一章 5-2

 とにかく進もうと歩き出そうとしたとき、背後でがさりと音がした。

「ひっ!」

 声にならない悲鳴を上げて、ツェリは身体ごと振り返る。視線だけで周囲を見回せば、兎か栗鼠りすのようなものが駆け去ってくのが見えて、ほっと息をつく。

(お化けかと思った……)

 考えてしまってますます怖くなり、早く行こうと止まっていた足を動かす。昔、三の兄に笑われてからあまり表に出さないようにしているが、ツェリは幽霊やお化けの類が苦手だ。歴史だけは古い城で暮らしているせいか、幼いころは謎の人影や光の玉を折に触れて目撃し、泣きながら両親や兄たちのところに逃げ込むのは日常茶飯事だった。

 こんなところに幽霊がいるはずない、大丈夫だと胸中で唱えながら少し進むと、視界の端に人影らしきものが引っかかった。

(……今、誰かいた!)

 慌てて足を止めて二歩ほど戻れば、ツェリと同じ年頃に見える少年が大木の根元に座り込み、分厚い本を抱えるようにして読んでいる。

 少年の服装は、濃紺の上着に、淡い青灰色の格子縞のズボン。シャツは白で襟に細い空色の線が一本入っており、タイはシャツとは逆で空色の地の中央に白い線が入っている。この学院の男子生徒の制服なのだろう。

 人がいたことに快哉を叫びたい気分で、ツェリは腰を屈めて少年に声をかける。

「あの、すみません!」

 少年は顔を上げず、静かに本のページを捲った。聞こえなかったのだろうかとツェリは声の音量を上げてもう一度問う。

「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですけど」

 それでもやはり少年は反応しない。ツェリは首をかしげ、顔を近付けて再度声を張った。

「もしもーし?」

「……い」

「え?」

 ようやく反応があったが聞き取れずにツェリは眉を寄せた。すると少年は俯けていた顔をゆっくりと上げ、琥珀色の双眸でぎろりとツェリを睨んだ。

「う、る、さ、い」

 地の底から響いてくるような声で一音ずつ区切って言われ、少年の剣幕にツェリは思わず身体を引いた。彼の麦藁のような明るい茶色の髪が、怒気で揺らめいているようにすら思える。

「今おれは本を読んでいるんだ本を読みたいんだおれは。おれが本を読んでいるのが見えないのかおまえの目玉は肉団子か。今夜のスープに入れてやろうかさぞ不味まず出汁だしがとれるだろうな。そうだ池の鴨の餌にしよう奴らは喜んで食うだろう」

 童話の悪い魔女も裸足で逃げ出すような台詞を早口の低音で言われてツェリは更に後退った。彼の目は本気だ。

「え、あ、いえ……それはちょっと……」

「なら去れ二秒やる」

「ご、ごめんなさい!」

 ばね仕掛けの人形のような勢いで頭を下げ、ツェリは急いでその場を離れた。あの様子では、食い下がったら本当に目玉をくり抜かれかねない。

(なんなのあの人! 目玉が肉団子って! スープって!)

 読書の邪魔をしたのは悪かったが、あんなに怒ることはないだろうと頬を膨らませる。だが、せっかく見つけた手掛かりを失ってしまった。

 仕方なく、再び闇雲に足を進めるうち、徐々に樹影が薄くなってきた。ようやく森を抜けるだろうかと期待を込めて足を速めると、やがて木々が途切れて大きな池が現れた。

(池も大きい……さっきの人が言っていたのはここかしら。鴨がいるっていう)

 驚きながらよく見れば、ツェリのいる場所の対岸にぽつんと、池のほとりに据えた床几しょうぎに座って釣り糸を垂れている少年がいる。

 また怒られるのは嫌なので、ツェリはできるだけ足音を立てないように池を回り込んで、釣り人に近付いた。言葉を選びつつ声をかける。

「こんにちは。釣れますか?」

 眠たげな表情で水面を見つめていた黒髪の少年は、たった今ツェリの存在に気付いたといった様子で顔を上げた。長めの前髪の隙間から覗く瑠璃藍の瞳をぱちくりと瞬く。

「……え?」

「あの……何が釣れるのかなって」

 少年は疑問符を投げたきり、無言でツェリを見上げている。しばらく待っても返事がないのでツェリが小さく首をかしげると、ようやく口を開いた。

「……初めて見る顔だな」

 話が通じそうで嬉しくなり、ツェリは笑んで頷いた。

「ええ、今日着いたばかりなんです」

「編入生?」

「そうです。あの、ちょっと訊きたいことが……」

「いたーっ!」

 突然の叫びに遮られ、ツェリは声のした方をぎょっと振り返った。ざくざくと腐葉土を踏み分け、赤毛の少年が近付いてくる。毛先が四方八方へ遊んでいるのは、小走りであるせいだけではないようだ。

