第35話 ぐちゃぐちゃな感情 ~瑞穂side~

 瑞穂が仕事終わりに寮へ帰宅すると、リビングから芳樹あいつが出迎えてくれる。


「瑞穂ちゃん。おかえりなさい、お仕事お疲れ様」

「……ただいま」


 上がり框に腰かけ、ローファーをゆっくり脱いでいく。


「今日のドラマの撮影はどう、順調だった?」

「別に、いつも通りだけど」

「そっか、それならよかった。何か、困ったことがあったらいつでも言ってね」


 瑞穂は芳樹の態度が気に食わず、苛立ちを覚えてしまう。


「あぁ、もうそういうのホントいいから! 私はもう部屋行く!」

「うん、わかった。明日も朝同じ時間でいいかな?」

「うっさいな! そうだっての、鬱陶しいな!」

「わかった。それじゃあまた明日。おやすみ」


 瑞穂は芳樹の返事に答えることなく、階段をスタスタと上っていく。

 そのまま自室へと直行して、部屋に入るなり瑞穂はベッドにダイブ。

 直後、はぁっと大きなため息を吐いてしまう。


「はぁ……マジでなんなの?」


 ここ数日、芳樹あいつの様子が明らかにおかしい。

 何がきっかけなのかは分からないけれど、今まで瑞穂のプライベートや仕事について興味も示さなかったくせに、ここ最近はずっと『学校どう、友達と仲良くできてる?』とか『今日の仕事は順調にいった?』と個人的なことについて首を突っ込んでくるようになった。


 瑞穂の頭の中に、優しい笑顔で尋ねてくる芳樹あいつの顔がフラッシュバックする。

 そして、瑞穂は瑞穂で『別に普通』と素っ気ない態度で答えてしまうのだ。


「あぁ! マジで何なのこれ!」


 怒りと嬉しさの両方が混ざり合ったぐちゃぐちゃ感情が、瑞穂の胸の中を支配する感覚。

 すっきりとしない感覚に、瑞穂の苛立ちがさらに増長していく。

 ベッドを数回グーパンチで殴り、顔を枕に埋めて、『あぁー』っと叫ぶ。

 声は部屋に反響することなく、枕の布に吸収されてしまう。


 全部芳樹あいつのせいだ。

 芳樹あいつが覚えてないから、頭の中がこんなぐっちゃぐちゃになっているのだ。


 瑞穂はベッドに横たわり、枕を胸の中で抱き締める。

 自分の気持ちを改めて整理するために……。


「はぁ……何嬉しくなってんのよ私……」


 覚えていなかったくせに、本来ならば許されないことなのに……。

 いざ芳樹にプライベートなことを聞かれると、表面上湧き上がってくる怒りの感情とは裏腹に、心の奥底からぶわぁっと熱い感情がこみ上げてきて、胸がキュンっと締め付けられるのだ。


