第七章 家族だから
(1)
日之崎市、南港区汐浦町を流れる大河川、かつて自分はこの川の上流から、流れる水の泡白い光を追いながら、導かれるようにこの街に来た。あの時、あのまま元いた街にとどまっていたら餓死なり凍死なりして身元不明の遺体として誰にも見つけられることなく土に還っていたかもしれない。
俺はあの日、道さんに救われた……。得体のしれない、かわいげのないガキだった俺を聖霊館という新しい家の住人してもらった。だから……。
アルクィンは家族を見捨てない、誰が言い残したのかは不明だが聖霊館に代々伝わってきた訓示であり戒律である。家族であり、妹と言っても過言ではない美奈を傷つけたあの男、岡部龍吾に自分の手で相当の報いを受けさせなければならない。
それぞれの配置を改めて確認する。瞬と伸治たち数名は、土手下の物置小屋の中、周辺の草むらには清秀ら蓮華児童園の子どもたちが待機している。まずはこの舗装されていない土手下の小道に誘い込み、正面で通せんぼしてから、背後と側面を塞ぐ。完全に包囲してから、やつに最後の懺悔の機会を与える。開き直り、悪態をつくようならそのまま……処刑である。
「……! 来たぞ!」
土手の上をヘラヘラ笑いながら歩く一団、男子三名、女子二名、球技大会でみた連中とほぼ同じ構成だった。
早くも眉がつり上がる、はやくあのにやけ面に渾身の一撃を叩きこんでやりたい。
「瞬……」
瞬の鬼の横顔を見た伸治が裾をつかんできた。激憤で手順を間違えて逃げられるわけにもいかない。軽く伸治の指を叩いて、自分は冷静である旨を伝えた。
ターゲットを小道に誘い込む役割の偵察隊が後方に見えてきた。そろそろか、というタイミングで、
「……なに?」
岡部一味の一人が振り回した体育袋がすっぽ抜けて土手下まで飛んできた。
「バーカ!」
笑いながら、体育袋を取りに行く仲間の後を追う形で岡部ら全員が降りてくる。
天祐としか言いようがなかった。誘い込むまでもなく、自分たちの手のひらに獲物が入り込んだ。
とっさに偵察隊に誘導作戦中止を伝達した。もはや小細工を弄するまでもない。岡部らがどんどん近づいてくる。
周辺に人影なし、空は黒雲が夕日に染められており、9月にしてはかなりの暗さ、草に囲まれたこの隘路では遠目にもなにをやっているのか理解するのは難しいだろう。うまく行きすぎている展開に心臓が早鐘を打ち始めた。ターゲット接敵まであとわずか、
5……4……3……。
心中でカウントダウンをはじめた。
2……1……0……!
終えたと同時にドアを蹴破って、外に飛び出した。そのまま岡部の正面に立ち、殺意を込めた視線で見下すように睥睨した。
岡部らが立ち止まり、目を丸くした。いきなり現れた数人の小学生が何者か図りかねているようだ。その次の瞬間、ガサガサと草が揺らされる音があちらこちらで鳴った。清秀らも姿を現す。普段の陽気な彼とは思えないほど怜悧な目つきになっており、隣の伸治が冷や汗をかくほどだった。後方も塞がれ包囲は整った。
「な、なんだよお前ら……」
岡部が威嚇するような声を出した。
「へっ、思ったよりアホだったなこいつ。ここまで楽に行くとは思わなかった」
清秀がせせら笑う。
「岡部だな……」
ドスのきいた声で、呼びかけた。岡部がこちらを睨みつける。
「……誰だよお前」
「聞いてるのは俺の方だ、カス野郎」
連れの男女がすくみ上がった。今の瞬は、誰も信じない河川敷の浮浪児だったころの獰猛な目を取り戻していた。
「お前は岡部か」
「だったらなんだよ……」
一歩踏み出した。岡部が見知った同級生の顔を見つけたようだ。
「おい、誰なんだよこいつ?」
呼びかけるも返ってきたのは敵意に満ちた視線、しかしまだ岡部は状況が読み込めていないように見える。
「竹井ってやつはどいつだ?」
岡部の右横にいる女児が寒気立った、この女のようだ。
「お前……美奈になにか恨みでもあるのか……?」
「え?」
「沖中美奈になにか文句でもあるのかって聞いてんだよ!」
近くに転がっていたリットル缶を蹴り飛ばした。竹井が戦慄して凍りつく。
「あ……あ、あり……ありません!」
瞬たちの要件と、今の自分たちの立場がだいたい呑み込めたようだ。伸治がきつく口を結ぶ。
「てめえ!」
岡部が顔を赤くして怒声を発するも、数の不利が理解できないわけではないようで掴みかかってはこない。悔し気に手を震わせる岡部。
