【第四夜】刀堂青尉の平凡な一日
☆4‐1
病院へ行ったその足で、青尉は学校に着いた。
時刻は昼休みの少し前。当然ながら閑散としている昇降口を抜けると、ふと溜め息が零れた。
医者には、もう一日二日休んでいた方がいいと言われた。
しかし、あんまり長く休んでしまうと、もう二度と学校へ来られなくなるような気がしていた。だから今、無理を押して登校しているのだが。
(帰りたい……)
腹の中で弱気の虫が泣き喚いていた。今すぐ回れ右をして家に戻りたい。教室に行きたくない。自分が『能力者である』という事実を知られてしまっていたらどうしよう。それを隠し続けていたことに対して怒っていたらどうしよう。まず最初に何て言えばいい? 謝る? 素知らぬ顔で挨拶する? 何か言われたらどうしよう。
(黄ぃ兄から『ネットの力は凄まじいからね、覚悟しとけよ』って言われたけど……実際どれほどなんだろう……)
不安は尽きない。恐怖は消えない。渦巻く闇が足元で大口を開けているような幻想が見える。一瞬でも気を抜いたら足を取られて引きずり込まれ、そのまま二度と上がって来られなくなると思った。青尉は本来、あまり人の目を気にするタイプではないのだが、今回ばかりは違った。自分はそれほど強い人間じゃなかったんだ、とはっきり自覚して何となく落ち込む。
もう一度溜め息をついてから、青尉はまず職員室に向かった。たとえ事前に連絡してあっても、遅刻をしたら遅刻届を書かなければならない。
まだ教室では授業が行われている最中だ。この学校は非常におかしな造りをしているが、どこかの教室の前を通らないでも職員室に行けるルートがあることを初めてありがたいと思った。
(杜本先生とかいたら嫌だな……)
彼が授業をやっていることを祈りつつ「失礼します」と中へ。
ほとんど教員のいない職員室は、しんと静まり返っていて、どこか寂しげな雰囲気があった。
(あれ、遅刻届ってどこにあるんだっけ?)
いつも遅刻ギリギリでありながら、事には至っていない青尉にとって、遅刻届は縁遠い存在である。職員室の中、ありそうなところをきょろきょろと見回す。
「青尉くん、遅刻届ならここだよ」
声を掛けてくれたのは副校長である。穏やかで優しくて人気の先生だ。青尉も好ましく思っている。この学校に来る前は農高にいたらしく、朱将と面識があり、その関係で青尉のことも知ってくれているのだ。
青尉は副校長の机の方へ足早に行った。すぐ近くには杜本先生の机があるのだが、そこには誰もいなかった。少しだけ安心する。
柔らかい笑顔を浮かべた副校長が、遅刻届を差し出した。
「災難だったね。怪我の具合はどうだい?」
「まぁ、それなりに、酷いです」
「そうみたいだね。なんだか懐かしいな。朱将くんもよく、大怪我したまま学校に来たもんだよ」
「そうなんですか」
「うん。あ、ペンはそこのやつ使っていいよ」
「ども」
鉛筆やらボールペンやらが無造作に入れられている箱から、適当な一本を取り、所定の位置に名前を書き込む。
(うわ、やっぱ片手だと書きづらいな……)
青尉は唇を尖らせた。もう一方の手が使えないから、ペンを持っている手で紙を押さえているのだが、その所為でペンを上手く動かせないのだ。紙がぐしゃぐしゃになって思わずうなり声を上げる。
苦戦している青尉を見て、副校長は相好を崩した。本当に、よく似た兄弟である。副校長は引き出しを開けて、小さな文鎮を取り出した。
「はい」
「あ、すんません。ありがとうございます」
「いえいえ」
文鎮のおかげでかなり書きやすくなったのだろう。「理由? あー、ええっと……」などと呟きながら空欄を埋めていく青尉を、副校長はしげしげと見つめた。青白い顔面。頭に巻かれた包帯。書くペースがやけに遅いのは、果たしてわざとか無意識か。
「――大丈夫かい?」
「え?」
唐突な質問に、青尉は顔を上げた。
「あ、はい、どうにか書けます。でもやっぱ、片腕って不便ですね」
「いや、そうじゃなくて」
副校長の言わんとしていることが理解できず、青尉は首を傾げた。
「いろいろとあったみたいだから。無理してるんじゃないかと思ってね。もうしばらく休むとばかり思っていたから……無理をしちゃ駄目だよ」
「あー、あぁ、はい……」
詳しく語ろうとしないで俯いた青尉。
しかし、副校長は気にした様子も無く「まぁでも、青尉くんなら大丈夫かな」と、笑った。
「頼もしいお兄さんたちもいるし、理解ある友達もいる。うん、むしろ僕が保証しよう。何があっても、青尉くんなら大丈夫だよ」
言葉がじわりと染み込み、青尉は、自分の悩みがすべて見透かされているような感覚に陥った。
「心を強く持とうとする必要はないよ。堂々と自分らしくして、後は、ほんの少しの勇気があれば、それで充分だ。頑張ってね」
「……はい」
小さく笑って頷いた青尉が、微かにだが顔色を良くしているのを見て取って、副校長は安心した。心は案外簡単に折れるものだ。身体が弱っている時なら、余計に折れやすい。その支えになれるのであれば、教師として、大人として、これほど幸せなことはないだろう。
(何を背負っているのかは知らないけど、どうかこの小さな背中が、屈してしまうことがありませんように)
来た時とは違い、まっすぐ前を見て職員室を出ていく青尉を見送りながら、副校長はひそかに祈った。
「失礼しました」
三時間目の終了、昼休みの始まりを知らせるチャイムが鳴った。
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