全部芳樹あいつのせいだ……」


 瑞穂はまた、枕をバシッ、バシッっと拳で数回殴った後、『ごめんね』と頭を撫でるように、枕を優しくポンポンと擦る。


 本当は瑞穂自身も分かっているのだ。芳樹あいつに聞かれて嬉しい自分がいることに。

 けれど、それを認めたくない自分も心の中にいて、感情がぐちゃぐちゃになっている。


「はぁ……苦しい……」


 芳樹が瑞穂のことを覚えていてくれたのなら、どれほど楽だっただろうか。

 瑞穂はまだ心のどこかで期待しているのだ。

 芳樹があの時のことを覚えてくれているのではないかと。

 そして、芳樹に沢山今までの活躍を褒めて欲しい。


「バカ芳樹よしき……なんで思い出してくれないのよ」


 思わず、そんな独り言が漏れ出る。

 しかし、例え芳樹あいつが思い出したとしても、許せるかと言えばそれは別問題。

 瑞穂は芳樹あいつのせいで心を深く傷つけたし、現在進行形で心に苦しみを与え続けている。


 誰にも吐き出すことのできない感情。

 それは無意識のうちに、瑞穂の身体に影響を及ぼしていることに、本人は気づいていなかった。




 翌朝、芳樹あいつは瑞穂を駅まで送り届けてくれた。


 ここ最近と同じように、「今日もドラマの撮影大変だと思うけど、頑張ってね!」と言ってくれて……。


 ダラダラと乗換駅や通学路で道草をしながら、瑞穂は朝一の学校へと到着し、自分の席に腰を下ろす。

 すると、何やら机に違和感を感じた。

 よく見れば、机にペンで何やら書かれている。


『那珂学校くんな、うざい』

『クラスで一番だからって気取ってんじゃねぇよ、消えろブス』


 そして、机の物入れには、菓子パンのゴミが入っている。

 マジックペンで、『掃除よろしくww』と書かれていた。

 陰湿ないじめ、もしくは誰かしらの悪戯だ。


「はぁ……」


 小学生レベルの幼稚ないじめに、瑞穂の口から思わずため息が漏れ出てしまう。

 瑞穂は筆記用具から消しゴムを取り出して、机にかかれた文字を消していく。


 芸能学科で最も売れっ子。

 学校でも水戸瑞穂としての態度を崩していない以上、嫉妬や妬みの反感を買ってもおかしくない。


 それくらいは、覚悟していた。

 はずなのに……。


 机の上に、一つの水滴がポトリと落ちる。


「あれっ……」


 気付けば、視界がぼやけていた。

 目元を拭うと、手に水滴が付き光っている。


「どうして……?」


 自分でも、どうして涙を流しているのかわからなかった。

 どんどんととめどなく溢れてくる涙は、収まることを知らない。



「おはよー那珂なかさん」

「……っ!」


 振り返れば、ドアの後ろでわざとらしい笑顔を向けてくる生徒が一人。

 以前、教室で瑞穂に対して愚痴を零していた同じ芸能学部の女子生徒。


「あれあれー? どうしたの那珂さん。もしかして、泣いてるのぉ?」

「別に……何でもない」


 瑞穂は強がるようにして、机の棚に入っていた菓子パンのゴミをぐっと握り締めた。ごみ箱へ捨てに行くため、教室から出て行こうとする。


「あっ、那珂さん待ってよ。ゴミ捨てに行くなら、ついでにこれも捨ててきてよ」


 そう言って彼女は、手元に持っていた紙パックの紅茶の空箱を手元でフリフリさせて見せつけてきた。

 瑞穂は涙を必死に堪えながら、彼女の元へと近づいていき、手元から空の紙パックをかっさらおうとする。その時だった。

 スッと彼女の手元から紙パックが離れ、地面へと落下していく。

 瑞穂は瞬時にしゃがみこみ、キャッチしようと試みる。だが、瑞穂の手はわずかに届かず、パックの紅茶は地面に落下。

 刹那、地面に衝突した紙パックの中から、大量に液体がビシャっと飛び出した。

 床に飛び散り、辺りが紅茶の水溜まりへと化す。

 紅茶の液体は、しゃがみ込んでいた瑞穂のスカートや制服にも襲い掛かる。


「あれぇ? ごっめ~ん。まだ中身残ってたみたい。悪いけど、雑巾で拭いといて。掃除係さん♪」


 そう言って彼女は、瑞穂の頭をポンと叩き、惨めな瑞穂の姿をいかにも嬉しそうに見下して、勝ち誇ったような笑みを浮かべながらスタスタと教室の中へと入っていく。


「……」


 これくらいの嫉妬や憎悪から生まれる陰湿ないじめくらい、普段の気高く居丈高な態度の瑞穂なら軽くいなすところ。さらには、彼女へ掃除しろと反逆すら出来るはずなのに……。


 瑞穂の心は、気づかぬうちに蝕まれて弱っていた。

 歯噛みしながらゆっくりと立ち上がった瑞穂は、教室から逃げ出すように出て行ってしまう。


 瑞穂が駆け込んだのは女子トイレ。

 個室へと入り、鼻を啜りながら必死に嗚咽を堪えて涙を流した。


 今までに感じたことのない胸の苦しさ。

 誰にも応援されていないとさえ感じてしまうほどの、絶望感に苛まれてしまう。


「……誰か、助けてよ」


 世間からいくら期待されて持てはやされても、身近な人に相談すら出来ないという瑞穂の苦しみは、誰からも理解されないまま瑞穂の心を蝕み、傷つけていく。


「助けてよ……芳樹よしき


 気付けば彼女は、無意識に彼の名前を呼んで助けを求めていた。

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