☆6‐5


「……ただいま」


 玄関をくぐると同時に帽子を取って、青尉は家に上がった。居間を通って台所へ向かう。男四人の体重に毎日潰されて、三分の二くらいになったソファーの上で、父・軍武いさむが大いびきをかいていた。家の中で見る時は半分以上寝ている気がする。点けっ放しのテレビは夕方の報道番組を垂れ流していて、訳知り顔のコメンテーターが「能力者って言うのはね……」などと雄弁さを誇示していた。

 台所のドアを開ける。ガスコンロの前に、作業着姿の朱将が立っていた。


(母さんが見たら怒るだろうな……作業着のままキッチンに立つな! って)


 朱将は弟の帰宅に気付いて、お玉を片手に半身で振り返った。


「おう、おかえり」

「ただいま」

「あと十分もしたら夕飯にすっからな」

「うん――」


 青尉は後ろ手にドアを閉めた。


「――なぁ、朱兄」

「ん? なんだ。」


 青尉はさっきのことを聞こうと唾を飲んで、


「……今日の夕飯、何?」


 出てきたのはまったく違う言葉だった。いざ、朱将の大きな背中を見ていたら、どう切り出したら良いものやらまったく分からなくなってしまったのだ。

 朱将は背中越しに「鍋」と一言。


「へぇー、そっかー、鍋かー……」


 青尉の棒読みが不満のように聞こえて、朱将は軽く睨むように一瞥した。


「なんだよ、何か文句あんのか?」

「えっ、いや、ねぇよ! あるわけねぇじゃん! 俺、鍋好きだし! 今日も寒いしな! うん! うん……」


 必死に言い訳しながら、どこか不審げな挙動を見せる青尉。朱将は小首を傾げたが、結局何も言わずに調理に戻った。

 台所を沈黙が占める。背後から微かに聞こえてくるいびきとテレビ音声に急かされているような気がして、青尉は再び口を切った。


「……ところで、あのー……そういや、黄ぃ兄は?」

「大学の連中と飲み会だと」

「あぁ、そうなんだ」

「何か用事でもあったのか?」

「いや、別に……無いけど」


 と、口を閉ざした青尉。いよいよ話し始めが迷子になってしまった。富士の樹海に落とされたようだ。地図は現在地が分からなければ意味がない。『本日はお日柄もよく~』などというテンプレートは使えない。

 話が終わったにもかかわらず、青尉は台所から離れる気配を見せない。何か飲み物や食べ物を探す様子もなく、ただ立ち尽くしている。朱将は眉根を寄せて、ついに完全に振り返った。


「青尉? どうかしたのか?」

「っ……」


 青尉は肩を震わせ、目線を落とした。ここまできたら言うしかない。聞くしかない。腹を括る。


「朱兄……マッド=グレムリンって連中のこと、知ってるか?」


 少し、間が開いた。朱将の表情は変わらなかった。


「そいつらがどうした」

「……そいつらが、この辺の不良の縄張りを奪うつもりでいるって聞いたんだ。それで――」


 青尉はちらりと朱将を盗み見た。


「――朱兄が、それを止めようとしてるって」


 朱将の顔は不機嫌そうな仏頂面で、それだけ見ればいつも通りとしか思えなかった。


「誰から聞いた」


 その問いに青尉はかなり迷って、しかし正直に答えた。


「……山瀬」


 答えた瞬間、朱将は般若の面を被った。舌打ちが高らかに青尉の鼓膜を打ち据え、「ちっ。っの野郎……余計なこと吹きこみやがって……」煮え滾る地獄の釜のような憤怒に満ちた呟きが地を這った。

 うすら寒ささえ覚える静かな激昂。その様は本来怯えを与えるものなのだが、家族にはあまり効き目がない。ましてや今の青尉にとって、それは、山瀬に与えられた疑念を確信へと導いてしまうものでしかなかった。


