2020年7月X日(上旬)

 時は流れて一学期の期末試験を終えた後。


 未來は試験休み中の暇にかまけて、ふらりと畑中のマンションに行った。彼は不在だったが、合鍵は持たされている。冷蔵庫の中も多少は自由にしてよいと言われている。


 彼の部屋は彼女にとっては隠れ家のような場所になっていた。だがその日は、いつもとどこかが違った。


 匂いが違うのか。もしやどこかで何か食べものが傷んでいたりするのではないか。ふとそんな気がして、キッチンに立った。流しに立ち、むわっとした臭いのする三角コーナーのネットを変えようとした。


 そのとき、みつけてしまった。

 ステンレスのシンクにはりついた長い赤毛である。


 まさかと思い、奥の部屋に行く。そしてベッドの下や枕の下を目を皿のようにして見た。

 薄く積もった埃やシーツの毛羽に混ざって、同じような毛が一本二本と見つかる。

 未來は髪を染めてはいない。広夜もずっと黒髪で髪の毛はそんなに長くない。


 ほかにも、兆候は見つかった。

 たとえば、あの後二人で買いに行った箱詰めのコンドームの残量が、未來と使った回数と合わない。

 缶ゴミを入れているゴミ箱に、口紅のついた空のビール缶があった。未來はビールは飲めない。


 それらを見つけて、未來は不思議なほど穏やかな気持ちのままだった。

 まるで耳なりの中で誰かの声を聴いているような感覚である。頭の芯のほうでは理解できていないかのような感覚、ともいえるかもしれない。


 未來はただ、部屋を掃除した。

 彼の部屋に掃除機をかけた。ベッドの下で見つけた毛もきちんと吸い込み、サイクロン式掃除機のダストカップの中身を燃えるごみの袋にいれる。

 キッチンシンクの長い赤毛を三角コーナーの中につまみ入れて、ネットを交換。毛の入ったネットは小袋に詰めて口を縛る。これも燃えるごみだ。


 彼はまだ帰ってこない。

 一人きりの部屋で、冷蔵庫の中の野菜でニンジンしりしりともやしの煮浸しを作った。


 冷蔵庫から強炭酸と書かれたペットボトルを出して飲んだ。

 作ったものをタッパーに入れ、粗熱が抜けるのを待ちながら取り皿に分けて飲み食いして過ごす。


 炭酸程度では頭の中のもやもやは引かなかった。


 視界の隅に畑中の常飲しているウイスキーの四角いボトルが見えた。

 だが、今日は夕方から予備校がある。

 酒気帯びで行くわけにはいかない。


 料理が冷めると蓋をして、日付を付箋して冷蔵庫に入れた。


 それから予備校のバッグをひらいて、荷物が増えた時用のエコバッグを取り出した。それを広げ、彼の部屋の端々に残る自分の私物を片っ端から詰めた。

 歯ブラシ、引っ越し祝いに買ったペアのステンレスタンブラーのピンクの方。箸、置き忘れた髪留め、置き着替えの下着やブラウスシャツ、蛍光ペンだらけのペンケース、ゲームセンターの景品の小ぶりなぬいぐるみ達、予備の参考書――。


 それが済んでも、彼は帰ってこない。

 まだ時間がある。汗を流したくてシャワーを浴びた。

 まだ帰ってこない。


 未來はルーズリーフを一枚出して、手紙を書いた。それを折手紙にした。


 そしていよいよ予備校に行く時間になり、ひとり荷物を抱えて部屋を出た。

 彼の部屋に、もう自分の痕跡はない。

 部屋のカギがきちんと掛かるのを確かめて、合鍵を手紙に包み込んだ。そして手紙を郵便受けに入れた。


 予備校の講座中、彼から着信があったが即切って電源を落とした。

 講座が終わり、電源を入れるとラインのメッセージがまとめて届いていた。


 未來は『手紙を読んで。ありがとう』とだけ返信し、それに既読がついたのを確認して、二人だけのライングループを退会した。


 帰宅の電車の中、未來は声を押し殺して、マスクがじっとりと重くなるほど泣いた。

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