(2)
壇上で教頭がなにか言っているがさっぱり頭に入らない。ここのところ授業中もずっとそうだ。
「……クラブで帰りが遅くなる生徒は十分に注意するように」
泉地喜美子は、体育館での全校集会を終えて、各クラスに戻る途中も、視線が定まらないでいた。
先日のあの一件以来、いつも考え込んでいる。あの桜庭綜士のこと。そして彼と詩乃との間に過去なにがあったのかを。
元柳第一中学、あの四人の出身校であるあそこまで赴けば、なにか詳細がわかるかもしれない。卒業アルバムを見れば、過去の関係性が見えてくるだろう。だが、まったく縁もゆかりもない自分が行ったところで対応してくれるとも思えない。
「どうしよう……」
ホームルーム後に、廊下広場の壁に背をつけて考え込む。
そもそも自分が首を突っ込んでいい問題ではないのはわかっている。だが、桜庭綜士と詩乃との対話の機会を潰してしまったことには責を感じており、あの男には窮地を救ってもらった恩もできてしまった。
口に手をあてて考え込んでいると、
「喜美子ちゃん」
「え? わあ!」
詩乃が至近距離まで接近していた。
「ご、ごめん」
「わ、私こそ……大丈夫?」
「こっちのセリフだよ。喜美子ちゃん、最近なにか悩んでるみたいだけど大丈夫なの?」
クリっとした眼に見据えられて、変な汗が出てきた。
「別に悩んでなんか……」
「あと少しでハロウィンフェスティバルだから」
「わかってる、クラブはしっかりやるから」
「もう、そんなんじゃないって。難しいようならやめにしようか?」
「え?」
「よかったら私とお祭り見て回らない? 矢本くんや瑞樹ちゃんと一緒に」
普段、控えめな彼女の方からそんなことを切り出されたことに驚く。相当、自分の外観は正常ではないと思われていたのだろうか。あるいはこの間の件で喜美子が相当なショックを受けたと今でも思っている可能性もある。
「ダメだよ……。詩乃までやめたら」
「別にどうしても参加したいわけじゃないし。うちのクラブは自由なのがもっとーってよくいってるじゃない」
「でもダメ、私一人のせいで穴を作ってみんなに迷惑をかけたくない」
「わかった、今日は出る?」
「もちろん」
呼吸を整える。これ以上、心の内を乱す動揺を外に漏らすわけにはいかない。
「それじゃクラブに……」
と言いかけたところで、携帯に着信が入った。早紀からである。今日は事情があってクラブには行けない、とのことだった。
「もう……」
気合を入れたところで、出鼻をくじかれた気になった。
「早紀ちゃん、お休みみたいだね」
「うん……めずらしく。まあいいや私たちだけでも……!」
一人の男子生徒が近づいてくる。
あいつ……!
だらしなく着崩した制服、べとついた不潔な髪、ニヤニヤした薄っぺらい笑み。
「よう、月坂」
「え……?」
詩乃が振り返る。とっさに彼女を守るように前に出た。
「なにか用?」
自分が間に入るや、聞こえよがしに舌うちを鳴らす。無期停学になっていたはずが、なぜここにいるのか訝しんだ。
門間照満、以前から自分たちの周りを徘徊して、詩乃を舐め回すようにみる不快な男が学校に戻ってきた。
「おめえには訊いてねえよチビ」
一気に頭に血がのぼってきた。この男は、根が小心なのか隆臣や合奏クラブの男子がいるときは、詩乃には話しかけては来ない。威嚇されてすぐ逃げる。今日はタイミングを狙っていたのだろう。もう退学になったものと思って油断していたことに歯噛みする。
「こんにちは、門間くんだっけ」
詩乃がやや緊張をはらんだ声で述べた。
「詩乃、相手にしなくていいから」
こんな男に挨拶すらしてほしくない。門間がぼりぼりと頭をかくと、門間の体臭と黄ばんだワイシャツの臭いに加えてなにかの香水が混じって鼻がおかしくなりそうなほどの悪臭になった。
「俺よお、月坂のためにがんばったんだけど、あのクソ生活指導のせいで停学にされたんだわ」
「え……?」
あの桜庭綜士との喧嘩のことを言っているのだろう。だが、この男は割って入った女子中学生にナイフを向けたと聞いている。どう考えても、
「自業自得でしょ」
としか思えなかった。門間が、喜美子をねめつけるがひるまず睨みかえす。また舌打ち、視線をそらしたのは門間のほうだった。
「ほんとムカつくわ、あの先公ども……。てめえの学校の生徒の言うことも信じねえのかって。俺は月坂を守ろうとしただけなのによ」
詩乃の表情が困惑の色を浮かべる。
「……ごめんなさい」
「詩乃、いいから……!」
詩乃の手を引いて立ち去ろうとしたが、門間に進路をふさがれた。
「あんた!」
「この後時間ねえか?」
喜美子を無視して詩乃に向けて、門間が脂ぎった唇をてからせた。
「ごめんなさい、クラブがあるから……」
「おいおい、俺はお前のせいで停学になったんだぞ。それなのにクラブの方が大事なわけ?」
「ごめんなさい……」
「なあ、ちょっと付き合えって」
「無理……です」
殴りたくなったが、手が震える。この間のトラウマが喜美子の心に怖気を生じさせた。
「お前さ……自分の立場わかってんの?」
「え?」
「お前のじいさんのせいでどんだけの人がくたばったと思ってんだ」
「……⁉ 門間‼」
詩乃が顔面蒼白になる。絶対に言ってはならない言葉をこの男は口にしてしまった。ニヤけた口元から生ごみのような臭いが噴出してくる。
「……く! 消えろよ!」
臭気を堪えてなんとか吐き出した声だったが、門間はニヤけ面を崩さない。
「お前のじいさんを恨んでる連中はごまんといるんだけど、ここで誰に守ってもらってっと思ってんだよ? 散々面倒見させて、ちょっとした付き合いにも応じないって、そんなんずうずうしくない?」
怖がっている詩乃に付きまとっているだけのストーカーまがいが、なにをいうのかと眉間のしわが痛いほどに怒りを形作る。
「あ……あ……」
声を震わせる詩乃、あの事件のことは絶対に触れさせてはいけない部分だった。
「いいから来いよ……!」
調子に乗った門間の手が、詩乃の肩をつかんだが、
「ぐぁ!」
誰かがそれをひねり上げた。
「やれやれ……停学処分解除の申請に来てるのを見たって聞いたから、すっ飛んできたがもうこれか」
「本郷……!」
同じ合奏クラブの本郷賢哉であった。
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