2020年8月18日(仏滅)

 翌日も両部合同の立ち稽古が続いた。


 事前に音楽室は徹底的に感染防止対策がとられた。

 登校前の検温をラインで報告、音楽室に入るものは全員マスクとフェイスシールド着用。出入りの度に手指のアルコールジェル消毒を指示された。


 そういう場に、未來がのこのこと現れた。

 透明の仮面の集団といっていい二つの部の生徒たちは、騒然とした。


 久々に会った子もおり、声を聴かなければ誰が誰だかわからない。

「いやー、あんた昨日はどうして休んだの」

 その声は未來が入部した時から一緒の12年生のソプラノである。


「調子悪くて」

「いやー、居なくて困ったわ」

「なんかあったの?」

「柾目がこーやさんのフェイスシールドひっぺがして『大坪さんからメッセージです』って思いっきりパンチ」

「マジで」

「それで柾目はそのまま荷物まとめて帰っちゃった」

「……ほんとにやっちゃうなんて」


「どうしたの」

「私がお願いしたの」

「殴れって」

「殴ってくれるって」

「お前……なんつうことを」


「こーやくんは?」

「なんか、ぼんやりしてた。あんたたちなんかあったの?」

「えっ、それは、なんというか」

「あんなもん青春映画でしか見ないと思ったわ」


「……今日、彼は?」

「どっち? いやどっちも休みよ。柾目には『今日は来なくていい』って間宮さんカンカンで電話してたし、こーやさんも来ないし」

「こーやくんは、当面来ないって」


「そっか」

「私達、わかれた」

「え、振られた?」

「ううん、振った」

 これをきいて、同期の戦友は黙って未來をハグした。


 体を離して、尋ねた。

「それで昨日さぼったん?」

「うん」

「そっか……練習終わったらアイス食べ行こう」

「え、うん」


 午後、りょうはペット病院にやってきた犬のように猫背で震えながら現れた。そして昨日殴った畑中広夜が居ないとみてほっとした顔をする。


 そこに昼の職員会議から帰ってきた間宮先生と小木先生が現れる。


 最敬礼で「すみませんっした」と詫びるりょうに間宮先生は「お前、次はないからな!」と強い口調で言う。


 そして音楽室に入ると、両部の部員達を呼び集めるように指示した。

 彼らは音楽室に限らず、廊下やベランダ状の屋上にまで出て、感染予防距離を保ちつつ自主練習をしていた。

 音楽室に両部一同が集まっているのを見計らって、間宮先生は一言だけ伝えた。


「今年の文化祭はないかもしれない」


 それを第一声に始まった午後の練習は、実に気の抜けたものになった。

 3時を少し回った頃、顧問の先生達は話し合い、小木先生が待ったをかけた。


「今日はこの辺にしよう。これ以上やっても、今日はよくはならないから」

 誰もが納得して、誰からともなく荷物をまとめた。

 言葉通り、午後の練習はそれで終了となった。


 そのあとは、両部の部員達はうだうだと集ったまま最寄り駅へ向かった。

 日差しと気温が高くても、群れて動くからマスクは誰も外せない。それを外したのは、駅前のアイスショップに全員がぞろぞろと入った後だった。


 出演予定だった両部の全員と先生二人まで一緒に、駅前のアイスショップに行ったのだ。

 猛暑の厳しさもあるが、それ以上に皆なぐさめるものが必要だった。


「……なんでだろう。おいしいのにおいしくない」

 演劇部部長、沖原がそうぼやいた。


 これに周囲の演劇部員が肉をみつけたピラニアのようにこぞって反応する。

「おいやばいぞ、味覚障害だ。感染者が出たぞ」

「離れろ、ゾンビになる前に頭をかち割るんだ」

「衛生兵、衛生兵!」


「うるせーなー、そういうことじゃなくて、心がおいしくないの」

「なにっ、心肺機能がおかしいだとっ」

「そうは言ってないだろうが」


「こいつはもう手遅れだ、オツムまでやられてしまった」

「こら聞け」

「もーだめだー、劇部は壊滅だーおーしまーいだー」

 大げさにじゃれ合う演劇部を、遠巻きに見ながらくすくすと笑う合唱部員達。


 それを背に、たそがれているりょう。

 その背中に、とん、と体当たりのようにぶつかるものがあった。

 ふりむくと、未來だった。


 未來は小ぶりの3段重ねのアイスをまっさらなピンクのスプーンですくって、りょうの口先に差し出した。

「はい、あーん」

 りょうは少し訝しむような顔をするも、あたりをうかがってから一口貰う。


「うん、おいしいです」

「そっちも一口ちょうだい」

「あ、新しいスプーンもらってきます」

「いいよ、このままで」


 そういって、りょうに食わせたスプーンで一口すくって、自分の口に入れる。

 学校自体が休みなせいか、未來はほんのりと化粧をしていた。その唇も潤ったようなグロスのつやがある。


「ねえ、宿題片付いてる?」

「ええ、まあ、順調に」

「よかった、じゃあ次の日曜空いてる?」


「え、まあ、空いてますけど」

「じゃあさ、デート行こうか」


 りょうはぎょっとした。

