第174話 トロイの木馬
ロシアとトランシルバニア王国は、ほぼ国交は無い。
ほぼ、というのは、一応、両国は相互に大使館を設置しているが、表だっての交流は殆ど無いからだ。
事実上の断交、と言っても良いだろう。
一応、大使館を設置したのはアメリカの圧力で渋々しただけなので、トランシルバニア王国には何の意思は何もない。
なので、両国の大使館は国際法上の権利は守られているものの、他国のような外交活動はしていない形だ。
イゴールは、会談場所のホテルにて、首相のウラソフと会う。
名前からして分かる通り、ウラソフは、ロシア系だ。
大きく後退した髪と、黒縁眼鏡が特徴的な彼は白系ロシア人の子孫で、先祖は代々、ロシアの帝室に仕え、革命後は白軍に属して赤軍と戦い、WWIIではナチスと手を組み、あのスターリングラードで、ソ連を追い詰めた。
戦後は、
ソ連崩壊後はトランシルバニア王国に移住し、そこで政治家になった経歴を持つ。
ウラソフ自身は従軍歴や対独協力者という訳ではないのだが、先祖の前歴が問題視され、アメリカやイスラエルへの入国は難しい状態になっている。
似たような人物は、オーストリアのクルト・ヴァルトハイム(1918~2007 *1)だろう。
彼は、ナチスの突撃隊に属していた経歴を持つ政治家だ。
その為、彼が1986年、大統領選挙に出馬した時、米英仏等の旧連合国の一部が反対した。
然し、オーストリアの国民は、これを「内政干渉」と反発し、ヴァルトハイムは当選。
同年から1992年まで、8代大統領を務めた。
アメリカ等が問題視したのは、「元突撃隊」という前歴だけでなく、ヴァルトハイムが「戦争犯罪に関わったか」だ。
その根拠が、ドイツ国防軍の「E軍集団に参加した過去」だ。
このE軍集団は、
・ディストモの大虐殺(1944年6月10日)
ギリシャのディストモ村で成人男女と子供合わせて214人が殺害(*2)。
等を行った悪名高き軍隊であり、ヴァルトハイムもその軍隊に属していた為、調査対象になったのだ。
調査の結果、通訳として参加していただけで戦争犯罪に関わっていなかったことが証明されたが、それでも一度ついたイメージは払拭することが出来ず、彼は連合国の多くから
日本には1990年に即位の礼で来日している為、外交が出来ない分、貴重な経験になっただろう。
ウラソフの場合は先祖のことなので、ヴァルトハイムのようにはなっていないが、対独協力者の子孫という為、一部の国々からは評判は良くない。
それはロシアからも同じで、ソ連を追い詰めた先祖のイメージが強く、ロシアでも評判が悪いのが、現状だ。
ロシア人からは、嫌われいるウラソフを、イゴールは三白眼で射貫くように見つめる。
「私の急な御願いにお応えして下さって、
「いえいえ」
ウラソフも負けてはいない。
冬戦争(1939~1940)の際、大国・ソ連に全く怯まなかったフィンランドのように。
「それで今回、御越しになった件は?」
出迎えを寄越さず、お茶も出さない。
それが、ウラソフの答えだ。
「単刀直入に申し上げましょう。―――
「……はい?」
「あの領地は、元々、我が国の
「……急ですね?」
「急ではありませんよ。我が国では、そのような見解がありましたが、今まで親米政権だった為、政治問題を避けていたのです。然し、私は、中道です。親米も反米もありません。ただの愛国者です」
「……」
指摘通り、煉の領地になった場所は、冷戦期、国営農場だった。
その点は、紛れも無い事実だ。
だが、もう一つのは、我が耳を疑った。
「ロシア人追放というのは、我が国との見解が違いますね」
「と、言うと?」
「あの時―――共産政権が崩壊した際、ロシア人は我先にソ連に帰っていた為、我が国が彼等を追放したことはありません。百歩譲って、それを事実とするのであれば、我が国のドイツ系住民は、貴国等の反枢軸国が行ったドイツ人追放を持ち出すでしょう」
ドイツ人追放は、WWII末期からその直後にかけて行われた出来事だ。
ナチスの占領地に住んでいた大奥のドイツ人は、着の身着のままで追われ、帰国途中、或いは強制収容所で死亡した。
その正確な数は今尚、不明だが、1240万人(1650万人とも)ものドイツ人が追放され、その内、210万人以上が死亡したとされている(*3)。
「……分かった」
イゴールは数度頷いた後、その三白眼を光らせる。
「我が国は、貴国との友好条約を求めている。その為の和解なのだ。理解してくれ」
イゴールが帰った後、ウラソフはげっそりしていた。
(……トロイの木馬か)
防諜機関の調べで、イゴールの狙いは最初から分かっていた。
