第7話

「南、おはよー」

「あ、とう……主任、おはようございま…」

 商品パンをケースから出して並べている時だった。瞳子の声に気づいて振り返ろうとしたけれど、そのもなく背後から瞳子に抱きしめられた。

「ちょ、ちょっと…」

 振り解こうともがいたが、上背うわぜいのある瞳子に両腕をがっちりホールドされて身動きが取れない。

「ねえ、私のデスクの脚」

 瞳子が私の耳元にくちを寄せて囁いた。

「へ?」

「そこに視線を向けて。他は絶対見ないで」

 言われるがまま、瞳子のデスクの脚に視線を向けた。

「み、見たけど…」

「ほら。気づかない?」

(…あっ)

 あやうく声が出そうになった。

「ガン見してるでしょ、佐伯と青井」

 そのままの姿勢でくすくす瞳子が笑う。

 換気の為に開け放たれた扉から、こっちを見つめる二人の姿が私の視界に映り込んだ。

「だ、大丈夫なの? ゆずきさんって瞳子の彼女でしょ?」

「そうだよ」

「だったら」

 私の言葉に、瞳子は深いため息をついた。


「ゆずきも大事だけど、佐伯だって私の大事な部下なの。アイツ、私以上に面倒臭い性格だから、こうでもしなきゃ自分の本当の気持ち、南にぶつけられないでしょ」

 言いながらも瞳子は、スリスリと私に頬擦りまでして体をさらに密着させて来た。

「本当の気持ちって、まひるちゃんは紅さんが好きでって、それが答えでしょ」

 今更、瞳子は何を言っているんだろう。

 すると、

「あのね」

 瞳子が至近距離で私を睨んだ。

「最近の佐伯、知ってる? 仕事でミスを立て続けに出してるのよ。こんな事、入社以来初めての事なんだから」

「え? まひるちゃんが?」

「そうよ。この間なんて0を一つどころか二つ間違えて打って。有り得ないミスしてんの。元カノと別れた時だって、こんな事なかったのよ」

「まさか…」

「ウソだと思うでしょ? いい? 今の佐伯の心の中教えてあげようか。『元カノからのハガキを指で撫ぞってねぶって、あげく未練がましくハガキと同じ場所をさぐって行って。そのうえ今カノを迎えにまで来させて。そんな性悪女が何? 今頃になって自分の本当の気持ちに気づいて嫉妬してるっていうの!? まひる、あなたどこまで厚かましくて醜い女なの!』って思ってるのよ」

(……誰?)


「だからね」

 瞳子が、今度はくるりと私を半回転させ、正面から抱えるように抱きしめた。

「私は身を削ってまで佐伯を煽っているのよ」

「………」

 そして、仕上げとばかりに瞳子はもう一度、私の耳に唇が触れるほどに寄せて囁いた。

「いい? 最後の最後に佐伯が本音でぶつかってきたら、茶化したり誤魔化したりしないでちゃんと受け止めてあげて。言ったでしょ、アイツ私に似てるって。本当はね、誰よりもビビリで小心者なんだから!」

「うん…」

 私は瞳子の腕の内で小さく頷いた。その直後、私を解放した瞳子は咳払いを一つすると、何事も無かったかのように、涼やかな表情でスーツのしわを伸ばし、

「青井、ちょっと第二会議室まで来て」

 そう言い残し、カツカツとハイヒールを鳴らして足早に去って行った。








 青ざめた表情かおで、よろよろと主任の後を追って行ったゆずきが戻って来たのは、小一時間も過ぎた頃だった。


(そういうこと…)

 戻って来たゆずきの表情かおを見て確信した。

 頬は血の気がさし、瞳はうるみを含んで色づいている。決定打は主任と同じ色の淡いオレンジ色の口紅が、ゆずきの可憐な唇を縁取る様に彩っていることだった。

「主任、ゴメンねって謝ってくれた?」

「うん」

 何の躊躇もなく、ゆずきが頷いた。

 まだどこかふわふわとしている。重ねて私は尋ねた。

「本当に好きなのはゆずきだけだから。南は大切だけど友だちだからね、とか何とか囁かれたんでしょ」

「うん。理由わけがあるけど今は言えないのって…………あっ」

 はっとしてゆずきが私を見た。

「いやいや、さすがにわかるでしょ」

 肘をついたまま、私は苦笑した。

「いいよ。私もゆずきと一緒だから」

「え? どういうこと?」

「実はね…」


 そして私も南とのことをゆずきに打ち明けた。

 けれど、まだつき合っているか別れたかは、ハッキリと言えなかった。

「ねえ、じゃあ、さっきまひるもイラッときてた?」

 ゆずきが恥ずかしそうに尋ねてきた。

「きてた」

 私は頷いた。

 あんなちゃちな猿芝居に、完全に私はイカッていた。込み上げてくる嫉妬心と、その嫉妬心をおこす自分に苛立っていた。


(自分は)

