第61話 本物
トレーナーの手を叩く音が鳴り響いた後、英雄さんはパンチを打ちながら間合いを取っていたんだけど、千歳はリーチの差があるせいか、パンチをガードしては躱しつつも、どんどん体勢を低くし、中に入り込もうとする。
元世界チャンプだというのに、千歳は全くと言っていいほど怯む様子もなく、積極的にパンチを繰り出し、的確に英雄さんのパンチをガードし続けていた。
「すげーだろ? うちの妹」
隣からヨシ君の声が聞こえ、リングの上を見つめながら黙ってうなずいた。
まるで、初めて英雄さんの試合を見に行った時のように、手に汗を握り、一瞬たりとも目が離せないでいると、千歳は右フックを綺麗に食らっていたんだけど、よろけただけで倒れずにいた。
「足腰の鍛え方が半端じゃないし、打たれなれてるから、ちょっとやそっとじゃ倒れねぇんだよ。 見てみ? あいつ、ずっと踵浮かしてるだろ? カウンター狙ってる証拠」
ヨシ君の声を聞きながら、千歳を見つめていたんだけど、千歳は一瞬のスキを見逃さず、ボディに何度もパンチを繰り出していたんだけど、英雄さんは全く効いていない様子で、千歳に仕掛けるばかり。
『す… すげぇ… あの英雄さんと互角に戦ってる… マジでか…』
小さな体で、果敢に元世界チャンプに挑んでいく姿が信じられず、呆然としながら見つめていると、3分経過のゴングが鳴り響き、ヨシ君と二人で千歳のもとに駆け出した。
千歳はヨシ君に出された椅子に座り、女性がマウスピースを外し、差し出してきたボトルの水を一口だけ飲み、呼吸を整えていたんだけど、すぐ近くにいるはずなのに、ものすごく遠くにいるように感じてしまう。
「…お前だったんだな」
声を振り絞るようにそう聞くと、千歳は大きく息を吐きながら答えた。
「千尋じゃない」
千歳はそう言った後、マウスピースを口に咥え、リング中央に向かっていく。
その後ろ姿は、これまで見た何よりもカッコよく見え、その場で立ち尽くしてしまった。
『かっこいい… 昔よりも断然かっこいい…』
そう思った瞬間、手を叩く音が鳴り響き、英雄さんは火が付いたように、現役時代を思い出させる怒涛のパンチを繰り広げ、千歳はガードでそれを受け続けるばかり。
「すげぇ…」
思わず声に出した瞬間、英雄さんの左ストレートと、千歳の右アッパーが同時に決まり、二人ともマウスピースを噴き出しながら倒れこんでいた。
「やりやがった!!!」
慌ててリングに駆け上がるヨシ君を追いかけ、リングで大の字になる千歳に駆け寄ると、千歳は黒目だけをグルグル回している。
「ちー!!!」
ヨシ君の怒鳴り声が響き渡ると同時に、千歳の黒目は動きを止め、ため息交じりに切り出した。
「…父さんは?」
「伸びてる。 ナイスアッパー」
「…そっか」
千歳はそう言いながらゆっくりと体を起こす。
ふと英雄さんを見ると、英雄さんは顎を抑えながら千歳に向かい「ベルト狙え」とだけ。
「嫌だ」
千歳はそう言った後、ゆっくりと立ち上がろうとすると、急にふらつき俺の胸の中に倒れこんできた。
強く抱きしめたい衝動に襲われていたんだけど、千歳は何事もなかったかのように俺の胸を押し、ゆっくりとリングを降りていた。
「な? すげーだろ? うちの妹。 生まれてくる性別が違ってたら、間違いなく世界チャンプだったと思うぜ?」
「…確かに。 マジで半端ねぇっすね…」
「元キックボクサーだって言うから怖ぇよな。 あいつの左ハイキック、マジ半端ないんだぜ?」
「知ってます。 俺、一回食らいました。 蹴り出す瞬間も見えなかったです…」
「…お前、何やらかしたの?」
ヨシ君の言葉に何も答えられず、壁にもたれかかり、呼吸を整えている、『本物のちー』の事を見つめていた。
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