公言しないものの、状況的には、トランシルバニア王国が不利になっている。
その理由こそが、ロシア系住民の存在だ。
トランシルバニア王国は、多民族国家なのでロシア系も居る。
冷戦期、共産党政権の下でロシア人と結婚したり、そのまま居付いたりしている者だ。
彼等の多くは、現体制に不満を持っている。
ロシアから独立した手前、どうしても、トランシルバニア王国では、ロシアが悪役になり易い。
戦争ドラマや映画でも、当然のようにロシアが悪役として描かれ、一般のドラマでもロシア人は悪人が多い。
ロシア系住民が一斉に蜂起すれば、益々、民族対立が根深くなるだろう。
アメリカで白人と有色人種の分断が中々解決出来ない様に、トランシルバニア王国でも、これは重要な問題であった。
然し、道を誤れば、トランシルバニア王国は、ウクライナのようになるかもしれない。
ウクライナは、東部にロシア系住民と親露派が多く、それが内戦の原因になった。
又、残留ロシア人も問題だ。
似たような事例がエストニアである。
———
『エストニアは、ソ連からの独立後、国内に残った残留ロシア人の問題を抱えている。
2010年時点では全人口の内、
エストニア国籍:84・1%
ロシア国籍 :7・03%
無国籍 :7・26%(大多数は民族ロシア人)
である。
非エストニア国籍者
→地方行政区への投票権 〇
ロシア語を母語とする人は、特に首都タリンでは46・7%と半数近く、ロシア国境に位置するナルヴァでは93・85%と大半がロシア語を母語とする住民で占められている等、都市部では実質的なロシア語圏の様相を持っていると言えるが、公用語には制定されていない。
看板・広告等でのロシア語表記は制限されているが、テレビやラジオ等ではロシア語系住民の為のロシア語放送がある。
然しながら、反露感情の強い国民性の上に若年層のエストニア人の間では、
・独立後にロシア語教育が必須でなくなったこと
・2004年のEU加盟によりイギリスやアイルランドでの留学、労働経験者が急増したこと
で英語能力が急速に高まり、英語が話せてもロシア語を話すことができない若者が急増している。
一方、ソ連時代に教育を受けた40歳前後以上の世代ではロシア語はほぼ理解出来るが、英語は苦手である場合が多い。
更に、ロシア語系住民は若年層を除くとエストニア語が苦手である等、エストニア人とロシア語系住民の断絶が続いている。
このように、ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっている』(*1)
———
ロシア系住民の中には、イゴールを救世主と見る者も多いだろう。
ただでさえ、ドイツ系とフランス系の対立が激しい中、今度はロシア系まで混ざると、大混戦だ。
政変未遂の時、フランスが理由を作って介入したように、対立が激化すればするほど、諸外国が介入することは、目に見えている。
イゴールのことだ。
それを分かった上で、強気なのだろう。
(……困ったな)
会談を終えたイゴールは、宿泊先のホテルに入っていた。
「「「
深夜にも関わらず、多くのロシア系住民が集まっている。
「長官、
「明朝、空港に着きます」
「会いたいが出来るか?」
「トランシルバニア王国と交渉します」
「頼む」
イゴールが電撃訪問したのは、何も政治的な理由だけでない。
予てより関心があった煉と会う為だ。
彼が春休み、トランシルバニア王国に旅行する、という情報をFSBが入手し、予定を全てキャンセルし、訪問した訳である。
長官が去った後、イゴールは、窓の外を見た。
防弾ガラスでは無い為、狙撃される危険性があるが、平和主義のトランシルバニア王国のことだ。
「……」
FSBの長官だった時、イゴールは煉の存在を知った。
臓器移植で生き返った米兵。
目立つのが、1989年の戦功だ。
当時の王女に取り入り、革命を成功させた。
昨年末には、政変を防ぎ、今年に入っても、第2の2・26事件を防いだ。
報道されていないが、駐日ロシア大使館のテロも鎮圧している。
現時点で反露的な言動は見られなず、又、過去にロシア人とも親しくしていることから、ロシアを嫌っていないように見える。
(……奴はミハイルか?
明日が楽しみだ、と嗤うイゴールであった。
[参考文献・出典]
*1:ウィキペディア 一部改定
*2: Greek Government response to ICJ Ruling" Embassy of Greece
*3:ドイツ連邦統計局 1958年、1965年の発表
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