とりあえず竹井に恐怖を刻むことには成功した。もう一人の震えている女児は竹井の舎弟みたいなものらしいので間接的に脅せばいい。だが、今後のためにまだまだ念押しする。
「さて、岡部龍吾くん。おじさんたちが今から君の罪状を述べるから、事実に反することがあったら反論したまえ」
清秀が慇懃無礼な態度で嘲るような口ぶりで岡部を煽った。
「なにいってやがる……」
清秀の口から、2学期に入ってからの岡部が行った暴行、暴言、嫌がらせ、その他もろもろの迷惑行為が告げられた。
「……」
沈黙する岡部、他の仲間は完全に縮み上がっていた。
「次は俺の番だ、お前……一昨日の球技大会の昼休みに、うちの美奈の顔にボールをぶつけたな……?」
竹井が、口を半開きにしたままうつむいた。普段から彼女が岡部に美奈への暴行を教唆していたことの証明と受け取った。
「……れが」
「あ?」
「それがなんだってんだよ」
岡部の悪態に心中でほくそ笑む。望む方向に寄ってきてくれた。謝罪などされて、大義名分を失うようなことがあったらたまったものではない。罠にかかった熊がとどめを刺してくださいと暴れるような自殺行為なのだが、岡部はそのことに気づくだけの冷静さを失っている。
「あのボケがとろくて足引っぱったから気合入れてやっただけだ」
「上等だ……」
血流に一瞬で熱が加わった。軽く肩を揺らす。
「だいたいそれがおめえになんの関係があるってんだ、ああ、おめえも施設のガキか。お仲間同士で傷の舐め合いやって」
「最後のチャンスをやる」
岡部が言い終わる前に、言ってやった。もうこれ以上こいつの雑言に付きあう気はないが、体裁は整える必要がある。
「お前がこれまでやったことを詫びる意思があるなら、ここにいる全員で代理して聞いてやる」
「はぁ?」
「ないなら……」
さらに一歩近づく。あと一歩で手が届く距離まで詰めた。
「今、この場でぶっ潰す……」
チラリと後方の撮影係に目をやった。携帯を構えており、準備は整っていることを確かめた。眼前の瞬に、意識を集中させ過ぎている岡部らは気づいていない。
「……やってみろよ」
瞳を震わせながらの挑発、見え透いた虚勢だが、隣の竹井の前ということで意地になっている。狙い通りだった。
「交渉決裂だな……」
息を吐いた。人を殴るのは昔の児童相談所で不条理な暴力に抗った時以来だ。
「俺の方が、一つ上だからな、ハンデやるよ。先に打たせてやる」
つま先で地面を蹴って砂を舞わせる。開戦の合図だった。プルプルと武者震いする岡部、ノーガードで目の前に立つ瞬の意図が読めずに、次の動作をどうすべきかわからないでいるようだった。
さっさと殴ってこい、と言わんばかりの瞬の舐め切った態度に、徐々に目には怒りの火がともってゆく。
「どうした、腰抜けぇ」
清秀が煽りながら手振りで、仲間たちに合図を送った。笑ってやれ。一斉に嘲笑と嘲罵が岡部を襲った。
「ッ!」
女の前でこれ以上醜態はさらせないと思いきったようだ。力を込めた右ストレートを瞬の頬に叩きこむ。
弱いな……。
あの時、年かさの少年たちに一方的なリンチを受けたあの痛みに比べれば、遊びのような衝撃だった。後ろの撮影係が、突き上げた親指を下に向けて回した。証拠は押さえたというサイン、ずいぶん迂遠な真似をしたがこれで一応の名目は整った。降りかかる火の粉から身を守るために、美奈を守るために、
「ふ……オラァ!」
力を行使した。
まずは美奈がケガしたのと同じ口元に一撃を叩きこむ。
「ぐぁ!」
さらに口を押えて、痛みに悶える岡部の腹にフックを見舞った。顔面の痛みに加えて、腹部への衝撃にせき込んで後ずさる岡部。逃さないとばかりに、追撃の横振りの拳が岡部の側頭部を揺らし、バランスを崩して地に膝をついた。ゲホゲホと呼吸を乱す岡部を見下ろす。
「抵抗しろよ」
予想以上に張り合いがない。
「て、てめえ俺にこんなことして……ただで済むと思って」
頭頂部に拳骨の鉄槌を降ろした。
「ぐぁぁ!」
叩きつけた拳の指が頭蓋骨を滑って空を切った。痛みが引く間も与えず、追撃の蹴りを顔面に加える。岡部が吹き飛び両手で、地面をついた。もはや反撃の糸口などやつにはない。
両手を払って、一旦攻撃を停止する。ここからが追い込みの本番である。
清秀が絶望的な表情で青ざめている岡部の仲間の顔を覗き込んだ。
「助けなくていいの?」
「……」
顔だけ回して、口元を震わせる男二人に女二人。
「それじゃあ、次はこいつらかな?」