「ったく、この間ヌシを釣り上げて怒られたばっかだろ? 少しはりろっての」

 釣りをしている少年は池に視線を戻し、面倒そうに呟く。

「……今日は釣れない」

「そりゃ結構。魚が食べたいなら厨房に言え」

「食べたいんじゃなく、釣りたい」

「おまえに釣られる魚の気持ちも考えろ。ほら、片付けて。行くぞ」

「誰がなんの用?」

寮監ハウスマスターが探してる。今度は何やらかしたんだよ」

 床几と釣り竿を片付け、二人が行ってしまいそうなので、ツェリは慌てて割って入った。

「ま、待って!」

「うん? ああ、ごめんごめん、気付かなかった」

 ツェリの方を向いた赤毛の少年は、端正な顔に人懐っこい笑みを浮かべた。今度こそ道を尋ねなければと急いで口を開く。

「中央棟ってどっちですか?」

「……はあ?」

 赤毛の少年は、一転していぶかしげな顔になった。そして、何やら一人で納得したように頷くと、片頬だけで笑う。

「何、デートのお誘い?」

 中央棟の場所を訊いただけなのに何故そうなるのかと、ツェリは慌てて手と首を振った。

「違います。道に迷ってしまって」

「迷った? ははは、そりゃ大変だ」

 少年は明らかに信じていない口調で言う。嘘をついていると思われるのは心外で、ツェリは眉を顰めた。黒髪の方が赤毛の袖を引く。

「ライ、ちょっと」

「何。おまえは絶対逃がさんぞ。―――いいよ、中央棟まで行こう。特別ね。ほかの子には内緒だよ」

「な……」

 仕方がないとでも言いたげな彼に、ツェリは思わず絶句した。明らかに勘違いしている相手をひっぱたいてやりたくなったが、中央棟まで連れて行ってくれるというので、なんとかこらえる。

 黒髪の生徒の腕を引っ張って歩いて行く赤毛の少年について歩きながら、なんて自分勝手な人だろうとツェリはその背を睨んだ。先程から、怒られたり遮られたり勘違いされたり、どうしても話が通じない。

(ここの男子生徒は話を聞いてくれないのかしら?)

 膨れながら足を進めると、木立は再び途切れて大きな建物が見えてきた。中に人の気配はないので、今は使われていないらしい。ツェリにはこの建物の横を通った記憶はなく、自分は一体どこをどう歩いてさっきの場所まで行ったのだろうと首を捻る。

 そのうちに鐘楼しょうろうのある建物が目に入ってツェリはほっと息をついた。入口前で足を止めた少年たちが振り返り、しかし彼らが何かを言う前に建物の入口から誰かが駆け寄ってくる。

(わあ……綺麗な子。お人形さんみたい)

 小走りに近付いてきたのはツェリと同じ年頃の少女で、その姿を見てツェリはぽかんと口を開いた。

 鎖骨のあたりまで伸ばされた緩く波打つ柔らかそうな金髪、ツェリに向けられた大きな双眸は紫がかった宵藍しょうらん。ミルクに紅薔薇の花びらを浮かべたような頬に長いまつげほのかな影を落としている。

 少女はツェリの前で立ち止まると、胸に片手を当てて安心したように顔をほころばせた。

「ああ、よかった。なかなかいらっしゃらないから、不測の事態かと」

 彼女に見とれていたツェリは、我に返って目を瞬いた。おそらく、この少女が受付の女性が言っていた案内の生徒なのだろう。

「ごめんなさい、迷っちゃって」

「なんということ……ご無事で何よりですわ」

 無事という言葉が大袈裟ではないと身を以て知っているツェリは、痛ましげに顔を歪める少女へ大きく頷いた。もし、あのまま誰にも会えずに日が暮れていたらと思うと、背筋が寒くなる。