 もっと酷い事を南にしていたのだ。目の前に居る南を見ようともせず、いつも心の中では紅を呼び、紅だけを追い求めていた。最後の最後に南への気持ちに気づいたからといって、今さら南の前に立つ資格なんて私にはない。今の今まで、私はそう思っていた。


(でも)

 そんな形だけの反省なんて、意味がないことを私は嫉妬心の中で学んだ。

「私も、だから言ったの。ああいうの、やめてほしいって」

「したら?」

「ゴメンねって言って……」


(…で、最初の展開へと続いていくわけか…)

 照れた様に俯いたゆずきの顔が再び色づいてゆく。恋に愛に、彼女はいつも全力だった。

「ゆずき、ありがと。私、そういうの、あんまり言い慣れてないから避けてきたけど、やっぱり伝えることも大事だよね。頑張って向き合ってみるよ」

「うん、まひるなら大丈夫だよ。それに南さんなら、きっとちゃんと伝わるよ」

 顔を上げたゆずきの表情かおは、キラキラと輝いていた。

「うん」




 -まひるのアパート-


(なあーんて言っちゃったけど)

 絨毯の上をイモムシの様にゆらゆらと這いながら、私は料理をする南の背中をさっきからただぼーっと眺めていた。

「今日は静かに待てるのね」

 火を止めて振り返った南が笑った。

「私、いつもうるさいの?」

「まだ? まだ? って言うじゃない」

「そうなの?」


 別れ話を切り出してから、南は何か吹っ切れたのか、自然体で私と接するようになっていた。

「今日って夕食何?」

「ロールキャベツ作ったの。今日あの後お店戻ったら、馴染みのお客さんから立派なキャベツもらって」

「そんなお客さんいるんだ」

「うん。あそこでお店出して長いから。通りから離れてるのに、わざわざ遠くからも買いに来てくれるお客さんもいて、ホントありがたいの」

「じゃあ、お客さんの為にお店は移転しない方がいいんだよね」

 立ち上がって、私は皿を受け取ってテーブルに並べながら、さりげなく切り出した。

「…そうね…、大家さんも良い人で、お店の賃貸だけでいいって言ってくれてるし…」

「だったら、出て行く理由、薄くならない?」

 思い切って本題を振ってみた。

「そうなんだけど…」

「じゃあ、ずっとここに居て」

 押す様に、私は南の目を見て言った。

「それとも、もう私の顔なんて見たくない?」








「えっ?」

 目にうっすら涙を浮かべたまひるが、私を真っ直ぐ見つめてきた。

「こんな軽薄な女と、同居するだけでも耐えられないの?」


(なっ)

 何で?

 何でまひるが泣くの!?

 思わず後ずさった私に、

「やっぱり……」

 泣きそうな表情かおをしたまひるが項垂れる様に下を向いた。

「こんなに南を想っているのに、好かれるどころか軽蔑されてるんだね、私」


(うそでしょ!?)

 ぽたぽたと、まひるの両眼から真珠の様な涙が生まれては落ちた。

 まひるが、これほど人間らしい生の姿を、私に見せたのはこれが初めてだった。けれど、初めて触れるその姿は、彼女が心から悲しみ、打ちひしがれた末の、落涙する姿だった。

 そして、その姿のまひるを見るにつれ、私の胸の奥はざわめき、凍りつく様に冷たくなり、やがて押し潰されそうな苦しみを覚えていった。

 いやだっ、泣かないで!

 そう声を出したつもりなのに、私の口からは、意味のないかすれた呻きが漏れただけだった。


(こっ)

 こんなの、耐えられるわけないじゃない!

 私は、捧げ物をする様にまひるの落とす涙を両手ですくい上げた。私の手のひらに、まひるが流しただけの涙が落ちた。

「お願いまひる、泣かないで! お願いだから」

 こんなことをしても、まひるが泣き止まないことはわかっていた。でも、大好きで大好きで仕方ない人が泣き続ける姿に、私は耐えられなかった。

 そして私はずっと気づいていて、けれど気づかないふりをしてきたある事に、決着をつける決心がついた。


(ごめん、まひる。私のせいだね)

 まひるは気づいていない。私は最初は、本当にまひるの傍に居られるだけで良かった。幸せだった。なのに、日が経つにつれ、欲が出た。

 無言で、無自覚に圧力をかけていた。

 -紅という人の全てを忘れて!-

 と。

 いや。無自覚だったかすらも嘘かもしれない。

 大好きだった人を忘れられない彼女を、憎らしく思った。だから、私はまひるを手放した。

 綺麗な言葉を並べ立てて。


(ああそうか)

 だから、私は私が流させた涙を自らの手で受け止めているんだ。


 私はまひるに酷い事をした。

 まひるは、大好きだった人を忘れられずにいた。ただそれだけだった。でも私はそれを悪だと言ったのだ。


 ごめんね、まひる。まひる、本当にごめんなさい。

 彼女の流す涙を見つめて、繰り返し心の中で謝罪した。まひるを抱きしめて掻き口説きたい衝動が、突き上げる様に私を襲ってくる。

 けれど、私は唇を噛みしめ、必死に耐えた。

 私は謝らなかった。


(もし今私がここでまひるに謝ったら)