清秀が演技がかった口ぶりで瞬に呼びかける。
「ま、待って! 待ってください!」
岡部の仲間の男子の一人が、涙ながらに慈悲を乞うた。
「うーん? 君たちあれの友達なんでしょ?」
「違います! 俺は……ずっとあいつのやり方についていけないと、ほんとは思ってて……!」
「お、俺もです!」
もう一人の男も、屈服したようだ。
岡部が鼻血を垂らしながら呆然と連れの二人に目を向けた。
「へえ、そうなんだー。どうするみんな?」
全員を見渡すように体をゆらりと回す清秀。中学生組が軽く顎を振って、見逃してやれとの意思を示すと他の同盟のメンバーもうなずいた。
「よし、それなら証拠みせろ」
「え……?」
「あのクソの仲間じゃないなら、一撃蹴り入れてから帰りな」
さすがに度が過ぎていると思ったのか伸治が手を伸ばして制止しようとしたが、押しとどめる。これは岡部に絶望を与えるために必要なステップである。
「できないの?」
「や、やります!」
少年二人が地面に尻を乗せたままの岡部の前に立った。
「そんじゃどうぞ」
岡部の顔をみないようにする二人。
「ささ、顔にきついの入れちゃってよ。加減なんかしたら、グルとみなすぞ……」
初めて清武が低い声を出した。
「……ッ!」
最初の一人が岡部の顔を蹴った。岡部が両手で頭をかばう。時間をかけたくないのか、もう一人がガードしたままの岡部に、連撃の一蹴り、岡部が痛みから声を漏らした。
「そんじゃ、ご苦労さん。もう行っていいよ」
千鳥足でこの場から去って行く二人、振り返ることもなかった。これであの二人は、恐怖だけではなく共犯になったという意識から、告げ口するだけの気力も残らないだろう。
今度は連れの女二人に目を向けた。
「おい……」
瞬の声を聴いただけで、落涙する竹井。目の前で行われた凄惨なる暴力の嵐に完全に言葉を喪失していた。
「こっち向け!」
獣のような咆哮に身を震わせながら瞬に視線を向ける竹井ともう一人。女だから殴れない、などというフェミニズムとは無縁の暴力の徒と見ているのだろう。
「瞬、ダメだ! いくらなんでも……!」
伸治が瞬の肩につかみかかった。いくら美奈の仇とはいえ瞬に女の子を殴らせたくない一心であろう。舌打ちをして竹井をねめつけた。
「竹井だったな……」
竹井が人形のようにうなずいた。
「お前の顔と名前、住所は覚えた。次、美奈に舐めた真似したら殺しに行く。二度とあいつに近づくな」
上下に顔を揺らす竹井、承諾の意すらまともに伝えらなくなっている。
「いいな!」
「……ぁい……!」
ようやく出た竹井の声は蚊の悲鳴だった。
「わかったなら行け、お前もだ」
竹井ともう一人の女児が支え合いながら、小刻みに揺れる足どりで少しずつ遠ざかっていく。その後ろ姿を、口を半開きにしながら岡部が見ていた。
好意を持っている女子の前で、なすすべもなく力の差に敗れて地面にへばりながら、なおかつ仲間に裏切られて蹴りをくらうという屈辱と挫折を与えられた。岡部の顔が生気を失っていき、喪失感に体の幹を支える力が虚脱していく。ほんの数分前までは、我が世の春を満喫していたが、今や人生のがけっぷち、いきがった少年の自信と慢心が折れて崩れた。
岡部を軽侮するように全員で見下す。瞬が、再び岡部の前に立ちふさがった。
「……けんな」
岡部が小さな涙混じりの声を震わせた。
「……ふざけんな……俺が……」
なにをいいだすのかこいつはといった顔になる同盟の面々。
「俺がなにしたってんだよ⁉」
散々説明してやったはずだが、理解していないのか錯乱しているのか、今さらなにをほざくのか。
目を覚まさせてやろうと、軽く蹴りを額に入れる。
「う……」
岡部が現実から目をそらすように、両手で顔を覆い、芋虫のように体を丸めた。
「……お前が、俺の大切な人を傷つけたからだ……」
瞬は、そう述べた。
日も暮れなずみ始めた、あたりの陰惨な空気も読まずに虫がのどかな歌声をあげる。「処刑」は段取り通りに行われたがまだ気が収まらない。もっと徹底的にやらないと美奈が報復の刃を受けるという強迫観念が、瞬の闘争心を燃えたぎらせる。岡部の髪をつかんで強引に引き起こし、顔面に向かってさらなる痛打を浴びせようとしたその時、
「ちょっと待った――ッ!」
土手の上の方から、最近聞き知ったばかりの男の声がした。
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