2020年9月21日(赤口)その1
そうして9月の連休、本来ならば文化祭があったその日に、本番の撮影が行われた。
無人で真っ暗な客席は、演劇でいうゲネプロのようだった。その客席中央に、小さな鉄塔のように収録機器が据えられていた。
間宮先生はその後方から、舞台上手下手の歌唱ブースとピアノへ指揮をする。
各曲はほぼ当初の香盤表の通り、二重唱『可愛がってくださいね』だけが柾目りょうにピンカートン役が差し替えられた。
本番、りょうの出番は1幕目の最後である。
舞台上は暗く、背景には星空のような照明が当たっている。
話の流れは、蝶々の改宗が曝露されたことにより結婚式が台無しになった後だ。それでもようやく蝶々とピンカートンが二人きりになった結婚最初の夜である。
前奏が鳴る中、りょうは下手側ブースに入り、マスクを外した。同様に上手側のブースに控えた小柴とアイコンタクトを交わす。
ブース内は、服屋の試着室のような閉塞感があった。
通し稽古中はアクリルブースという環境に耳がなかなか慣れなかった。りょうはたびたびに無意識に声を張り上げてしまった。その度に間宮先生から(少し抑えて)と指揮の所作で指示を受けた。
指揮役の間宮先生は、今日は客席奥のカメラの画角の外にいる。
りょうは小さく息を整えるようにブースの密閉観をこらえる。そして音楽室の感触を心に思い描いた。
二重唱は蝶々から始まる。これまで毎日のように聞いてきた小柴の歌い出しだ。
だがその声はアクリル板二枚分遠い。それはりょうの主観として、よそを向いて歌っているの聞いているような距離感があった。
それに耳をそばだて、イメージを膨らませて補う。これに伴ってりょうの意識は紙縒りが紡がれるように絞られていく。
彼女の声と伴奏、そして遠くで指揮をする先生の手だけに意識が傾く。
それをいくらか乱すものがあるとすれば、舞台中央である。
二人の目の前では、明衣と沖原が寄り添っている。
いずれも蝶々とピンカートンとしてである。
明衣はこの日のために伸ばした髪につけ毛を足して丸髷に結っている。衣装は前のシーンで羽織っていた打掛を脱いだ淡い色の小袖姿である。
沖原もツーブロックを横分けにした遊んでいる風の髪型で、軍服の上を脱いでシャツの襟を緩めている。
その二人がまるで夏の星空の下で語らう恋人達のように座り込み、むつみ合っている。
小柴蝶々の歌声にあわせて、肉体の蝶々を演じる明衣は意を決したような顔つきになる。
『わたしを愛してください』と自ら求める歌い出しだからだ。
――蝶々は初夜を迎えるにあたって、それ以前に式の最中において、多くのものを失った。いま彼女が持つものは、彼女自身と父の遺品の短刀、そして目の前の陽気さばかりの男のみである。
彼女は、ピンカートンに自分の人生全てを夫として愛することを求めていた。これが、ピンカートンが日本にいる間だけの関係だなどとは微塵にも思わずに――。
慎ましく細やかだが確実な幸せを切々と求める蝶々。対照的に、ピンカートンは若く美しい彼女の貌に見惚れている。
そして二人が抱き寄る。
その瞬間からりょうの出番である。歌声を発する。
歌詞の主意は『カワイイ手にキスをさせて』……なんと気安いことか。内面を求める女と外見を求める男の違いと言ってしまえばそれまでだが、それほどに求めあう愛の深さの差が色濃い。
目の前で、沖原部長が明衣の手に歌詞の通りにキスをする。
りょうが立ち稽古で初めて見た時はなんともいえない気持ちになった。だが再三の練習で慣れた。今は社交ダンスの一部のように表現の断片としか見えない。
『僕の可愛い蝶々! 君にぴったりな名前だ。か弱い蝶々』
蝶々との間での感情の落差が大きい。ただ、女の相手に手慣れたムードだけがある。
――幸か不幸か、りょうにそのイタリア語詞に感情を込めるほどの余裕はない。ブースの中の彼は事前に丹念に仕込まれた歌唱をこなし切ることに、全てが奪われていた。
独占を宣言され、名前を褒められた明衣の蝶々は急に怖気づいた。ぱっと体を離して立ち上がると、小柴蝶々が歌う。
『海外では人の手に取られた蝶は、ピンに刺されて標本にされてしまうとか』
沖原ピンカートンは、さっと立ち上がって彼女の手を取った。
りょうのピンカートンが応じる。途中で調子がかわるから抑揚に注意がいるくだりだ。
