第227話 劃策(かくさく)する狼、嗤う戴勝(ヤツガシラ)
2022年5月19日(木曜日)。
イスラエルの国営放送が速報を伝えた。
『今、入ってきた情報です。トルコのギュルセル大統領が、オザル大統領毒殺に関与していた事が判りました』
オザル大統領の写真が画面一杯に表示される。
オザルの名は、日本人でも有名かもしれない。
エルトゥールル号の恩返しとして、イランイラク戦争中の1985年、孤立した日本人約200人を態々、自国の民間機を派遣し、救出させた大統領だから。
そんなオザルは、1993年4月17日、在任中に心臓発作で急死した。
1988年の党大会で銃撃(当時、日本のテレビでもその様子が放送された)された大統領の急死に、暗殺説が出るも確固たる証拠が無く、長らく真偽不明であったが、2012年、遺族の要望により解剖が行われた結果、毒物が検出された為、暗殺が正しかった事が証明された(*1)。
軍部による犯行説もあるが、真犯人は、現在も判っていない。
イスラエルの報道に対し、ギュルセルは事実無根と猛反発。
イスラエルの大使を「好ましからざる人物」として追放し、テルアビブのトルコ大使を召還させた。
これで両国間の緊張が一気に高まった。
『―――トルコ、イスラエルの対立について、アメリカのカミラ大統領は、両国に対し、自制を求め、スイスでアメリカを交えた3か国首脳会談を提案しました。両国の外務大臣は、相互を非難しつつもアメリカの提案には、乗り気で、近々、和解を目的とした会談が行われる可能性が出てきました』
蚊帳の外である煉は、流動的な中東情勢をテレビで観ていた。
今晩、夜を共にしているナタリーが寄りかかる。
「ギュルセルが暗殺したと思う?」
「ウルスラから聞く限り、そんな人間とは思えないよ」
ギュルセルは、根っからの愛国者だ。
現役時代の大半をクルド人テロ組織掃討作戦に捧げた為、身内に手を下す暇は無かった筈だ。
「オザルの任期中、調べた限り、ギュルセルは、│PKK《クルディスタン労働者党》と戦争していたよ」
「そんなの知ってるんだ? じゃあ、私のスリーサイズも知ってる?」
「じゃあ、今から調べるよ」
抱き締めて、体中を触りまくる。
「もう♡
前世の傭兵時代ならば、事前に下調べした上で、レバノンに乗り込んでいただろうが、今は妻帯者であり、外交官。
アドルフ国王の勅令が無い限り、通常業務以外の仕事は、不可能である。
テレビを消した後、灯も消す。
その晩、2人が励んだ事は言うまでもない。
レバノンは、ベイルートより南をイスラエルが、それより北をシリアがそれぞれ占領し、WWII開戦直後、独ソに分割されたポーランドのようになった。
たった数日で、ベイルート以外を2か国に占領されたのは、レバノンの腐敗政治に多くの国民が失望していたからだ。
多くの都市で兵士達は敵前逃亡、或いは無条件降伏し、2か国とも殆ど被害を受けずに進撃出来たのである。
ヒズボラはシリアと結託した事も大きい。
反政府デモを主導していたヒズボラは、シリアが南進直後から、シリアの南下に協力したのだ。
内憂外患のレバノンは打つ手が無く、ベイルートも、現在は、2か国の緩衝地帯になってはいるものの、2か国次第では、すぐに陥落するだろう。
テルアビブのモサドの施設に、今回の主犯が居た。
「イルハン、水だ」
「有難う」
イスラエル国防軍の軍服を着用した太ったトルコ人は、美味しそうに水を飲む。
元祖国平和協議会の大佐だ。
政変未遂時は、瘦せていたが、長い亡命生活の中、怠惰になり、今では巨漢になっている。
モサドの職員は、尋ねた。
「それで、スレイマンとは、どこまで話が出来ている?」
水を飲み終えた後、イルハンは屈託の無い笑顔で答えた。
「まず北キプロスに居る祖国平和協議会の同志がトルコ軍に成りすまして英軍基地を襲う。それで、土英関係が悪化だ」
「ああ」
「同時にシェバア農場の貴軍を襲ったのもトルコ軍兵士と報じる。先日の暗殺事件の報道を含めた3連発だ。これで経済制裁。支持率もジェットコースター並に急降下。最後に政変で世俗派の勝利だ」
「……」
余りにも出来過ぎた展開なので、職員は渋い顔だ。
去年―――2021年に世論調査会社が発表した調査では、2023年の総選挙で与党の敗北をトルコの国民の53・7%が予想している(*2)。
その為、若しかすると、無策でも勝てるかもしれないのだが、祖国平和協議会の残党は念には念を入れよの精神で、この三つの計画をモサドに提案し、実行に移したのである。
シェバア農場での真相は、こうだ。
イスラエル政府が用意した犯罪者達を祖国平和協議会が殺害し、戦争を起こさせ、ギュルセルに自分の存在を気付かさせる。
本来ならば隠蔽するのだが、敢えて知らせたのは、ギュルセルの弱点であるヒステリックな部分を利用したのだ。