「朱兄、本当なのか? 澤城さんに呼ばれたってのは? 拓彌さんと飲みに行ったのってこのためだったのか? 黄ぃ兄は知ってんのか? ……なんで、俺には言ってくれなかった?」


 朱将は苛立ちを抑えるように腕を組み、冷淡な調子で言い返した。


「わざわざ怪我人に言うことじゃない。それに、これは俺の仲間の問題だ。お前には関係ないだろ」


 その言い草に青尉はカッとなった。自分だけ蚊帳の外に置かれているのが気に食わなかった。右手を食卓に叩きつけて、勢いのままに声を張り上げる。


「関係ないわけねぇだろ! 今の俺の状況知ってんだろ! 相手はマッド=コンクェストの仲間だ! 目的が縄張りだけのはずがねぇだろ!」

「それがどうした」


 一方の朱将はどこまでも落ち着き払っていて、青尉には冷酷な態度にすら思えた。


「そいつらの目的がなんだろうと、喧嘩を売られたのは俺らだ。お前じゃない。余計なことに首を突っ込むな」

「ふざけんな、ここまで聞いて黙ってられるか!」


 大声に肋骨が軋んで、青尉はわずかに冷静さを取り戻した。


「朱兄、これは普通の喧嘩じゃねぇんだぞ。相手は能力者だ。危険過ぎる。頼むから……俺、こんなだけど、腕一本でも能力は使える。だからっ――」


 青尉が口をつぐんだのは、朱将が椅子の背を蹴飛ばしたからだった。

 朱将は睨むように青尉を見据えた。


「そう言うと思ったから、教えなかったんだ」

「っ、でも……」

「自分の身一つ守れねぇくせに、出しゃばってくんな!」


 火箸で殴られたような痛みと衝撃を青尉は確かに感じた。一瞬で頭が沸騰して、視界がきゅうと縮まった。目の辺りから何かが零れ落ちそうで、青尉は深く俯く。


「いいな、青尉。怪我人は怪我人らしく、大人しくしてろ」


 朱将がそう言うのを思い切り引き開けた扉で断ち切り、青尉は台所から飛び出した。居間を抜け廊下に出て、階段を踏み抜くつもりで駆け上がる。

 自分の部屋に入ってドアを力任せに閉めたところで、ようやく青尉は詰めていた息を吐いた。

 ――出しゃばってくんな!

 五寸釘のごとく脳味噌に打ち込まれた朱将の声が、ずきずきと音を立てて疼く。痛い。熱い。


「……っざけんな。そんな言い方あるかよ……!」


 青尉は弱々しくベッドに倒れこんで踞った。どうして俺は能力者なんかになったんだろう。何のためにこんな力があるんだろう。こんなもの欲しくなかった。これさえ無ければ――


「……くそっ」


 毒づいて、布団を被る。もし能力が無かったら――戦闘もない。怪我もない。サッカーはやれるし、帽子無しで自由に外を歩ける。朱兄と喧嘩もしないで済む――その場合の現在を思うと、涙が溢れてきそうになった。理不尽な展開が何よりも憎い。せめて、辰生が言ったように明確な理由が――事故に巻き込まれたとか、病気になったとか――そういうものがあったら、まだ受け入れやすかったのだろう。

 胸元を強く押さえると肋骨が軋んで、何故か、その痛みに安心感を覚えた。




 家を壊そうと画策する怪獣と化した青尉が轟音を引き連れ二階に消え、朱将ははたと我に返った。


「……やべぇ」


 言い過ぎたかも知れない、と朱将は思った。意外と青尉はデリケートなんだから、言い過ぎ注意ね、といつだったか黄佐が言っていたのを今になって思い出す。末っ子だからか、歳が離れているからか、拗ねやすいんだと。


(くそっ、山瀬が余計なことを言うからだ。すべてはその所為だ。……次会ったら、全力でぼこす)


  物騒な決意を固めたところで、怪獣が開けっ放していったドアから軍武が顔を覗かせ「おう? もう飯かぁ?」ととぼけた声で言った。


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