六章 転生者

七月三十一日

 新しい出会いの予感に、その日も幸一こういちは、ウキウキと炎天下の街へと自転車を走らせていた。


 毎年のように最高気温を更新しようとする太陽も、うるさいセミたちの求愛の声も、素晴らしい一日の演出としか感じない。

 毎日の外出で、ほどよく日焼けした顔の中に、黒々と好奇心に輝く瞳がある。

 中学生になって十五センチ伸びた身長は、まだまだ同級の平均身長より頭ひとつ小さい。


 今日は、そんな幸一の誕生日だった。

 『学年一童顔の13才』から『童顔の14才』として、進化したわけだ。


 高架下を抜けると、小学校沿いの桜並木。

 葉桜の木陰を踏んで、水道局の前を通り過ぎ、大通りを左折。

 幸一の自転車が滑り込んだのは、夏空を窓ガラスに反射させた大きなビルの駐輪場。

 自動ドアの先にあるエントランス。スーツ姿のビジネスマンと親子連れや主婦、夏休みの学生を横目に、足取りは勝手に、ビル内の目的の施設へ向かう。


 その場所へは、目をつむっても行ける自信がある。そんな息子に、専業主婦の母親はとくに呆れ顔だ。息子がこうなった原因となったのは、あきらかに自分だからして。


 きっかけは、当事者の幸一も覚えていない。記憶しているのは、もはや母だけ。


 地域の児童を対象として招かれた朗読会で、満二歳だった幸一ははじめての出会いを経験した。

 何度も自分を招き入れた自動ドアの内側から漂う独特のにおいに、恍惚とした息を吐く。


 開館は9時半。

 まずは、顔見知りの司書が座る返却カウンターで、かばんを軽くする。

 手始めに児童書の棚をグルリと一巡し、そのまま壁沿いに、新作文芸のコーナーをたっぷりと時間をかけて散策する。

 のち、文庫コーナーを物色し、最後に余力があれば、各専門書へも足を延ばすのが決まったコースだった。だいたい昼食は、その日のルーチンが終わった15時過ぎ。家で握ったおにぎりを、エントランスまで出て自動販売機前のベンチで齧る。


 幸一は本が好きだ。文字という発明を崇拝している。

 紙の質感が好きだ。インクと接着剤の匂いに安心を覚える。


 背表紙に添えた手のひらで、ページをめくる指先で、文字をなぞる視線で、単語の連なりを索引し処理する脳で、佐藤 幸一は数えきれない物語を慈しみ、愛してきた。

 繰り返し、繰り返し、文法ルールに倣ならった文字の列を解読するだけの行為が、幸一にとっては食事・睡眠と同等の価値を持つ。

 とびきりの最後の一口を飲み込んだ瞬間と同じように……柔らかな寝床に心地よく体が沈んだときのように……。


 読者とは、鳥瞰よりも高い視点を持つことになるが、幸一はさらに書き手の視点すら空想して、文章を通し、時も場所も年齢、性別、人種も越えた読者と作者というコミュニケーションに試みる。

 彼は登場人物のみならず、書き手にも恋をする。

 彼が愛したひとは数えきれない。

 ひとつの物語を味わい尽くしたその瞬間に、彼は自分の生と、たった十四年の人生でこの一冊に出会えた幸運に、手を合わせ、言葉にならない感謝を捧げる。


  将来は、司書か学者か。古文書の修復なども、楽しいかもしれない。

 グルメが塩にこだわるように。

 スポーツ選手が枕にこだわるように。

 恋を人生と言った誰かのように。

 宗教家にとっての神話のように。


 文字を崇拝する幸一にとって、タダで、空調が完備された空間で、どこでも好きなだけ本を読んで良いというその場所は、当たり前に聖地といっても相違なく、さらに夏休みという学生に与えられた自由の義務は、彼に約一ヶ月間もの文字世界への切符を与えられたと同義であった。



 市役所施設であるビル内には、正午を告げる音楽が鳴るようになっていた。

 意識の外郭がいかくで、オルゴール風にアレンジされた『恋はみずいろ』を耳にした幸一は、ふと、潜っていた文字の海から顔を上げた。


(……あれ? )

 瞬きを繰り返す幸一の視界には、見慣れているのに見慣れないという、不思議な光景が広がっていた。

 どうやら知らずにひどく息を詰めていたようで、ふーっ……と、長い息をつく。

 そして今しがた読んでいたものが、手のひらのなかに無いことに気が付いた。

 この手のひらはまだ背表紙を支え、もう片方の指先はページをめくろうとしていた感覚が残っている。小脇に抱えていたハードカバーも消えていた。


 そこは、いつもの図書館……ではなかった。


 何も聞こえない。

 窓越しに微かにしたセミの声も、エアコンの駆動音も、他の利用者たちの足音も。

 斜陽を思わせるオレンジ色の明かりは、どこから差しているのだろう。

 黄昏時のように影は濃く、粘着質に輪郭を飲み込んでいる。


 幸一は、本棚の色味、木目、手触りを覚えていた。

 赤みが強いニス、波打ちながら波紋型に連なる木目が、黒く浮き上がった質感、高さ。

 そこの収まっていたはずの背表紙たちの記憶とともに、幸一の身体はそれがどこにあったものかが分かった。

 そこに、慣れ親しんだ背表紙たちはいない。見慣れぬ色の、見慣れぬ言語の、見慣れぬ背表紙が、我が物顔で詰まっていた。


 じゅくりと靴底が沈んで、スニーカーの履き口から、ねばつく水分が侵入してくる。

 絨毯は、苔類の蔓延はびこ湿地しっちに変わっていた。ところどころツタ系の植物が、本棚を支えに天井まで浸食を進め、紅葉した葉をみっしりと垂らす。

 背筋を濡らす汗の冷たさに身震いする。


 一陣の風が吹いた。

 ぬるく湿った風だった。

 本棚の森の奥は、ぬめった闇が満ちている。

 ドクドクと血潮の音がする。

 シトシトと、ごく薄い霧雨が降り出す。


 薄闇の垂れこめるオレンジ色の視界を、黒いベールのように闇を孕んで、雨は視界をさえぎった。

 いくつものざらついた黒いすじ。光と色が、闇の雨のさかいに消えていく。


 彼の記憶は、そこで一度、真っ黒に途切れる。



 七月三十一日。

 佐藤幸一少年の異世界召喚はつつがなく、こうして行われたのだった。

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