第43話 高校生アイドル そのご

「昨日は眠れたか?」

「ええ、まあ……嘘だと思えるくらいぐっすりと」


 ゴールデンウィーク前日の昼休み。

 屋上で愛用の弁当箱を開けつつ、菫は大きく溜息を吐いた。


「正直夢とも思いましたけど」

「そう処理してもいいと思うけどな」

「いいえ、夢にはできないです。だって……」


 ちらっと晶に目を向け、しかしがっちり目が合うとすぐさま恥ずかし気に逸らす。ほんのりと頬を赤く染めながら。


「そ、それより、怪我は大丈夫なんですか……!? あれだけ、穴が空いて……」

「大丈夫だ。実際に穴が空いたわけじゃない。夢の中で怪我しても、現実に同じ怪我をする訳じゃないのと同じ」

「じゃあなんともないんですね……良かったぁ……」

「……いや、そんなにホッとされるとさすがの俺も心が痛むな」

「はい……? もしかして嘘ですか!?」

「嘘を吐いたつもりじゃないけど、なんともなかったわけでもない。血はちょこっと吐いた」

「血、吐いた!?」


 ホッとしたり、目をひん剥いたり忙しい奴だ、などと思いつつ晶は肩を竦める。


「ほんのちょっとだ。身体を直接殴られなくても、頭は殴られたと記憶してるから、現実に戻ればぶり返しがくる」

「ぶり返し……」

「お前も昨日、あの後ぐっすり眠れたんだろ? 多分、寝ている最中に幽世に引き込まれて、目覚まして、でも妖魔に随分力を吸われたみたいだったからな。それが疲労になって返ってきたってところか」

「な、なるほど」


 なるほどと言いつつ、全てを理解できたわけではない。

 ただ、菫はまったくの門外漢で、言われたことをただ受け入れるしかないということは分かった。


「お前こそ不調は無いか? 俺は慣れているから……顔色は大丈夫そうだな」

「あ、あぅ……!?」


 菫の頬に手を触れ、顔をまじまじと見つめる晶に、菫は顔を真っ赤にして固まる。


(ああ、やっぱり、やっぱりぃ……!!)


 昨晩、自分のベッドの上で幽世から戻り、明らかに非現実的な体験をしたにもかかわらず彼女の頭を支配したのは1人の少年のことだけだった。

 そして、疲れに蝕まれ、再び眠りに落ちるまで――たった1人の少年のことをひたすら考え、そして自分の想いを整理するには十分な時間があった。

 菫はただ黙って、瞬きも呼吸も忘れ、晶の顔に見入っていた。


「熱?」

「ち、違います!」


 しかし、とんちんかんながら正直に顔が熱くなっていることを指摘されれば、恥ずかしさの方が勝り、菫は咄嗟に晶を押しのけた。 


「あ、あの、あたし……ちゃんとお礼を言ってなかったって」

「別にいらないよ」

「いりますよ! だって、ご……」

「ご?」

「…………あきら、くんはあたしの恩人だから」


 これも昨日整理する中で決めたこと。

 幽世の中で一姫が彼を名前呼びしていたことへの対抗心のようなものだ。

 当然、晶がそんな勇気に気が付くはずもない。


「俺が菫を傷つけたんだ。責められる理由はあっても、感謝されるのは間違いだって」

「しゅみれ……」


 晶に気づかれない内にカウンターを喰らい、さらに顔を赤くする菫。

 アイドルとして多くの人と関わり、また同世代の高校生達と比べても大人びている彼女も、ことこういう話についてはまったく初心もいいところだ。

 初心も初心。自覚したとはいえ、まったく完全に初めてなのだから。


「で、でも、私は晶君に救われました! だから、間違いでもなんでもないです!」

「まぁ、お前がいいならいいけど」

「はいっ、だからこれはお礼です」


 そう言って、菫がわざわざ屋上まで持ってきた鞄から取り出したのは一枚のCDケースだった。

 パッケージには美少女たち――菫も含めた5人の少女が映っている。


「これ、お前のアイドルグループの?」

「は、はい。ぜひ、受け取ってください。世界に一枚だけなんですよっ」

「そりゃあ、世界に1枚だろうけど」


 ただ、CDの価値で言えば量産品だ。世間には疎い晶だが、数少ない趣味は中古CDショップでのサントラ漁りだ。CDの価値というのもある程度は理解している。

 当然アイドルのCDを手にするのは初めてだが、だからといって特別なものでも――と、ケースを裏返して、晶は思わず菫を見た。


「その、サイン入りです……えへへ」


 もじもじと指先を絡ませ合いつつ、菫ははにかむ。

 確かにアイドルであればサインの一つや二つ持っているだろうが、しかし、CDに書かれていたのは彼女の芸名ではなく、『田中菫』と、実名で書かれていた。丁寧な楷書体でだ。


「本当は今度あるライブに招待……とも思ったんですけど、いくら事務所が恋愛禁止じゃないからってあからさますぎるし……」

「恋愛禁止?」

「いえいえっ! 今のはそのぉ……あはははは……」

「……?」

「と、とにかくですね! これが、私です。アイドルの明星すみれも、今の田中菫も、どっちも私ですから、だから……こうしました。CDに本名でサインするのは初めてで、少し字が震えちゃってますけど……一番を、あげたくて」

「そうか。嬉しいよ」


 一生懸命説明する菫に、晶は笑顔で応える。

 全てが正しく伝わったわけではないが、それが真っ直ぐな好意によるものだというのはさすがに分かる。


「これを聞けば、そうだな……5年より後もきっとお前のことを覚えていられるな」

「え……?」

「そりゃあ、昨日のことは5年……いや、5年マイナス1日で忘れちまうけど、今日のことは5年もつ。2年後、お前のことを覚えている俺がこの歌を聞けば、そこからさらに5年……お前のことを覚えていられる」


 今日の記憶が5年きっかりで消えることは晶にも止められない。

 しかし、今日の思い出を失くしても、今日を起点に新たに得る経験も連鎖的に消えるわけではない。

 5年後に忘却に蝕まれたとしても、菫との繋がりが断ち切れなければ彼女は友人として晶の中に残り続ける。


「じゃ、じゃあ……ずっと一緒に居ます」

「え?」

「晶君が私のことを忘れないように……ううん、忘れられないくらい、ずっと、一緒に!」


 それは反射的に出た言葉だった。

 しかし、紛れもなく本心だ。元々菫は晶との関係を、昨日までと今日だけの関係で終わらせる気なんてさらさら無いのだから。


「あたしは、退魔師とか、幽世とか妖魔とか、そんなの全然分からないけど……でも、晶君の友達でならいられます。だから、あたし――むぎゃっ!?」


 必死に、本気で叫ぶ菫の頬を、晶が不意に掴んだ。

 その突然の行動に目を白黒させる菫をよそに、晶はぐにぐにと頬を揉む。


「真面目すぎ。そう肩に力入れてたらまたパンクしちまうぞ」

「ひゃ、ひゃひはふん?」

「お前はさ、前までみたいに自由気ままにからかってくる方がらしくていいよ」


 そう言ってパッと手を離し、晶は楽しげに笑う。


「きっとそういうもんなんだろ。友達って」

「あ……」


 菫は呆然と固まる。

 彼女にとって、友達というのはかなり久しぶりの響きに思えた。

 家族や仲間、他の同級生たちとは違う……菫を知って、見てくれる対等な相手。


 不意に目頭が熱くなるのを必死に堪えながら、菫は笑みを浮かべた。

 アイドルとして整ったものではない、どこか不器用な笑顔を。

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