『そういうこともある。なぜだか教えようか。それは逃がさないため』
距離をとる明衣の蝶々。
ピンカートンの気軽さがここでも出る。
『君を捕まえてだきしめよう。君は僕のものだ』
歌の通りに抱きすくめられる蝶々。
『ええ、一生』
一生という言葉の重さのとおり、小柴蝶々は力強く歌う。連なってりょうも強く発する。
『さあおいで、さあおいで』
沖原ピンカートンは自分は大物とでもいうように、客席にぱっと体を開いて見せる。
『さあ、君の心から不安な心よ、出て行け! 澄んだ夜だ。全てが眠っているよ』
再び寄り添う沖原ピンカートンと明衣の蝶々。小柴蝶々は心がとろけたように歌う。
『ああ、なんて甘い夜』
間髪入れずにりょうのピンカートンは引き寄せるように唱える。ここからは互いの歌声が連なり、じきに重なる。
『さあおいで』
『星がたくさん』
『澄んだ夜だ』『みたこともない』
二人はひしと抱き合って寄り添う。
『さあおいで、澄んだ夜だ。すべてが眠っているよ……』
二人の高まりは波が引くように一呼吸置かれる。だが歌唱上は間を置かずに小柴蝶々がやわに歌声を継いでいる。
『甘い夜、星もたくさん』
怯えていた蝶々の心がほぐれるように、旋律も夜空のように深く柔らかい。
明衣の蝶々は体を離して、手だけをつないで体を開いている。
間を継ぐように、りょうの歌声が合いの手のように入る。
それを受けつつぽうっと呆けるように仰ぐ明衣の蝶々。小柴蝶々の歌声もそれに乗る。
『こんなきれいな星はみたことがない。
全ての星が瞬き、震えながら瞳のように輝いている』
沖原ピンカートンも、りょうの歌声に合せて身を寄せたり離したりとする。
――さて、澄んだ夜と歌うピンカートンと、甘い夜と歌う蝶々。二人はすでにずれ始めている。いや、初めから一致などしていない。盲目的な情愛が互いにそれを受け流させているだけで――。
それが、いよいよ二人の歌声となって重なった。
小柴の歌声に合せて、りょうが声を張る。
『ああ、星が瞳のよう』『ああ、君を抱きしめよう』
『空が見つめているわ』『おいで、君は僕のものだ』
歌声は重なりながらも、歌詞は夢見がちな少女と体を求める軍人と、まるでかけ離れている。
明衣と沖原もひしと抱き合って、互いに同じ正面の彼方を向いている。
同じ方を向きながら、まるで別のものを見、まるで別のものを求め合う。そしてまるで別の事を感じ合う。恋愛は勘違いのようなものだという言葉がある。4人によって演じられるふたりはまさにそれそのものであった。
小柴とりょうの歌声はなおも力強く続く。
『地も海も見つめているわ』『全てが眠っているよ』
舞台中央のふたりは二度目の引き潮のように体を開きあう。
歌声は再び、交互に戻る。まずりょうのピンカートン。
『君を抱きしめよう、おいで』
小柴の歌声が感嘆のように間を作らず継いで、歌詞が架かる。
『なんてたくさんの瞳』
――蝶々の言う『瞳』というのは『星や世界に見られているように感じる』という比喩的な意味ではないかもしれない。
彼女はこの前の場面で、結婚式に乗り込んできた坊主により、信仰への裏切りを暴露された。そんな彼女を参列者たちは取り残すようにして帰っていった。あるいはその時の人々の『眼』の幻影である。
さもなければ、愛の誓いを得た多幸感に15才の少女が振り回されているのだろうか。――
ピンカートンは彼女をなだめるように歌う。
『すべてが眠っているよ』と。
小柴蝶々の歌声はこれに構わぬように高まる。
『空が微笑んでいるわ。ああ、甘い夜』
再び寄り添う明衣の蝶々と沖原のピンカートン。
『すべてが愛に酔いしれ、空が微笑んでいるわ』
『君は僕のものだ』
小柴の歌声に割入るように、りょうのピンカートンもと声を張る。
張り合うような強い長音。それを間宮先生の指揮の一握と共に終止する。
同時に明衣と沖原が顔の陰を口づけのように重ねた。
――りょうと小柴は自分達の歌の終いを示すようにそっとマスクをつけ、ブースを出て袖に消える。
照明はゆっくりと暗くなっていく。
余韻のような後奏が続く。
舞台上の二人も、見えないくぐり戸を抜けるような所作でピアノの後ろに回る。
そこで完全に暗転し、一幕が終わる。
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