第三章 妄執の徒

(1)

 足早に歩く。このご時世で帰りが遅いと、色々家の人間から心配がられる。ただでさえ治安が悪くなっている上に、計画停電により街が闇に吞まれる時間が早くなっているからだ。


 それに……。


 ここ元柳町に隣接する汐浦町まで一人で行ってきたなど知られたら、ただではすまないだろう。あそこは日之崎最大の人口を誇りながらも、経済的に立ち遅れており、ここ元柳よりも治安が悪い。しかし、自分はあそこに行かなければならない事情があるのだ。

 藍染早紀は、携帯を取り出して、辺りを確認してから秘蔵の画像をコッソリ映した。

「ああ……」


 本当に美しい……。


 恍惚としながら画面に意識を涼奪されるがままになる。

「ハッ!」

 自動車が走り去る音で我に返った。陶然としている場合ではない。乙女にあるまじきダッシュで家に急ぐ。

 ようやく着いた正門前で、守衛に一礼すると敷地内へと入った。

「早紀さん!」

 お手伝いの畠山さんが早歩きで近づいてくる。

「澤村さん、ただいま」

「おかえりなさい早紀さん、最近、帰りが遅いようですね」

 やや強い口調、自分が幼少の頃からお世話になっているので嘘をつくのは辛い。

「すみません、クラブが長引いて」

「そういう時は、ご連絡ください。迎えを寄こしますので」

「はい……」

 汐浦にいたなど言えるはずもなく、自室まで動揺を見透かされないように歩く、


「ハァ……」

 ドアを閉じると、鞄を床に落とした。

 着替えもせずに、だらしなくベッドに倒れ込む。自分が自分を解放できるのは、この部屋にいる時くらいなものだ。外では、常に凛とした佇まいをするよう幼少の頃から厳しくしつけられてきた。藍染家の人間として。


 藍染家は元々、古くから元柳で続いてきた商人の家系であった。元柳が徐々に高級住宅街として地価を高騰させる徴候を見せ始めると、曽祖父は新たに始めた不動産ビジネスで巨万の富をなした。財を得たならば、次は貴種をというわけで旧家の流れを組む女性と息子との縁談をまとめて、いかにも名家として虚飾するようになったのである。


 俗物の発想だわ……。


 幼少時から利発だった早紀はそんな古めかしい曽祖父の野心を内心で嫌悪しながらも、そのおかげで自分が存在しているというアイデンティティ上の葛藤を小学生の頃から抱いてきた。

 そんな曽祖父の薫陶を強く受け継いだ祖父も鬼籍に入った今、貴族ごっこはもうやめにしてほしいのだが、父は今でも曽祖父の霊に心を縛られているらしい。

窮屈な家だった。小学校までは友達を呼ぶことも許されず、友人として付き合う人間すら選別された。

 早紀が、元柳の名門校、嶺公院高校に進んだのも決められていたようなことであった。


 高校に入ってからは、好きな音楽をのんびりやりたいと思って合奏クラブに入った。そこで早紀は一人の、同級生の少女と出会った。月坂詩乃、テロで暗殺されたと噂の政治家、月坂九朗の孫娘である。彼女は、事件の後遺症で中学までの記憶を完全に失っており、幼児のようにおどおどした少女であった。そんな彼女を守るように付き添う人物が二人いた。矢本隆臣、そして赤橋瑞樹、詩乃と同じ中学の出身で自分たちの時間を割いてまで、詩乃の様子をこまめに見に来るので、彼らとも自然、交流が生まれるようになった。


「クラブの間、詩乃になにかあったらすぐ知らせてね」

彼女にそう言われた。赤橋瑞樹、女子ソフトボール部で快活明朗な女子生徒、家は洋食店を経営している。

「はい……」

 その朴訥な笑みに、なんだかわからないが気圧された気がした。

 自分が今までの人生で出会ったことのないタイプ。次第に彼女のことを考えることが多くなった。

 聞き上手で社交的、クラスでは調整力に優れてよく頼られる。もっと彼女のことが知りたくなった。

 詩乃と個人的に仲を深めていったのも元は瑞樹にお近づきになりたかったからだった。


 不純な動機だったのかも……。


 いつのまにか、クラブ中もよく窓から外で練習に打ち込む瑞樹をそれとなしに見ていることが多くなった。取り繕ったところがなく、自然に誰とでも打ち解けられる彼女はまぶしかった。家のしがらみで常にクールに凛々しく振る舞わなければならなかった自分とは対極に位置するように思えて、うらやましかった。そして、ようやく理解した。


 恋……してたんだ……。


 自分に同性愛の気があるなど微塵も意識したことはなかったが、そう認めざるを得なかった。

 ただ別にそういう関係になりたいという気もなかった。瑞樹とは友人として付き合いをもてていればそれで十分だったし、もし彼女にいい人でもできたなら素直に応援しようとも思った。


 でも知らなかった……。


 つい先日、瑞樹の家である豊緑亭に同じクラブの本郷賢哉が来た時、早紀は知ってしまった、という誤解に陥ったのである。


 瑞樹に中学の頃付き合っていた人がいたと。それが詩乃につきまとい、隆臣らバスケ部乱闘騒ぎを起こした男、桜庭綜士という名前と記憶している。中学卒業と同時に失踪したらしいが、なぜか今になって瑞樹の前に現れて復縁を求めているという。さらに瑞樹は、今、隆臣が好きだから綜士の元には戻れない、そう述べた。


 詩乃じゃなくて、瑞樹が目的だったのね……。


 なんにせよ。彼女を煩わせるあの男をどうにかしなければならないと、勝手な決意で抱いた。そして、やつのアジト、と思っている。聖霊館という洋館まで赴いて偵察を行ったのだが、どうにも変な感じがした。住んでいるのは女子供ばかりである。なんであの悪人がそんなところに居ついているのかよくわからない心地のまま帰ってきた。

「このままじゃいけない……」

 改めて、あの男にもう瑞樹には近づくなと言わなければ気が済まない。彼女と隆臣の恋路の成就こそ、自分の想いに区切りと決着をつけることにも結実する。


「でもあの男は凶悪……」

 先日、賢哉が赤風船みたいに顔を腫らしていたのは、桜庭綜士に挑んで返り討ちにされたからと推測している。女の自分が赴いても、同じ結果になるかもしれない。

 鏡を見た。すっぴんでも飾り気なしの人形のような顔立ち、だが今はこれがもう嫌になってきた。瑞樹のように自然体でいたい。彼女は自分の理想。

「よし!」

 俄然、決意を固めた。明日、聖霊館まで赴く。桜庭綜士と一対一の対決に挑んでやると決意を固めた。はっきり言ってやる。もう瑞樹には近づくなと。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る