五十六話 繰り返したくなかったよね…でも…


 先生が扉を閉め一人に戻った部屋で、力無く立ち上がって、バスタブにお湯を張る。


 その間にワンピースを手洗いして、水着と並べてハンガーに干した。このくらいなら寝る前から風に当てておけば、明日までに乾いてアイロンで仕上げられる。そのためにフロントからアイロンも借りてきた。


 お湯が溜まって、残っていたキャミソールや下着も脱いで体を洗う。


 日焼け止めを塗っていたとは言え、それなりに焼けている。


 でも、水着よりもワンピースで過ごした時間の方が長かったから、水着焼けとは正面からは分からないと思う。


 お湯に浸かり、体を見下ろしてみた。


 学生時代から自慢できるには遠く及ばない胸元の膨らみの下の方。おへその近くに三つの一センチほどの傷がある。


 大親友である千佳ちゃんにも見せたことはない。これが、私がもう生まれたままの体でなくなった証拠だから。


 これを見せたくなくて、今回も水着をワンピースにしたんだよ……。


 先生も私も、これを見るとあの冬を思い出してしまうと思ったから。


「私だって……、同じです……」


 手術で切除してしまったから、私には左側の片方にしか卵巣がない。


 術後の定期検査で、残り一つで機能はしてくれているというけれど、体がどこまで対応できるのか。


 こんな私でも新しい命を授かることができるのか。もう片方がいつ使えなくなってしまうか、不安を挙げれば私だってきりがないんだ。


 癌治療の目安は主たる治療を終えてからの五年間で再発しないこと。だから私はあと四年近く定期的な検査が続く。それが全て終わって、ようやく「治ったよ」って言えるようになるんだよ。



 そうは言っても、私も女性として生を受けた。


 いつか愛する人が私を求めてくれるなら、それには全力で応えたい。二人の間に子供が欲しいと言ってくれれば、私は命をかけても構わない。それは冗談ではなく本気で言いたいと思う。


 でも……。手術のあと、こんな私のことをパートナーに欲しいなんて思ってくれる男性が現れるなんてあり得ないんだと、病室の窓から外を見ながらのリハビリ生活だった。


 木枯らしに吹かれて舞い落ちてしまう木の葉のように、私も誰にも気にされることなく、人知れずに人生の舞台を降りていくものだと、それが私の残った時間だと思っていた。




 ところが、イタズラ好きな運命は私に「この人のためなら生きたい」と思える人を近づけてきた。


 あの日、雨の水族館で受け取った言葉……。


 私の人生で初めて「好きです」って言葉を口に出して応じた……。


 あの腕で抱きしめられて、あの時の私は全ての体重を任せていた。


 それなのに……。




 年上の先生だもの。私の前に恋人がいたっておかしくないって思ってはいた。


 想像を超えた過酷な過去を背負っていたなんて……。


 きっと「次の恋愛はできない」って思っていたと思うよ。


 楓さんの病名は聞いていないけれど、「手遅れ」という言葉からして、きっと私のものと遠からずだ。


 きっと治癒宣言をまだ出せない私に悩んだと思う。


 誰だって二度目は経験したくない。


 それが当たり前の感情だと思う。


 

 それでも覚悟を決めて私を選んでくれた。想いを告げてくれた。


 今の私にできることは何だろう。


 あんな寂しそうな顔をして話させてしまうほど、自分で愛する人を傷つけてしまった。


 償うにはどうすればいいの……。




 顔を上げて、閉じられている隣の部屋との仕切り扉を見た。


 私が鍵をかけないと約束したとき、先生も同じことを言ってくれた。


 扉を開ければ、あの人に会えるはず……。


 追い返されたらそれで仕方ない。今日はそこで終わりにしよう。



 立ち上がって、部屋の壁を目指す。


「先生……、原田です……」


 目を閉じたまま、私はそのドアをノックしたんだ……。

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