2020年6月x日 昼休み(※約6000文字)
6月を迎えて間もない昼休み、合唱部員達が音楽室に集められた。
11年生と12年生、併せても20人と少しである。
今日は入部希望の10年生は呼ばれていない。それが合わされば30人近くにはなるだろうか。
音楽室は横長で、中央にはグランドピアノが向かい合わせに二台据えられている。
「うたいたーい」
横長の教室の右寄りの隅、ソプラノの誰かが子供のような澄んだ声で無邪気にそう発した。
これにそこかしこからくすくすという笑い声がする。
今日は練習ではない、ミーティングである。
皆、畳んで壁に寄せられたメモ台つきのパイプ椅子を引っ張り出して座っている。
全員マスク姿で、久々に見る顔もある。
それぞれが何となく、普段の練習時の定位置に近いあたりにいた。
正面、指揮者の立ち位置から見て、左から
「ここ来るとウズウズするよね」
アルトの誰かがそわそわとした様子で言った。
「ねえねえ、フェイスシールドして歌ったら
「あの、夏場、長袖で自転車乗ってるおばさんがつけてそうなやつの透明なやつ?」
「夏のおばさんのはサンバイザーでしょ?」
「っていうかフェイスシールドってなに」
「顔全面覆う、透明のお面みたいなやつ」
「お面というか、ヘルメットの風除けだけみたいなやつだろ?」
アルトソプラノの周りでにぎわっていたやりとりがテノールにまで飛び火する。
「あー、あれか。動画で見たわ。機動隊のヘルメットみたいなやつ」
「フェイスシールドオンリーはだめだよ、マスクもしないと飛沫は横からダダもれだから」
「夏になったらUVカットフェイスシールドとか出るのかな」
「それこそおばちゃんのサンバイザーじゃん」
「あれって自分の吐いた息とか飛沫とかで何も見えなくなりそう」
「それは息使い過ぎ」
「『ティオの夜の旅』でどんどん曇ってくの。〈しめった、ふあんを〉くらいから徐々に飛沫とくもりがたまってきて〈ティオはティオは、よるのあいだーに〉の頃には全員フェイスシールドが真っ白に」
「んふふふ、やめてよね。想像したら笑えちゃうから」
「定演冬場だしなー。換気とかちゃんとしすぎてすげー寒い中やる感じだったらありそう」
「むしろ屋外で」
「屋外か、日比谷の野音とかはさすがに無理だろ」
そうまじまじとバスも混ざる。やり取りの主が12年だから、というせいもあるだろうが、若者の群れ特有のぎゃあぎゃあとした感じにはなかなかならない。
どちらかというと、皆、やたらと耳に届くひそひそ声のような声色である。
元々日頃の練習で、そう力まずとも声を遠くに響かせる技術はある集団である。そうでなければ譜面記号ピアニッシモを市営ホールの隅までは届かせられない。
またマスクをしていても多少の飛沫は漏れて出るなどという話もある。なおさらそれぞれが気を使ってそうした技術を駆使して声を発していた。
「野外堂自体は井の頭公園とかにもあるよ」
「えー、あそこで歌うの?」
「ステージ上からカップルが乗るスワンボートとか木立の間から見えるとこで、って考えるとちょっとやだな」
「そん時はオフコースのさよならでも歌うんだよ」
これに唐突に、軽やかに誰かが歌い出す。
「〈さよなら、さよなら、さよなら〉」
これに誰ともなく調子を合わせてハモり始める。
「〈もうすぐ外は白い冬 愛したのは確かに君だけ そのままの君だけ〉」
そう一節歌い切って、けらけらと笑う。
「はー、ひでー嫌がらせ」
「ただでさえ別れるって噂のイノコのボートなのに」
笑いすぎてひいひい言いながらそんなことを誰かがぼやく。
「っていうか定演の頃はもうほとんど冬終わってるから」
「雪はあるかもだけどね」
「今年も予定だった日に降ったしね」
誰からともなく、思い出してため息が漏れる。
「どっちにしろ、みぞれが降る中で歌うのは嫌だなー」
「電車は遅れるし、革靴つらいし」
「それな」
「けど、なつかしーね、今の」
「ねー」
「中学の時やったねー」
「そうなの?」
「うん、9年の音楽の授業でやるの。内部生はみんな歌えるよ」
「卒業式で歌わされるしね」
「今年の10年達、歌えたのかな」
「さあ、どうだろうね。2月までは練習はしてただろうけど」
「そういえば今日は10年呼んでないんだよな。ハブるような話題なのかな」
「あんまり学年の溝も作りたくないよね。今年はただでさえ大変だし」
そんなやりとりがされているところに、教員室に通じる戸口に人影が立つ。
そこから部長12年生アルトの武田、副部長の11年生テノールパートリーダー形山と顧問の間宮先生が入ってくる。
「はい、はじめるよー」
形山は椅子を出してきてテノールの中に、武田部長と顧問はそれぞれピアノの椅子に腰かける。ミーティングの定位置である。
「うーっす」
「りょうかーい」
