五十八話 先生、あの年は私の特別です


「結花、おまえ……」


 思わず目を開いてしまう。目の前に濡れた瞳があって、彼女が瞼を閉じると、目尻から雫が頬にスッと流れ落ちる。


「謝らなくちゃなりません。本当はあの初デートのときにしようと思っていたんですけど……。下手って思われるのが怖くて……。遅くなって本当にごめんなさい……」


 そこまで悩んで……。そうだ、楓の時もそうだった。


「まさか、初めてか?」


「はぃ……。私の初めてです……」


 負けた。これは俺の完敗だ。


 薄明かりの部屋でも分かるほど、顔をリンゴのように真っ赤にして俺を見ている結花にもう一度手を伸ばす。


「ありがとうな。結花の気持ち、ありがたくいただくよ。その代わり……、もう返すことはできないぞ?」


「はい。夢で何度も予行練習したんですけど、そんな必要ありませんでした」


 バルコニーに出て、結花と一緒に海を見るために後ろから抱きしめた。


「あの……結花……?」


「はい?」


 本当にこいつは天然なのかわざとなのか分からない。


 Tシャツの下に下着を付けていない。


 よく見れば胸元に二つの突起が小さく浮き上がっているじゃないか。それにもかかわらず、全くよこしまな嫌らしさを感じない。


 それに気づいた結花は、「寝る前だったので、すっかり忘れていました」とクスッと笑って俺の右手を彼女の左の膨らみの上に載せた。柔らかさと弾力がベストな割合で配合されている。最高性能の低反発枕だってこの感触は無理だろう。


「陽人さん、感じていただけますか? 私の心臓、動いています……」


 シャツ越しだけど、彼女の体温とその奥で刻んでいる鼓動を手のひらで感じる。


「あぁ」


「これを動かす力を私にくれたのは、間違いなく陽人さんです。私がこれから歳をとって、この心臓が止まるその時まで、一緒にいさせてください」


「結花……」


 彼女は話してくれた。さっきの続きを。


 中学生の頃には、それでも何人かの男子からは声をかけられたそうだ。


「でも、その声をかけてくれた理由は、『かわいいから』がほとんどでした。私も『同級生のお友だち』が精いっぱいでした」


 中学生では仕方ないかもしれない。


 見た目が好みということであっても、きっかけになる理由としては決して悪いこととは思わない。


 もともと年度末生まれの結花は同級生を並べたときに少し幼く見える。それをひとつの魅力とアピールしたって、それが彼女の魅力として思うかは受け手の気持ち次第だ。


「でも、その頃には私も分かっていました。あまり体が丈夫でないこと。一度、一緒に行った遊園地で、申し訳ないことに貧血で倒れてしまったことがありました……。その子にとっては、きっと初めてのことで……、気味が悪くなったんだと思います。それからは、私に声をかける男の子はいなくなりました。自業自得ですね。体調管理ができなかったのですから」


「そんなことはない。誰にでも起きることだ」


 あの教室での事件とレベルは違うが中身は一緒だ。


 女子に限らず一時的な貧血で倒れてしまうなんてことは普通にあることだ。そもそも彼女が謝るようなことじゃない。たったそれだけのことで……。


 なぜ結花ばかりがと思ってしまう。


 本人が悪いわけでもないのに周囲が避けていく。


 彼女の性格から、初めてでも記憶に残るほど心情的にきついはずなのに、二度目だとあの当時に分かっていたら……。


 結花が言っていたように、「同じ過ちを起こさないように」と人付き合いは苦手になるだろう。


「でも、不思議でした。先生のクラスになった年は、あの病気が分かって入院するまで、学校を休むことがなかったんです。友だちは……結局ちぃちゃんしかできなかったけれど、とても充実していた高校二年だったんです。……あのときが私の青春時代と呼べるものだったのかもしれません」


 それは間違いない。苦手なことも逃げない。いや、逃げることを許されない。


 それが周囲が押し付け、また彼女自身が受け入れてきた『原田結花の生き様』だ。


「ちぃちゃんの言うとおり、先生には私のいいところも悪いところも見せてしまったと思います。身体の事も……。それでも、私でよかったんでしょうか……」


「もちろんだ。結花、これから先、ずっと頼むよ」


「はい。それを聞いて安心しました。遅いので休みますね」


「そうだな、明日は早いぞ」


 結花はもう一度俺にキスをして、「おやすみなさい」と扉を閉めた。


 隣の部屋を見ると、ベランダに水着と今日の服がかかっていた。あとで洗っておくと言っていたな。その部屋についた灯りもすぐに消えて真っ暗になった。

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