第39話 与えられた罰

 くるみちゃんもとい瑞穂ちゃんが泣き止んで落ち着いたところで、芳樹はベッドを挟んで瑞穂ちゃんと向かい合っていた。

 くるみちゃんは体調もだいぶ落ち着いてきたようで、今は辛そうな様子もなく、呼吸も安定している。


 お互い何から話を切り出したらいいのか分からず、黙ったまま視線を右往左往。

 ふいに目が合うと、どちらからともなく視線をそらしてしまう。

 そんなむず痒いやりとりを何度か交わすと、はぁっとくるみちゃんがため息を吐いた。


「『ボサ子』」

「へっ?」


 唐突に言われた言葉に、芳樹は素っ頓狂な声を上げる。


「中学の時、私が呼ばれてたあだ名。髪がボサボサで不潔だったから『ボサ子』。安直な理由でしょ」


 くるみちゃんは視線を虚空に向けながら自虐的に笑う。

 それを聞いた芳樹は、ただ黙ってくるみちゃんを見つめることしか出来ない。


「当時はオシャレに全然興味もなくて、他のクラスの子よりも明らかに浮いてて、いつも教室の端で本ばかり読んでるような子だった」


 くるみちゃんの口調は、その当時を懐古しているようだった。


 学校という集団の中で、浮いた存在が迫害されるのは自然の摂理。

 くるみちゃんの当時のことを芳樹は詳しく知らない。

 けれど、学校という閉鎖的な空間で、いじめの対象になっていたことは彼女の言い草から読み取れる。

 虐められるのは仕方が無い。

 そう割り切って、半ば諦めながら生活していたのではないだろうか。

 中学時代のくるみちゃんは、さぞかし世界が灰色のように濁って見えていただろう。


「そんな時、『君には素質がある。是非うちの事務所に入らないか』って街で突然今の事務所にスカウトされたの」

「そうだったんだ……」

「自分がスカウトされるなんて夢にも思ってなかった。芸能界なんて別世界の次元だったから。でもその時、こんな自分でも夢見ていいんだって気づかされたの」


 それはくるみちゃんにとって、外の世界が開けた瞬間だったに違いない。


「でも……お母さんは私のことを喜んではくれなかった。『あんたがスカウト? ばかばかしい。ファッションセンスのかけらもないあなたに、出来るわけないじゃない。』そう鼻で笑われた」


 くるみちゃんの口調が暗いものへと変わっていく。

 きっとくるみちゃんは、お母さんに『凄いじゃない!』と褒めて欲しかったのだろう。

 けれど、現実は甘いものではなかった。


 お母さんもクラスメイトと同じで、自分の娘を客観的に見ていたのだろう。

 冷静に周りと比べて、自分の娘という概念を捨てて……。


「でもそこで、くるみちゃんは諦めなかったんだね」


 芳樹が尋ねると、くるみちゃんはこくりと頷く。


「未来の扉が開いたような気がしたの。初めて世界から自分の存在意義みたいなのを貰ったような感覚。だから、その扉を自分から開いてみたいと思った」


 くるみちゃんにとってスカウトされたことは、少なくとも彼女の人生の分岐点になったわけだ。


「私は何度もお母さんを説得しようとした。でもお母さんは私の話に本気で耳を傾ける気なんてなくて、すぐに門前払い。それでも、私は諦めずに何度も、何度も、認めてもらえるまで言い続けた」


 あの頑固で意固地な母親を説得するのは、くるみちゃんにとってどれほど大変なことだっただろうか。


「そんな時だった、私の前に救世主が現れたのは」


 くるみちゃんは話を始めてから、ようやく芳樹の方を見た。

 それはもう、本当にうれしそうな顔で。


「ちょっぴり虚ろな目で私をじっと見つめてきた彼は堂々と宣言してくれた『彼女は可愛い』って」

「あっ、あはは……」


 芳樹は苦笑いを浮かべることしか出来ない。

 酔っぱらった勢いとはいえ、自分の言動を他人から言われることは、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。

 そんな芳樹をよそに、彼女は嬉しそうに言葉を紡ぐ。


「可愛い、綺麗。単純な褒め言葉だけど、それがどれほど嬉しくて、心満たされていく言葉なのか、初めて教えてくれたの。それに、私が消極的でお母さんに言えなかったことを、芳樹は変わりに平然と代弁して言ってくれた。加えて、私のファンになってくれるとも断言してくれた。あの時、私は本当に胸が幸せで一杯になった」


 まるで恋する乙女のように言ってくるくるみちゃん。

 それほどまでに、芳樹の取った行動は彼女にとって心動かされたのだろう。


「それから私は、事務所の研修生としてレッスンを受けることになった。もちろん、ファッションにも気を使って、誰にも負けないくらい髪型や肌のスキンケア、細かいところの手入れも怠らないで、人一倍努力した。芳樹にまた会った時、綺麗になったって言って欲しかったから」