「とりあえず知ってる人もいると思うけど、正式にNHKコンクールの開催が中止になりました」
これに不規則発言の声が続々とあがる。
「くそがー」
「ちくしょー」
「けどしかたなーい」
「ねー、マジで暑くなったらコロナ死ぬって話はどうなったのよ。熱湯消毒と同じなんじゃないの」
「熱湯消毒が利くのは本当だけど、夏にコロナが死ぬのはデマ」
「真面目かよ」
部長が立ち上がり、静粛さが戻る。
「色々不満はあると思う。けど、うちも何もしないまま音楽室を空っぽにするつもりもありません」
武田は地声の低さの活きた響きのよい太い声でそう言い切った。
部長の言葉に拍手や賛同の握りこぶしが挙がる。
「そこで今年は、演劇部と合同で文化祭に備えて今年だけの企画をやることにしました」
これに、何人かが顔を見合わせる。
「え、ダンス部じゃないんすか」
先日のグループチャットにいた一人が尋ねる。
「ダンス部は、正式に断られた」
「なんで」
部長と顧問が顔を見合わせ、顧問が答える。
「芝居を兼ねた振付を一から作るのは簡単な事じゃないからだ」
俄かにざわつく。
「共同企画として、オペラをやることになった」
これに「そっちに決めたか」という声がどこかから漏れる。
「事情を知っている者もいるようだが、演劇部に先日打診した。先方からあった提案とうちの部の実情を照らし合わせた結果、オペラ『蝶々夫人』をやることになった」
挙手が上がる。
「蝶々夫人ってどんな話?」
これには続けて間宮先生が答える。
「日本を舞台にしたプッチーニ作のイタリアオペラだ。一人につき一曲から二曲ずつ各パートのソロが可能な技量の部員で役を回して歌い、それに合わせて演劇部に無言劇という形で身振りを演じてもらう」
「それは人形浄瑠璃的な事?」
その声に、先生がぴっと指さす。
「その通り、やることは人形浄瑠璃と同じだ。ただ、歌曲はイタリア語のまま。歌い手もコーラス以外は一曲ごとに変える。ストーリーを補うために曲と曲の合間をナレーションでつなぐ」
「あのさ、演劇部って何人くらいなの?」
男子の固まったあたりからこそっと聞こえる。それに対してりょうが同じく声を潜めて答える。
「実働してるのは5人、幽霊部員いれるともうちょっと」
「え、少なくない? 去年の学園祭の舞台、もっと大勢出てたじゃん」
「去年は大半が12年生だったの。今年の新入生がどうなってるかは知らない」
「まじか」
「あっちも確かコンクールあったよな」
「え、Nコン中止であっちはアリなの?」
「いや、詳しいことは知らん」
顧問がパンパンと手を鳴らす。
「これからプリントを配る。上演時間と予定の歌曲、それとそれぞれの歌曲に参加可能なパート、ソリスト候補者の振り分けだ」
プリントの束が手から手へ、一枚ずつ引き抜かれながら回る。手書きをコピーしたもので、字は間宮先生の筆跡である。タイトルには『香盤表』とある。
「ねえ、これなんて読むの?」
「こうばんひょう、出演者の一覧、的な意味」
そこに書かれているものをみて、ソプラノの外端に座った未來が「やった」と呟いた。
〈前略――
二重唱:『可愛がってくださいね』テノール浦木光太(代演:柾目りょう)ソプラノ小柴美紅(代演:大坪未來)
――中略――
アリア:『ある晴れた日に』ソプラノ大坪未來(代演:小柴美紅)
――以下略〉
彼女の指名は一幕最後の曲の代演と作中最も有名なアリアである。
「え、あんたそんなにいい曲引いたの?」
未來の浮かれた笑顔に、隣に座った同じ12年のソプラノがぼんやりとした調子でいった。
これにマスク越しにもわかる満面の笑みで「うん」と頷く。
「おめでとう」
「ありがとう、マジありがとう」
間宮先生は立ち上がり、黒板に香盤表を板書し始めた。書きながら釘を刺すように強い口調でこういった。
「君たち、うかれるんじゃないよ。代演者が指名してあるだろう。これは本人にやる気がないと感じられた場合に容赦なく代演と入れ替える、そういう意味だと思いなさい」
一同、はいと答える。
ちなみに未來の代演に指名されている小柴は11年生のソプラノのパートリーダーである。2021年度に無事NHK合唱コンクールが開催されたとすれば、その夏の予選にてソプラノを牽引する実力者だ。
いうまでもなく、彼女も音大の声楽科志望である。
それでも香盤表に名前の多い12年生達は、ざわざわとさざめいている。
「上演時間1時間、か。定演で再演したら前半まるっと使う感じか」
「定演があればの話だな」
「神様仏様ワクチン様ってか」
12年生の輪の中からそんな声が漏れる。
「ねえねえ、普通どのくらいなの?」
「どっちの普通よ」
「演劇部は去年の文化祭、小一時間はあったかな」
「オペラの蝶々夫人は、2時間以上」
声楽家志望の未來がそう応えた。
