肆場 三
義経は思う。今迄の事を。
物心ついた時には寺に住んでいた。毎日、毎日来る日も修行と言う苦行をさせられていた。生まれてこの方16年、寺以外の世界を知らなかったから、それが普通だと、苦行だとも思わなかった。いや思えなかった。全ては仏様の御導きを知るための日々。自分はこのままこの寺で一生を過ごすのだと思っていた。あの日までは。
それは、突然やって来た。日課の境内の掃除を終わらせて昼の読経の準備に取り掛かろうかと房に向けて歩を進めていた時、境内の杉の木が話しかけてきた。杉の木は樹齢500年と言われる寺の霊木で、樹高50m程、20mのあたりから二股に分かれて伸びていて幹の周囲は15mもあるだろうか。その昔、落雷に会って割れたが今でも丈夫に育っていることからこの寺の霊木として大事に扱われていた。
「御曹司! 御久しゅうございます」
三十くらいの骨太な男が声を掛けている。顔を見れば目の脇に刀傷の様なものが目立っている。杉の木が話すわけも無く。木の裏に何かから身を隠すように男はこちらを見ていた。男は続ける。
「御曹司! 時は満ちました。私と一緒に参りましょう。そして、この国の武士に号令をおかけください。皆があなた様をお待ちしております」
何を言われているのかさっぱり理解に苦しむ。寺の坊主に御曹司? 号令? 待っている? 何の事なのか。
「私は寺の小坊主です。あなた様が言っている様なものではありません。私は若経(じゃっきょう)。人違いではございませんか?」
全く覚えのない話に通り一辺倒の受け答えをしたまでだ。むしろ、読経の準備があるので早く戻りたいくらいである。
「混乱されるのも御もっともでございます。こうして私と話をしているところを見られただけで御曹司のお命が危なくなります。ですので手短にお話しします。よく聞いてください」
男は杉の幹にさらに隠れるように義経の手を引いた。
「御曹司は源氏の棟梁、源義朝様の忘れ形見です。乳飲み子の頃に平家によってこの寺に預けられ外界との一切の接触を断たれた生活を送らされているのです。
都では平家への不満が日ごとに高まっています。民心は源氏を求めています。今、源氏は全国に散り散りになりとても平家に対抗できるような状態ではございません。御曹司! 全国の源氏に号令をかけ反平家の旗印となっていただけますよう……」
男は地面に平伏した。
「もう行かなければ」
若経は男から離れ、房を目指して歩き出す。
「次の満月の夜、お迎えに参ります。一緒に参りましょう」
男は若経が見えなくなるまで杉の木の陰から見送っていた。
若経はその日から男の話が離れられなかった。武士の棟梁になる身分?源氏の忘れ形見?源氏と平家がどんなものであるかぐらいは若経にもわかっていた。後から入ってくる坊主見習いや僧侶などがする都の話に出てくるからだ。
ある夜、お勤めが終わり眠りにつくと同じ小坊主に呼び出され、境内の奥にある地蔵堂まで連れていかれた。若経が地蔵堂に入ると五人の小坊主が笑みを浮かべながら手招きをしていた。若経よりも少し年の大きい小坊主たちだ。
「若経! 今夜はお前を極楽浄土に誘って進ぜよう」
そう言うとあっという間に手足を押さえられ……
若経の細いからだが女人を彷彿とさせると小坊主の一人は背中で呟いていた。若経は泣いた。悔しくて泣いた。体の痛みよりも尊厳を踏みにじられたことが悔しくて泣いた。
それから、毎夜小坊主たちは若経を呼び出してきた。その度に若経は思った。
強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。
「……強くなってこいつらを皆殺しにしたい……」
満月の夜、若経は杉の木の前で男に会った。しばらく話をした若経は房に戻りいつもの様に呼び出しを受けると地蔵堂へと向かった。しかし、いつもと違うのは地蔵堂に入って行ったのは目の横に傷のある男だった。
おそらく数分くらいだろう。おとこが地蔵堂から出てきて小坊主を招いた。地蔵堂には今まで若経の尊厳を踏みにじっていた者たちの凄惨な死体が転がっていた。地蔵堂の床は血だまりができ本尊の地蔵尊には頭から血が滴って顎から床に流れ落ちていた。
「御曹司、これでよろしいですか?」
返り血を浴びている顔に傷のある男は、地蔵堂の扉の外で直視できずにいる若経に声を掛けてきた。
「ああ、これで気が晴れた。行くぞ鎌田」
若経は知った。尊厳を奪われたくなければ奪えばいいのだと。自分がやらなくても出来る奴にやらせればいいのだと。
鎌田と呼ばれた男は地蔵堂に火をかけると若経を伴い闇へと消えて行った。
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