案の定、ギュルセルはテレビで放送禁止用語を連発し、猛非難。
国内外には、「有事の際、冷静沈着に対応出来ない指導者」と映った筈だ。
ロシアのある大統領も、テロの際、「例え便所に隠れていても息の根を止めてやる」とは言ったものの、ギュルセル程、感情を剥き出しにする事は少ない。
「然し、今更ながら良いのか? こっちが言うの何だが売国奴だぞ?」
「国を変えるならば、俺は喜んでイスラエルと手を組むよ。チャーチルがヒトラーを倒す為に悪魔と結託したようにな?」
チャーチルが言う悪魔とは
WWIIでナチスを倒す為に止む無くソ連と同盟国になったものの、
『歴史上のあらゆる専制の中でもボルシェヴィキの専制は最悪であり、最も破壊的にして、最も劣等である。「ドイツ軍国主義よりはマシ」等というのも誤報だ。ボルシェヴィキ支配下のロシア人は帝政時代よりずっと悲惨な状態に置かれている。レーニンやトロッキーの残虐行為は
『ボルシェヴィズムは政策ではなく、疫病である。思想ではなく、ペスト菌である』(*3)
『私がボルシェヴィキを嫌悪しているのはその愚かな経済政策や不合理な主義の故では無い。奴等が侵入した土地にはその犯罪的体制を支える為に赤色テロが行われるからだ』(*3)
と盛んに反共演説を行い、ヤルタ会談等でもスターリンと喧嘩ばかりしていた、とされる。
戦後も一貫して、反共主義を貫き、同じ様な演説を行っている。
「……戦後は、冷戦か?」
イルハンは、首を振った。
「いや、俺は、貴国と敵対する気は無いよ。聖地の問題には、我が国は、無関係だからな」
ギュルセル等は、エルサレム問題で反以の立場だが、イルハンは、真逆だ。
中立派ではないにせよ、無関心、という所だろう。
「計画が成功した暁には、我が国の大使館をエルサレムに移すよ」
エルサレムの地位に関しては、国によって見解が異なっている。
日本を含めた多くの国々では、パレスチナに配慮して、イスラエルの首都をエルサレムではなく、テルアビブとし、そこに大使館を置いている。
然し、2018年にアメリカがテルアビブからエルサレムに大使館を移転させると、
・2018年 グアテマラ
・2021年 ホンジュラス
と続く国々が現れ、この他、
・ブラジル
・セルビア
・チェコ
・ドミニカ共和国
・コソボ
等が移転の動きを見せている。
一方、
・日本
・ロシア
・中国
等、依然、多くの国々では、テルアビブのままだ。
肝心のトルコは、東エルサエムに大使館を移す動きを見せている(*4)。
これは、イスラエルを認めた訳ではなく、「パレスチナの占領下にある首都」という認識の下での事だ(*5)。
そんなトルコがイルハン政権になれば、これまでの見解を改め、イスラエル側に
パレスチナ問題で四面楚歌なイスラエルには、望めるなら仲間が必要である。
ヨルダンとは、平和条約(1994年)を締結出来る程、関係が良好だが、軍事的に強いかどうかは、言い難い。
その点、トルコは、長年、クルド人テロ組織やISとの戦争を行っていた為、手慣れてはいる。
もし、イスラエルとトルコの関係が良くなれば、シリアやイランに大きな牽制に成り得るだろう。
「決行日は、いつ?」
「今月の27日だよ。現代のバヤルには、相応しい日だ」
1960年5月27日、トルコの第3代大統領のジェラル・バヤル(1883~1986)は、軍部の政変に遭い、失脚した。
バヤルが軍部から敵視されたのは、1950年代末、経済政策に失敗したのを誤魔化す為に言論弾圧を強め、更にアタチュルク以来守られていた世俗主義を緩和した事から、世俗主義の番人である軍部の危機感を招き、政変を起こされたのだ(*6)。
ギュルセル政権下では、軍部の影響力が以前よりも低下しているものの、それでも諸外国よりも政治色は強い。
世俗派であるスレイマンには、多くの軍人が賛同するだろう。
「成程。
祖国平和協議会残党とモサドの秘密計画は、着々と進むのであった。
[参考文献・出典]
*1:Zaman 2012年06月17日
*2:NNA EUROPE 2021年10月14日
*3:山上正太郎『ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争』誠文堂新光社
1960年 一部改定
河合秀和『チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』
中央公論新社〈中公新書530〉1998年 一部改定
*4:The Hill 2017年12月17日
*5:CNN 2017年12月13日
*6:新井政美『トルコ近現代史』みすず書房 2001年
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