 私の心の罪悪の念は軽くなる。けれど、まひるは冷静になった時、私に謝罪させたとさらに落ち込み、苦しむかもしれない。いや、まひるならばきっとそうだろう。

 だから。

 だから私は謝らなかった。

 まひるに気づかれないように、小さく一つ息をついた。


 私は、ゆっくりとまひるの手を取った。集めたまひるの涙が、弾けて四方に散った。まひるを導く様に椅子に座らせると、私はしゃがんでまひると目を合わせた。

「私に、ここに残って欲しいの?」

「……うん」

 まひるが頷いた。

「私が、まひるの傍にずっといるって言ったら、泣き止んでくれる?」

「いて…くれるの?…」

 顔を上げたまひるの瞳から、一際大きな真珠が零れて落ちた。

「まだ私も気持ちの整理がつかないわ。でもあなたの泣き顔を見たくないの」

「……もう…泣かない…から…」

 絞り出す様な声でまひるが言った。

「出て行かないで…」

「わかった」

 私は大きく頷いた。

「じゃあ、もう出て行くのはやめる。私はまひるの傍にずっと居る。約束」

 繋いだままの手を、優しく振った。

 まひるの表情が和らぎ、

「ずっと…いっしょ……?」

 子供のような瞳を私に向けた。

「一緒。ずっと一緒に居てあげる」

「…ありがと……、ありがとうございます…」

 まひるはやっと安心したのか、倒れる様に私に体を預けてきた。


(ごめんね、まひる。あなたを泣かせた数だけ、必ず笑顔にしてあげるから…)

 彼女を抱きしめながら、私はもう一度心の中でまひるに謝罪した。








 -その夜-


 夜中、私は何度も目を覚ました。短い眠りを繰り返し、どうかすると不安だらけの体がその浅い眠りさえ容赦なく断ち切った。

「………」

 でも、私が目を開けると、いつもそこには私を見つめる南の穏やかな眼差しがあった。

「……寝て…ないの……?」

 三度目に目を覚ました時、たまらず尋ねた。

「寝てるよ。でも、まひるが起きたのは、わかるの」

 ずれた掛け布団を直しながら、南が微笑わらった。

 そして南は、その時その時で、私が望んだことを何も言わなくても叶えてくれた。

 寂しくて仕方ないと思った時には、その白くて細い指さきで私の背を撫ぜ、南が欲しくて仕方ない時には、静かにそっと私を抱きしめてくれた。


(だったら)

 明け方、再び私が目を覚ました時だった。

 ……だったら、と、私はあることに気がついて、南の方を向いた。

 南はやはり、ぱちりと目を開けた。

 その南の目を見つめ、


(南が好きなの。私、南が好き。誰よりも南が好き)


 張り裂けるほどの想いを、心の中で南にぶつけた。

 カーテンの隙間からこぼれるやわらかな光が、私たちを包み込んでいった。南は私を見つめたまま、上身からだを起こした。

「私もまひるを想っているわ。あなただけが…あなただけが好きなの」

 私の乾いた唇は、たちまち南によって潤されていった。


 私が望んでいた願いは叶った。溶ける様な南の甘い蜜に、香りに、全身の力が抜けていく様だった。塞がれた唇が離れた時、私たちは互いの名を呼び、そしてまた重ね合った。

 好きな人を抱き、好きな人に抱きしめられるという事が、こんなにも嬉しくて幸せな事なのかと、噛み締める様に感じていた。


(それに)

 それに南もまた私と同じ思いであるということは、彼女の肌から、吐息から知ることが出来た。それが、さらに私を幸せの頂きに押し上げていった。

「夜…、明けちゃったね」

 どちらともなく離れた時、南が気恥ずかしそうに呟いた。

「うん。今日休みだし、もっと続きしたかったけど、体力と気力が限界。南ゴメン」

 言いながらも、私はもう一度南の首筋に唇を深く長く押し当てた。

「わ、私は…これくらいの…方が…」

 耳まで赤くした南が、表情を隠す様に俯いた。

「そうだよね。これからずっと一緒なんだもん。焦る必要ないよね」

 私は南の肩を優しく撫ぜた。細くて儚げなその肩に触れているうち、次第に激しい睡魔によって私の意識は朦朧としてきた。

「南……あのね…」

 深い眠りにいざなわれながらも、私は南に語りかけた。

「……何?まひるちゃん」

「…あの……目が覚めたら…」


 目が覚めたら。

 おはよう、まひるって、おはようって言って、当たり前のように抱きしめて欲しいの。


 私の言葉はどこまで南に伝えられただろう。

 でも、私の体は落ちていく眠りの中で、ふわりと優しく抱きしめられた。そして、懐かしくて愛しい香りとともに。

「わかったわ、まひるちゃん。だから安心して休んでね」

 最愛の人の囁きを聞いた。




                  完



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百合の花束 a.kinoshita @kinoshita2020

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