第十五章 はじめての名前呼び

四十五話 手をつないで、いいですか?


 本当は外のエリアに出たかったけれど、雨がやまないので、再び水槽ゾーンに戻った私たち。


 このエリアは私の好きな水中の色の世界で染まっている。


「ここならいいだろう」


「はい」


 マンボウがゆらゆらと泳ぐ水槽の前でベンチを見つけて二人並んで座る。


「少しここで待っていてくれな」


 頷いた私を確認して、先生はどこかに行ってしまった。



 さっきの言葉は本当に夢じゃなかったの? 水族館の中だから、私はまだ自分の夢の世界にいるのかもしれないって。


 いまここにひとりで座っている。ようやく夢が覚めて、本当の世界に戻ってきた……。そんな気がした。


「ほら、少しは落ち着いたか?」


 後ろから声を聞いて振り返る。


 先生が飲み物を私の目元に当てて笑ってくれた。


「夢……、じゃなかったんですね」


「あれだけはっきり答えをくれたのに、夢オチってんじゃさすがに残酷だ」


「それもそうですね」


 もう、今日は何年分の涙を流したんだろう。


 さっきの場所だと周りが明るすぎて、私の瞼が腫れてしまったのが分かってしまうからと、ここに来る前に時間をもらって、一度化粧室で目薬と軽いお化粧の応急処置をしてからこの落ち着いたゾーンに移動したことを少しずつ思い出す。


「ありがとうございます。もぉ、ここまでなっちゃうなんて、自分でも情けないです」


 氷が入っているカップをまぶたに当てると、冷たくて気持ちがいい。


 横に座っている先生が、そんな私を見ながら笑っている。


「俺は原田がメイク道具を持っていることの方が驚きだったぞ。ちゃんと化粧も出来るんじゃないか」


「非常用なので最小限です。私も女の子ですから」


「原田を一応と言ったら、他の連中はどうなる⁉ 冷静に見ても相手にならないぞ? 自分の魅力にもっと自信を持て」


 目元の火照りがだいぶ落ち着いてきたので、お化粧直しのウェットティッシュで慣れないアイシャドウとファンデーションを拭き取ってしまう。


「これでいいでしょうか?」


「不思議なもんだ。俺も学校にいるときには、高校生の女子に化粧禁止だなんて時代遅れだと思っていた。過度なものだけ注意すればいいのだと。でも原田は別格だった。俺の前では無理にする必要もない」


 二人とも飲み干したアイスコーヒーの容器を先生が捨ててきてくれて、また並んで水槽を見つめる。


「あの……」


「なんだ?」


 先生、今朝から時々見せていた緊張感が消えている。


 今日、私にさっきの言葉を告げると決めていたんだろうね。


 だから、早起きしたなんて言っていたんだ。


「手をつないでもいいですか?」


「そんなことか」


 あっけなかった。でも、とてもあったかい。


 その手がギュッと握られる。


 授業や生徒時代に、何度か手を引かれたことはあったと思う。それだけでも緊張したりドキドキしたけれど、今のそれとは全然違う。


「こうやって、俺たち二人だけで水族館に来たこと、もう何回目だ?」


「そうでしたね。修学旅行を一回目と数えていいのなら三回目ですか……」


 そう、私たち二人が出かけるときは水族館というのが暗黙のお決まりになってきているんだよね。

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