 少女は不思議そうに傍らの二人を見上げた。

「それはそうと、何故ライとソールが?」

 ライと呼ばれた赤毛の少年が、苦笑めいた表情でツェリを示す。

「迷ったって言うから案内してきたのさ。セラの友達?」

 改めて見下ろしてくるライと目が合い、ツェリはぱっと視線を逸らした。ほとんどど八つ当たりだが、目を合わせる気にならない。

 少女は目を見開き、次いできっとライを睨む。

「友人だなんて畏れ多いことですわ。今日いらっしゃったのよ? ご挨拶もまだだというのに」

「そうか、今日……え?」

 頷きつつライははたと動きを止めた。少女とツェリを見比べ、目を見開く。

「……まさか」

「やっぱり」

 ソールと呼ばれた少年がぼそりと呟いた。ライは驚いたようにソールを見る。

「おま、知ってたのか!?」

「知ってたと言うか、初めて見る顔だからそうだろうなって」

「なんで教えてくれないんだよ!」

「聞かなかったのはライだろ」

「それは……」

 言いさして口を噤み、倒れてしまうのではないかと思うほど青褪あおざめたライは、ツェリに向き直ると、足下にひざまずいてこうべを垂れた。突然のことに驚き、ツェリは数歩後退あとずさる。

「な、何? どうしたの?」

「アールヴレズル国の王妹殿下であらせられると存ぜぬこととはいえ、度重なるご無礼、お詫びの言葉もございません」

「え? ちょ、ちょっと、なんですかいきなり。やめてください」

 別人のような口調で言うライへ、ツェリは狼狽ろうばいしながら両手と首を振った。ちらほらと行き交う生徒たちが何事かと視線を向けてくる。しかし、ライの口は止まらない。

「本来ならば、この場でお手討ちにされるべき不敬、あがなうに我が首一つでは不足とは重々承知ではございますが、何卒、殿下の寛大な御心でもって係累には」

「やめてったら!」

 堪らずツェリが怒鳴り、ようやくライは口を閉じた。跪いたまま動かない彼を見下ろし、困惑したまま告げる。

「お願い、立って。顔を上げて。そんなふうに謝られるようなことをされた覚えはありません」

 ライはつかの間無言でいたが、緩慢な動作で立ち上がった。汚れてしまった膝を払うこともせず、硬い表情でツェリを見下ろす。その表情からは、先程までの軽薄そうな雰囲気は微塵も感じられない。

「……わたしがアールヴレズルの王妹だって知っていたら、道に迷ったことも信じてくれた?」

 ライが鮮やかな緑色の双眸を見開き、ツェリは少々意地が悪かったかと無理矢理笑みを浮かべて見せる。

「案内してくれてありがとう。あのままだったら本当に迷子になってたかも知れないわ」

 二人を見比べ、少女が侮蔑ぶべつも露わに眼を細める。

「大体事情がわかりましたわ。自意識過剰も程々になさいませ、ライ。―――参りましょう、ツァウラメラ様」

 突き放すように言い、少女はツェリを促して中央棟へと向かう。入口を入ったところで立ち止まり、少女は姿勢を正すとスカートを摘んで美しいカーテシーをした。

「申し遅れました。お初にお目にかかります。わたくしはセーレイア・ワルド・ローダンセと申します。学長より、ツァウラメラ様のご案内を仰せつかりました」

 丁寧に挨拶をされ、ツェリは慌てて礼を返す。

「あ、えと、ツァウラメラ・バルトヘルムです。よろしくお願いします」

 顔を上げると、何故かセーレイアは驚いたような表情をしていた。しかしすぐに笑顔になる。

「この先はわたくしがご案内いたしますわ」

「お願いします」

 優雅に歩き出すセーレイアについて歩きながら、ツェリはそっと息を吐きだした。

(一時はどうなることかと……)

 なんとか中央棟に辿り着くことができ、この後はセーレイアが案内してくれるというのだから、もう遭難の心配はないだろう。敷地が広いのも考え物だ。再び迷わないように学院内の俯瞰ふかん図を頭に叩き込まねばならない。後でセーレイアに、地図を見せてもらえないか訊いてみようと思う。

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