「詳しいな。やっぱり見たことあるのか」
「あるどころか、CDも持ってる。っていうか、本気で日本人で海外で活躍できるオペラ歌手狙ったら蝶々夫人かトゥーランドットくらいしか現実的な役がない」
「トゥーランドットって?」
「プッチーニの、中国が舞台のオペラ」
「くわしー」
「大坪ガチで声楽家志望だもんな」
「芸大だっけ?」
「迷ってる。一応私大の声楽で総合選抜あるとこは出願するけど、芸大も受ける」
「二校狙いって、大丈夫なのか」
「両方落ちたら浪人して芸大狙う」
「大坪ちゃん、目がマジすぎて怖いんだけど」
「んふー、マジだもの。笑い事じゃないから」
「しかし、ダンス部が拒否るのは意外だったなー」
「いやー、しかたないんすよ」
すぐ後ろからソプラノでダンス部兼部の11年生、堤が囁くように割って入る。
「ああ、あんた兼部だっけ」
「あっちはあっちで声を出さなきゃなんとかなるから、実際のところそこまで支障ないんス。今年もコンテスト予選がビデオ審査になったくらいで。だから、みんな例年通りの感覚で居ます」
「あんたも踊るの?」
「一応、バックグループには名前置いてるけど、こっちが忙しくなるならあっちは抜けさせてもらうつもりで」
「ふーん、あんたはそれでいいの?」
「ええ、あーしミュージカル志望っしょ。演劇部側で人が足りないなら今回は体貸そうかなって」
「それ柾目にいいなよー。彼、演劇部と兼部だから繋いでくれるよ?」
「もっと近くに座ってたら話してるんすけどねー」
りょうは11年の男声パートのグループの中ほどに座っている。
11年のテノールからソリスト候補に抜擢されているのは、りょうと11年のテノールパートリーダー兼副部長の形山のみである。
りょうを含めて、11年生のテノールは片手で数えて余るほど居る。
柾目りょうは年度末時点では新11年のテノール・パートリーダー候補だった。
幼少期から中学までピアノを習っていた事から音楽への素養がある。
また入部時期の早さや発声の良さなどから、翌年も新10年生を牽引できると見込まれたのだ。
……だが、パートリーダーは代々音楽系進路志望者が担ってきたという伝統があると知り、りょうは辞退した。
彼の志望進路に音楽家の道はないからだ。家族の影響もあって、社会福祉方面で著名な大学をと考えている。
「それよりどうやって上演する気なん? 新入生向けに配信した時と一緒?」
これに大坪未來は軽く頭をかかえるように顔を隠した。マスクの中では嫌悪をこらえて唇を噛んでいた。
彼女は先日の通院から、畑中と別れる事を考えるようになっていた。
そもそもこれから一層入試の準備が忙しくなる。
夏までは部活、予備校、そして声楽科受験のためのピアノと声楽のレッスンがある。
当然のこととして、彼と会う頻度は減るだろう。そしてそうなれば一緒にいる間の接触する密度は濃くなる。
――具体的にいってしまえば、デートのたびにセックスを求められるだろう。それに応じるのが、少し怖いのだ。
処方薬の緊急避妊薬ノルレボも高校生の小遣いとしては安いものではない。しかもセックスから72時間以内の服用という時間制限がある。
その上、彼女の体質に合っていないようで、毎度飲んでから二日間は吐き気が続く。
その間は歌の練習もまともにできない。
前回と同様となれば、部として映像処理のできる畑中の協力を求めることになる。――つまり、彼の住まいに出入りすることになる。
「……それはそれで、考えるんじゃない? まだ時間はあるし」
未來は胸に渦巻く様々な不快な感情を吹き払うように、やや強い調子でぼやいた。
これが顧問の耳に届いたようで、彼は板書する手を止めた。
そして振り向き、一同を見渡す。
「そう、時間はある。だが文化祭での発表を考えた場合でも、限られた時間だ。練習は来週からはじめる。香盤表にある曲はいずれも、動画サイトを探せばプロの歌唱動画もある。あまり勧められないが、蝶々夫人本編も映像化されたものがアップロードされてる。音取りの補助として、各自の判断で、それらも活用して欲しい」
11年生から挙手が上がる。
「間宮せんせー、プリントに名前がない子らはどうしたらー」
「香盤表に名前がないものはコーラスワークの担当だ。役がないことに不満があるものは今日の放課後ここに来い。OBと私のジャッジでオーディションをやる。曲は『Caro mio ben』だ。ここに名前があるものもないものも、来週までにそれぞれ用の楽譜を用意する。来週、音取りから練習を開始する」
「わかりましたー」
「今は以上だ。そろそろ午後の授業が始まる。解散」
生徒たちはぞろぞろと立ち上がり、椅子を戻してそれぞれの教室へと帰った。
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