみたり、コミュニティーサイトを探してみたり、方法はいくらでもあります」

「なるほどね。でも、私のコスプレ趣味なんて他の人に見せられるようなものじゃないわ」

「そういう姿勢ですよ、霜乃さん」

「えっ……?」

「また自分に自信を無くしてる」

「あっ……」


 指摘されてようやく気付いたのか、霜乃はバツが悪そうに視線を逸らす。

 霜乃は自分に自信がないのだ。

 だから自分のことよりも、他人を優先してしまう癖がある。

 他人のために相談に乗ってあげたり、手伝ってあげることはとても素晴らしいことだと思う。

 けれど、今の霜乃さんの状態は、自分の問題から逃げるためにそうしているだけであって、根本の部分は何も解決していないのだ。

 だから彼女には、自分の自信を取り戻してもらう必要がある。

 芳樹は虚空を見つめながら、本題へと話題を移す。


「うちの母が言ってたんです。結婚は妥協と諦めが大切だって」

「妥協と諦め・・・・・・?」

「はい。お互いの性格を受け入れて、様々なことを妥協して諦めながらも、支え合って生活していくことが結婚の定義だって」


 その言葉を聞いて、霜乃さんは視線を床へと向けてしまう。

 それでも芳樹は、構わず言葉を続けた。


「少なくとも今の鉾田には、霜乃さんの性格を受け入れようという姿勢は見られません。霜乃さんがどんなに過去の鉾田の優しさを思い出しても、鉾田が今の霜乃さんの性格を受け入れられなかったら意味がないんですよ」

「そう……ね」

「だから、霜乃さんは鉾田に全部伝えるべきだと思います。自分が心の内に思っている気持ちを」

「私の……気持ち?」

「はい、コスプレとかアニメが好きだとか、鉾田のことを今どう思っていて、これからどうしていきたいのか。今霜乃さんが内に秘めている気持ちを全部打ち明けるんです。その上で、鉾田が思っている気持ちも聞いて、二人がこれからもずっと一緒にいたいのかどうか、ちゃんと二人で話し合うことが必要なんだと思います」


 霜乃さんが今まで鉾田に言えなかった鉾田に対する不満や鬱憤などの気持ち。

 それをすべて吐き出した上で、彼がそれを受け止めて、納得して妥協して諦めて……。

 結果として二人が折衷案を見つけて行けるのであれば、それが一番いいことなのだと思う。

 芳樹は霜乃さんの手を握り、優しく問いかける。


「だから……無理にとは言いません。霜乃さんの今心で思っている正直な気持ちを、俺に教えてくれませんか?」


 それは、霜乃さんの味方になる上で重要なことだから。

 霜乃さんの幸せを願うならば、芳樹は彼女の気持ちを知っておく必要があるのだ。


「今答えが出ていないのであれば、そう言ってもらって構いません。当日に答えが変わってもいいです。ただ、今の霜乃さんは、鉾田とこれからどうしたいと思っているのか、教えてくれませんか?」


 芳樹が管理人として出来ることは、彼女の未来を幸せにしてあげること。

 そのためには、彼女の心と頭を整理してあげるサポートしか芳樹には出来ない。


「私は……」


 目を泳がせて、言葉に詰まる霜乃さん。


「ゆっくりでいいです。俺は待ってますから」


 優しく背中を後押しするように言うと、霜乃さんはごくりとのどを鳴らして、懸命に自分の気持ちを言葉にしようと試みる。


「私……私は……」


 芳樹はその間も、ずっと霜乃さんの手を握って彼女が言葉にするのを辛抱強く待ち続けた。

 そして……ついに……


「私は……鉾田さんとっ……別れ・・・・・・たい……です」


 懸命の思いで、霜乃さんは自分の気持ちを言葉にして吐き出した。


「よくできました。教えてくれてありがとうございます」


 芳樹が労うように霜乃さんの背中を優しく擦ると、彼女は肩を震わせた。

 そして、今まで塞ぎ込んでいた気持ちが心の奥底から堰を切ったように涙と一緒に溢れ出す。


「私は別れたいっ!あの人と別れて、新しい自分を見つけたい!」


 ずっと抱え込んでいた自分の本音を、彼女は震える声で、鼻を啜りながら必死に訴えた。


「ありがとうございます。霜乃さんの気持ち。しかと受け取りました」


 そう言って、芳樹は霜乃さんが泣き止むまで、ずっと彼女の背中をさすって優しく慰め続けた。

 ようやく自分の気持ちを吐露してくれた霜乃。

 霜乃さんが涙を流す中、芳樹は初めて彼女が自分の素を見せてくれたことが嬉しくて、ちょっと顔が緩んでいたのは、ここだけの秘密である。


 しばらくして霜乃さんが泣き止み、落ち着きを取り戻したところで、芳樹は霜乃さんに語り掛けた。


「今吐き出した気持ち、鉾田の前でも言えますか?」

「……が、頑張るわ」


 自信なさげな声で、霜乃さんが答える。


「これはもしもの話ですけど、鉾田が霜乃さんに対して適当な理由をでっちあげてケチつけてきた時は、俺を利用してもらって構いません。責任を取るとか、生半可なことはまだ言えませんけど。少なくとも、霜乃さんが別れるきっかけには使えると思うので」


 すると、霜乃は潤んだ瞳で芳樹の方を見つめてきた。


「ホント、芳樹さんはお人好しすぎだわ。そんなことしたら、自分も当事者になってしまうのに……」

「霜乃さんには敵いませんって。それにまあ……好きって言われてますからね、もう自分も当事者のようなものです」


 そう芳樹が言い切ると、霜乃さんは呆れ交じりにため息を吐いた。


「全くもう……私は随分と面倒な人に恋をしてしまったようね」

「それは、俺に対してですか? それとも、鉾田に対して?」

「さぁ、どっちでしょう?」


 わざとらしく首を傾げて霜乃さんが誤魔化すと、ソファから立ち上がり、腕をぐっと大きく上に伸ばした。


「ありがとう芳樹くん。なんか吹っ切れたわ」


 そう言って振り返った霜乃さんの表情は、どこか晴れやかですっきりとしている。

 彼女が過去の呪縛から解放され、未来へ一歩足を踏み出した瞬間のように思えた。

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