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 何回、彼女の唇に触れ、何回その胸の中に自分の息を吹き込んだだろうか?

 不意に、冷たい空気の塊がシスルの胸から溢れ出し私の口の中に流れ込んできた。

 顔をあげ少佐に「こ、呼吸が」

 サッと頸部に手を当て脈を診る少佐。頬を緩ませつぶやく「脈が、戻った」

 思わずシスルに抱き着き、恥も何もなく大泣きしていた。

 見かねた少佐は「抱き着いて体温を急に上げちゃまずいぜ、ゆっくり温めてやんな」

 ラチャコ君は鼻水と涙で顔の毛をグジョグジョにしながら「姉っちゃよぉ、良かったなぁ良かったぁ」

 ワイナ・ウリさんがほかの仲間に命じる。


「おい、お前ら、この子は今は落ち着てるが何時おかしくなるか解らねぇ、今夜はこの天幕に詰めてみんな順番で寝ずの番だ」


 十五日。気が付くと、天幕の外が明るくなっていた。私はシスルの傍らで眠ってしまっていた様だ。

 彼女の様子が気になり体を起こした途端強烈な頭痛。思わず「あ痛たたたぁ」と口から洩れる。すると。

「姉ぇよ、大丈夫か?」と、シスル。

 頬にはしっかり赤味と艶が戻り、黒い瞳にも生き生きした輝きがともっている。その瞳が、私を心配そうに見つめている。

 そして、不意に上体を上げて手を伸ばし、私の二股に分かれた角を優しく撫でる。

 泣き出しそうになるのをこらえつつ「君の方こそ、大丈夫なの?」

 

「うん、すこしフラフラするけど大丈夫。なんか、昨日は皆に迷惑かけたみたいだな。すまん。あやまる」


『謝らなくてもいいよ』と言いかけて喉が詰まる。思わず口元に手をやるが、一瞬右手の人差し指に飛び上がるほど痛みが走った。

 見ると第一関節から上が真っ赤に変色し水ぶくれが出来ている。・・・・・・凍傷に罹ってる。

 その日の朝食は、両手をお湯につけたまま食脂とほしいいのお粥を少佐に「あーんして、あーんと」と言われながら口に運んでもらうと言う、実に情けない有様に成った。

 ラチャコ君はその様子をみてけらけら笑い、笑い過ぎて酸素不足に陥り頭を抱える始末。・・・・・・あとで覚えておきなさいよ!

 反面、昨日死にかけてたシスルはというと、飯盒一杯のお粥をペロリと平らげ、挙句の果てに「昨日の晩飯の分も今食う」

 鉄人なの?この子??

 天幕を畳み野営地を出発したのは九時。行動できる時間はあと僅か。

 でも全員、なぜか今日中にスーパイプカラの頂を踏む気満々。

 幸い、昨日の私の気迫に神様も怖じ気づいたのか、びっくりするほどの晴天で、おまけにあの馬鹿みたいに強い風のおかけで稜線の雪は吹き飛ばされ、硬い氷がしっかり張り付いている状態だった。

 これなら鉄カンジキの爪をしっかり利かせれば雪をかき分ける事のない分早く進める(昨日の大活躍で爪を痛めたラチャコ君には予備の鉄カンジキを履いてもらう事にした)。

 十三時。スーパイプカラ七一八一 メートルの頂に到着。

 ついに私たちの目の前に天譴の山、オルコワリャリョの全貌が姿を現す。

 奈落の底を思わせる果てしなく黒に近い青空を背にするそれを一言でいうなら、岩の体に氷と雪の鎧を纏った魔王。

 時より吹き抜ける突風が巻き上げる雪煙がまるで姿を隠す薄絹の様だ。

 思わず絶え間なくやって来る頭痛や吐き気も、時々鋭く痛む凍傷に成った手の指のことも忘れて、魅入られたようにその姿に目を奪われる。

 私を含め、一同が無言でオルコワリャリョを凝視する。

 だが、少佐は単眼鏡でその西側稜線を覗いていた。それから私に向け単眼鏡を差し出すと「奴さんらもあそこまで来たか、大尉殿、見てみな」

 渡された単眼鏡を覗くと、雪を頂いた峻嶮な稜線を、十四、五人の白い人影がゆっくりとしかし確実に這い登って来るのが見えた。

 ウンハルラントの山岳猟兵!もうこんな所まで・・・・・・。

 鏡玉レンズに映り込む目盛りを使って山頂までの距離を測ってみるとおよそ一 キロ。私たちより圧倒的に近いが、向うの方が稜線の傾斜は険しい。

「ここから速度を上げれば、此方が先につけそうですね!」と、少佐に言ってみるが、こんどはスーパイプカラとオルコワリャリョの間に連なる鞍部(二つの山を繋ぐ稜線の最低部)を眺めながら、何とも言えない苦笑いをしていた。そして「こりゃぁ、参ったねぇ」

 少佐の隣に立ち視線の先に目をやると、鞍部のちょうど真ん中あたりにまるで巨大な鉈か斧で切りつけたように稜線が割れている個所がある。


切戸キレットだ。底までの落差は八十、いや九十は軽く有るだろうな、幅は軽く見積もっても十二、三 メートル。突破には何時間かかる事やら・・・・・・」


 天譴の山は、ついに私たちに最後にして最大最悪の試練を突き付けて来た。

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