 あたりを見回してから、答えた。

「また、からかってます?」


 そういうと未來はくすくすっと目を細めて笑う。それから自分のアイスに手を付ける。


「ううん、マジで。本気のデートのお誘い」

「えーと、俺でよければ」


 未來は嬉しそうに笑んで「じゃあ、新宿駅に11時頃」とつげて背を見せた。そのままスキップを踏んで12年生の女子の輪に向かった。

 それを見送っていた視線が、なぜか明衣とあった。


 明衣はにこりとして近寄ってきた。

 春は鎖骨あたりではねる程度だった髪が、肩を包むほどに伸びている。

 蝶々役にあわせて髪を結うために伸ばしているのである。本番はこれでも足りないので、横髪に丸髷用の装具を仕込むつもりだと聞かされている。

 その長い髪をしゃらりとゆらして、小首をかしげた。


「よかったじゃん」

「見てたのか」

「間接キスだよ、あの美人と」

「そうなるとは思わなかった」

「マジで?」

「スプーン、新品だったし」

「そっか。……ねえ、それ一口貰っていい?」


 交換なら、と言いかけてりょうは明衣の手の中のカップを凝視した。

 空っぽである。食べきっている。

 これにあきれた顔をして、仕方ないというようにアイスを差し出した。これにめいは直接かぷっと食いつく。

「スプーン使いなさいよ、カップで注文したらついてくるピンクのスプーンを」


「おいしー、歯磨き粉あじー」

 明衣はとろんと眠そうな猫のように頬を下げた。

「チョコミントにその感想は失礼だわー。っていうか食いたければ全部やるよ」

「ほんとに? やったー」


 そういう明衣にぎょっとして目を剥く。

「マジで食う気か」

「食べてやってもいいよ」

「お前は一度カウンターに行って商品一覧のカロリー表示を見てきた方がいい」

「夕飯減らせばいいもん」

「そりゃそうだけど」


「それで、何話してたの?」

「ん? ああ、デートしようって」

 これをきいて明衣は目をまん丸く見開いた。目を見開いたついでに口も大きく開いてもう一口りょうのアイスにかじりつく。でろんと唇にクリームがつく。


「もー、行儀が悪い、っていうか、ほら、ここ付いてる」

 そういってカウンターから紙ナプキンをひきぬいて唇の際をぬぐってやる。まるで幼児と親である。


「マジで」

「マジだよ。待ち合わせの時間と場所まで指定された」


 明衣は一瞬黙って、真顔になる。

「なんだよ」

「よかったじゃん」

 そう言う明衣の様子は、いくらか穏やかだった。

 だがそんな彼女に、りょうは何とも言えぬ違和感を感じた。


「へ?」

「いや、なんとなく。今日の様子見てても思ったんだけどさ、あんたあの先輩好きでしょ」

 今度はりょうが真顔になって言葉を失った。


「なんとか言えよ。アンサーホワイト」

 明衣にそううながされて「こら」と応える。

「ひとの事をアカウント名で呼ぶんじゃない」

「白紙答案と書いてフリガナがアンサーホワイト」

「やめろ、昔のラノベっぽく言うな」

「違うの?」

「違わないけど、恥ずかしいから」

「んふふ、デートかー」


「言いふらすなよ」

「なんで」

「面倒なのはイヤだ」

「わかってるよ」

 そういいながら、明衣はりょうの顔を手の中のアイスを見比べる。

 これをうけて、りょうは自分のアイスを差し出した。

「わかった、マジで全部やるから」

「やったー口止め料だー」


 そういって明衣の空のカップと、自分の歯型のついたチョコミントを交換した。

 りょうはふと明衣が食べていたのが何味か気になって、カップの底を指ですくって舐めた。清涼感のある甘みである。

「お前もミント系じゃないか。ふたつめかよ」

「んふふ、よいではないかよいではないか」


 そのふざけた言い方に「まったく」とぼやいて少し笑った。

 本人は気付いていなかったが、りょうはこの時、この日学校に来てからはじめて笑った。


 アイスを食べている誰もが、マスクはあごにかけたり、顔から外したりと、口元をさらしている。

 ほかならぬ素顔である。りょうもまた同じである。

 その素顔の笑顔を、明衣はただ一人真正面から受け止めながら、彼女は言った。

「私、合唱部と兼部することにした」

 りょうの笑みが驚きにかわる。明衣は続けた。


「立ち稽古やってみてさ、歌えたほうが表現の幅が出るんじゃないかって気がした」

「けどおまえ」

 明衣はみなまで言うなと言わんばかりに眉間にしわをよせた。

「わかってる、私は音痴。だけど間宮先生に相談したら、音痴は直るって」

「……まあ、直るは直るんだろうけど」


「堤の受け売りじゃないけど、音楽劇ってやつにも興味でてきたし。そういうことだから、よろしく」

「お、おう」

 りょうは気圧されつつ、なんとなく未來を見やった。


 彼女はすでにこちらには気を向けておらず、12年生の女子達と語らい、けらけらと笑っていた。

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