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 皇紀八三七年植月(五月)六日 〇六〇〇

 アキツ諸侯連合帝国新領 臨南州 インティワシ連峰 オルコムリャ山


 一週間後、わたしは過日した返答が実に間違いだったが、体をもって思い知らされた。

 オルコムリャ山、標高六千四百 メートル

 最初はガレ場(大小さまざまな岩や石がゴロゴロ散乱している斜面)だけど解りやすい道が付けられた斜面を延々と上るだけで、退屈なこと以外は度ってことなかった。

 むしろ、振り向けば眼下に広がる臨南州南部の大森林地帯の眺めが本当に素敵で、休憩や幕営の度に見とれてしまっていた。

 それに朝起きた時に広がる雲海の見事な事!

 なるほど、少佐が登山にハマる理由が解るわ。

 などと調子こいていられたのはインティワシ連峰の主稜線に取り付くまでの話。そこからがホントの高所登山の地獄を味わされることになる。

 標高五千九百を超えたあたりから頭を鉄の輪っかで締め上げられるような痛みに襲われ始めた。

 最初は背嚢の重さに肩こりでもしたのかと思って首を振ってみたのだが、その時頭の角が背嚢の上に当たる度に痛みが強烈になり思わず立ち止まってしまう。

 あ、これが高山病かと思い、少佐に言われた通り意識して深呼吸を繰り返してみるけど中々良くならない。

 その上、主稜線といっても場所によっては足場が本当に足の幅程度しか無くて、昔の登山者が撃ち込んだ鉄杭ハーケンに少佐が先行して固定してくれた綱と自分の腰の安全帯に繋がれたスリング開閉鐶カラビナで繋いで安全を確保しながら通過しなきゃならない。自然と進む速度が遅くなる。

 その内、吐き気も加わって作業の為うつむくたびに胃の中から食べたものがせりあがって来て戻してしまう。

 お陰で呼吸が乱れ、充分に酸素を確保できなくて頭痛が激しくなる。

 狭苦しい稜線が終わると、次は万年氷に覆われただらだら続く斜面に代わる。

 ここからは鉄カンジキのつま先を思い切り斜面に蹴り込み足場を造り、氷斧ピッケルをしっかり突き立て一歩一歩登っていかなきゃならない。

 またその動作の度に頭が痛み、今度は意識までもうろうとして来た。

 息を吸う吐く、足を上げる、つま先を斜面に突っ込む、前に進む、氷斧ピッケルを氷に突き立てる。

 それらの作業を一々頭の中で自分に命令しなければ体が動かない。

 ようやく、今日の幕営地に着いて天幕を張るのだけど、昨日はほんの数分で出来た作業がもたもたして中々はかどらず結局半時間も掛かってしまった。

 立ち上がった天幕の中に転がり込み、寝転がって汚れた池の中の魚みたいに口をパクパクさせて息を吸う。

 体を動かして使う事が無くなった分すこしは脳味噌に酸素が行くようになり意識はハッキリしてきたけど頭痛はまだ収まらない。

 背嚢から敷物や寝袋を出していると天幕の入り口が開いてシスルが入って来た。そして。


「ライドウが今日はシィーラと一緒に眠れと言うので来た」


 心配で彼女を付けてくれたのだろう。有難く受け入れることにする。

 その日の夜は少佐の天幕で食事を摂った。

 今日の献立は石油コンロで温めて溶かした食脂ペミカンほしいいを入れたお粥。

 食脂ペミカンとは溶かした牛脂に干し肉や干し芋、乾燥野菜を付け込んだもので空気に触れさせず涼しい場所に置けば一年や二年は平気で持つ保存食。

 オタケベ風はこれに刻んだ塩やニンニク、香辛料を加え風味をつけるので、これを温めて溶かし、中に糒や押し麦を入れるだけで栄養満点のお粥が出来ると言う中々のスグレモノ。

 ただし、保存用の器として男性用の避妊具コンドームを使うのが難点で、冷まして半生状の食脂ペミカンをこれに入れる様子と、出来上がったそれが台所に整然と並んだ様を見た時は正直びっくりして悲鳴を上げちゃった。

 で、少佐曰く


「試行錯誤の末『吶喊一声』(軍支給の避妊具の商標)に入れるのが一番ってのが俺様の結論なの。伸び縮するし気候の変化にも強いし、民間用と違って丈夫だしな。何しろ安くて使い捨てが効くってのが良い。それによぉ、べつに使用済み使ってる訳じゃねぇから神経質に成んなよ」


 イヤ、そう言う問題じゃないでしょ?

 最近ではこの何とも言えない見た目にも慣れて、美味しく頂くことも出来るようになったけど、今日は高山病のお陰で二口三口食べただけでもうお腹がいっぱいになってしまった。

 少佐が「兎も角水分だけはしっかり摂りな」と淹れてくれた練乳をたっぷり入れたお茶は何とか二杯は頂く。

 あの流石のシスルも今日は食が細い、ホーローのお椀一杯で御馳走さまを言い出す。彼女も少しは応えている様だ。

 で、少佐はというと、残りをペロリと平らげ、その上お茶も中に麦火酒ウイスキーを垂らして飲む始末。

 流石としか言いようがなわ。


「シィーラちゃんもシスルもキッチリ高山病の洗礼を受けたみたいだけど、大丈夫か?」


 そう言われて私は何も言えず頷くほかなく、シスルも「頭が痛い角がもげそうだ」と珍しく弱音を吐く。


「五三〇二峰の時は息苦しいだけだったんですけど、ここの稜線に上がった途端に・・・・・・。こんな物なんですか?」


 これが今日発した一番長い言葉。それに少佐は。


「そんなもんだよ。お前さんは産まれ育った場所が四千 メートルもあるような高原だったし、シスルの場合も元々身体能力が高いから今まで平気だっただけさ。中には二千四百 メートルを超えた途端キッチリと発症する奴もいる。俺だって明日には発症するかも知れねぇし、オルコワリャリョに行けば多分無事じゃ済まねぇ。高山病を直すには基本、山を下りるしかねぇ、あとは高度に体をならすことだな。ほとほと自然って奴は、人間に厳しく出来てるのさ」


 人間の社会も人間に厳しいのに、自然まで人間に厳しいなんて……。じゃ、人間に優しくできている場所ってあるの?

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