ようやく、届いたね。
「……晴れないな」
そんな小さな呟きは、誰にも届かず灰色の空に消える。玲奈はそれが少し寂しくて、疲れたように息を吐く。
玲奈が目を覚ましてから、2ヶ月。時間はあっという間に、過ぎ去っていた。検査。リハビリ。補習。そんな今までにないくらい慌ただしい日々のせいで、玲奈は少し疲れていた。
けれどそんな慌ただしい日々にも、ようやくひと段落ついた。検査やリハビリも終わり、長かった補習も今日でようやく終わりを告げた。
「……ふぅ」
だから玲奈はゆっくりと歩きながら、寂しさを誤魔化すように思い出す。
……未鏡 十夜という、自分の恋人だったという男のことを。
彼は何かを確かめるように、いきなり部室にやって来た。そしてとても綺麗な目で、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
どこか、浮世離れした雰囲気。気怠げに見えるけど、優しさを感じさせる表情。そして何より、とても澄んだ綺麗な瞳。……正直に言って、かっこいい人だなと玲奈は思った。
……でもそれで好きになるかと問われれば、玲奈は首を横に振るだろう。
「……そもそもあの人は、私になんて興味なさそうだった」
だから玲奈は、自分から十夜に会いに行くことはしなかった。……そもそも、冷血吸血鬼なんて噂されている自分が会いに行っても、迷惑なだけだ。
だから玲奈は、今でも思っている。彼に会いに行かないことが、正しい選択だと。もし仮に本当に恋人だったとしても、今の自分にはもう関係ないと。
「はぁ」
……でも本音を言うと、少しだけ胸が痛んだ。最近はよく、そんな痛みを感じる。昔は感じなかった筈の孤独が、チクリと胸に突き刺さる。
「……考えても、仕方ない」
玲奈はそう呟いて、歩くペースを上げる。するともうすっかり冷たくなった風が頬を撫でて、玲奈はマフラーを引き上げる。
もうすぐ、冬が来る。そして冬が明ければ、玲奈は高校を卒業してしまう。玲奈は元から勉強ができる方だから、受験は特に問題ではない。……だから懸念があるとすれば、それは……。
高校を卒業すれば、もう十夜に会えないということだけだ。
「バカみたい」
つまらない感傷を断ち切るようにそう吐き捨て、少し乱暴に家の扉を開ける。最近は偶に帰ってくるようになった両親も、今日はいない。
だから玲奈は薄暗い闇から逃げるように、早足に自室に向かう。そしてそのまま自室に入って、いつものように鞄を机に置く。……いや、置こうとして、気がつく。
「……これ、姉さんが書いた……」
机の上に、1冊の本が置かれていた。それは部室に置いてある筈の、姉の美咲が書いた真っ白な本。それがどうしてか、自室の机に置かれている。
「持って帰ってたかな……?」
玲奈はそんな不思議な事態に首を傾げながら、ほとんど無意識にその本のページを捲る。
そこに書かれているのは、2人の吸血鬼の悲しい物語だ。
玲奈は、本が好きだ。……でも、悲しい話は苦手だった。悲しい話を見ると、どうしても姉のことを思い出してしまうから。
だから玲奈はもう何年も、その本を読んでいなかった。
「これ、ついこの間も……」
でもどうしてか、既視感を覚える。読めば読むほど、思ってしまう。ついこの間も、こんな話を読んだ気がすると。惹かれあって、すれ違って、それでも互いを想い合う。そんなことが、つい最近もあった筈だ。
「……ダメ。思い出せない」
けどあと一歩、その何かに手が届かない。心の中に靄がかかったように、どうしても思い出すことができない。
「…………」
しかし……いや、だからこそ、玲奈はその答えを探すように、続くページを捲る。時間も忘れて、周りの音が聴こえなくなるくらい、凄い集中力でただ本を読み耽る。
……けれど結局、玲奈は何も見つけることができなかった。
「……きっと、気のせいなんでしょう」
この胸の痛みも。何か思い出しそうだっていう、この感覚も。全部全部、気のせいなんだ。
玲奈はそう自分に言い聞かせて、本を閉じる。
「……え?」
けれどそこで、玲奈はようやく気がついた。真っ白だった本の表紙に、とある文字が書き足されていることに。
誰かが、言った。この本には、紫浜 玲奈の罪が隠されていると。
ちとせは一度読んだだけで、それに気がついた。けど玲奈はずっと、そのことに気がつけなかった。美咲がこの本に、どんな想いを込めたのか。何を願って、この本を書いたのか。玲奈は当事者だからこそ、今までそれに気がつけなかった。
それが、紫浜 玲奈の罪。
「そういうことだったんですね、姉さん」
けれど今、ようやくそのことに気がついた。
長いあいだ届かなかった、過去からの手紙。それがようやく、玲奈の元に届いた。美咲はどうして、こんなに悲しい物語を書いたのか。美咲は玲奈に、何を伝えたかったのか。
「ほんとバカだ、私」
ずっと膝を抱えて後悔ばかりしてきた玲奈は、十夜に手を引かれて歩き出した。
けどもう、その手は離れてしまった。それが2人が生きる為の代償で、だからもう2度と十夜が手を差し出してくれることはない。
でも玲奈は、笑った。
「なら今度は私から、手を取ればいい」
そう呟いて、真っ白な本を机に置く。するとちょうど、雲の切れ間から差し込んだ日の光が、その本のタイトルを照らし出す。
この真っ白な本には、同じく真っ白な文字で隠すようにタイトルが書かれていた。
『吸血鬼のあなたへ』というタイトルが。
でももう、悲しい吸血鬼はどこにもいない。だから今はそのタイトルの上に、見慣れた文字でこう書き足されていた。
『大好きなあなたへ』
だから玲奈は、走り出す。意味も理由も分からないけど、走らずにはいられなかった。『大好きなあなたへ』たったそれだけの言葉で、玲奈の心に広がっていた靄が消え去る。
──がんばれ、玲奈ちゃん。負けるな!
大好きな姉の、そんな声が聞こえた気がした。だから玲奈は、走る。ずっとずっと届かなかった大好きな姉からの想いが、この胸を温かくしてくれるから。
「待っててください。すぐに、行きますから」
玲奈は、ただ走る。
茜色に染まった、屋上へ。
「行ってらっしゃい、玲奈ちゃん」
誰もいなくなった静かな部屋には、懐かしい香水の香りが微かに漂っていた。
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