 くるみちゃんを動かす原動力となったのは、全て芳樹の行いからだったのだ。

 改めて自分が一人の人生に影響を与えていることを実感して、申し訳ないような気分になってくる。

 けれど突然、くるみちゃんの表情が暗いものに変わった。


「でも結局、どんなに努力して綺麗になって、レッスンで演技力を磨いても、お母さんからの許可は最後まで得られなかった」


 くるみちゃんの口調が一気に暗いものへと変わる。


「結局は、『もしこのまま芸能を続けたいのなら、あなた一人の力で生きていきなさい』って勘当されて、私は家を出た。それで、小美玉ここへ引っ越してきたの」

「だから、保護者のサインの場所に知らない人の名前が書かれてたのか」

「うん……だから私の那珂くるみとしての人生は中学まで。高校からは『水戸瑞穂』として生きていくために、形から一新することにしたの」


 それは彼女にとって、人生を掛けた決心だったであろう。


「怖くなかった?」


 だから芳樹は、思わずそんなことを尋ねてしまう。


「もちろん怖かった。今まで生きてきた自分を手放すようなものだし。でも、新たな自分に生まれ変わった気持ちで、前に進むしかなかったのよ」

「そっか……」

「でも、芳樹だけは別。昔の私も、今の私も知っててほしかった」

「その約束は、果たせなかったけど……」

「うん。だから私は芳樹を許すことは出来ない」


 生まれ変わった瑞穂ちゃんは、すっと冷たい視線を芳樹へ向けてくる。

 彼女の表情は、芳樹が覚えていなかったことがどれだけ重い罪かを物語っていた。

 芳樹の背筋が思わずピンッと伸びる。

 瑞穂ちゃんは、俯きがちにぼそりと言葉を紡ぐ。


「だから……私のことを覚えてなかった罰として……」

「罰として?」


 瑞穂ちゃんは顔を上げると、先ほどとは打って変わって頬を赤らめながら、恥じらうように芳樹を見つめる。

 そして、意を決したように芳樹をズビシっと指さした。


「これから私のこと、毎日褒めなさい!」


 紡がれたのは、予想外の言葉。

 瑞穂ちゃんは、自分で言うのが相当恥ずかしかったらしい。顔が真っ赤に染まっている。

 その瑞穂ちゃんの発言に、芳樹は面食らうものの、すぐにくすっと笑ってしまう。


「わ、笑うな!!」

「ごめん、ごめん。あまりに瑞穂ちゃんが可愛くてつい……」

「なっ……かわいいとか言うなし」

「なんで? 褒めてって言ったのは瑞穂ちゃんだよ?」

「そ、そうだけど……いきなりはズルい……」


 顔を逸らして、視線を逸らす瑞穂ちゃん。

 どうやらいきなりの不意打ちが相当恥ずかしかったらしい。


「そうやって恥ずかしがる瑞穂ちゃんも可愛いよ」

「あ“ぁ!!! もう今日は褒めるの禁止! 明日からでいいから!」

「えー。俺はもっと瑞穂ちゃんを褒めまくりたいのに」

「うるさい、うるさい! 私は寝る!」


 ふぁさっと毛布をめくり、ベッドに寝転がって反対側を向いてしまう瑞穂ちゃん。


「そうだね。さっきまで高熱もあったわけだし、今日は大人しく安静にしておくのが賢明だね」

「そういうこと」

「それじゃあ俺は、仕事に戻ろっかな」


 瑞穂ちゃんの容態も安定して来たし、これなら明日には回復しているだろう。

 芳樹が付きっ切りで面倒を見る必要もない。


「ま、待って!」


 すると、瑞穂ちゃんが芳樹を慌てた様子で呼び止めてきた。

 芳樹が振り返ると、瑞穂ちゃんは毛布から顔を出した状態でこちらを心許ない様子で見つめてくる。


「そ、その……今日は私の看病してくれても、いいんだよ?」


 それは、瑞穂ちゃんの可愛らしい訴え。

 わざと疑問形にしているのも、芳樹に一緒にいて欲しいと直接言うのが恥ずかしいから。

 それくらいのことは、芳樹にも容易く理解できた。


「仕方ないなぁ。それじゃあ寂しい瑞穂ちゃんのために、俺は本でも持ってきて部屋にいてあげるから、ちょっとだけ待ってて」

「それくらいなら、ちょっとだけ我慢しててあげる」

「うん、ありがとう。それじゃあ行ってくるね」


 芳樹が優しく答えて、一旦瑞穂ちゃんの部屋から出て行くとき、『ありがとう』とかすかに聞こえたのは、芳樹の心の内にだけ秘めておこう。

 結局その日はずっと、芳樹は瑞穂ちゃんの隣に付きっ切りで、看病に勤しんだ。


 瑞穂ちゃんは許してくれなかったけれど、与えられた罰はあまりに芳樹にとっては簡単なものだった。

 四年間の空白分を取り戻すくらい、これから毎日瑞穂ちゃんをたくさん愛でて褒めちぎろうと決意する芳樹。

 しかしその中に、瑞穂ちゃんの本当の気持ちが見え隠れしていることに、芳樹は気づいていないのである。

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