愛してます。
茜色の夕焼けが、2人の頬を薄く染める。屋上に吹き荒ぶ風は夏のものとは思えないほど冷たくて、2人は同時に息を吐く。
「十夜くん。私、ようやく分かったんです。本物の吸血鬼を、人に戻す方法が」
その言葉を聞いた瞬間、十夜の瞳から色が抜ける。その姿はまるで、温かだった人が一瞬で冷たい人形に変わったようで、玲奈の胸がズキリと傷む。
「俺の血を、吸うつもりなんですか?」
その十夜の言葉は、氷の刃のように鋭く冷たい。けれど玲奈は負けじと、言葉を返す。
「どうしてそう、思うんですか?」
「昨日、ちとせが俺の血を吸おうとしたんですよ。今の先輩と、同じような目で」
「……吸おうとしたということは、彼女は……」
「はい。あいつは俺の血を、吸えませんでした。この数日で先輩たちが何を知って、何を準備してきたのかなんて俺には分かりません。……でもあいつ、泣いてたんですよ。見たことないくらい悲しそうな顔で、ごめんって……。だからきっと、俺の血を吸うには命よりも重い代償が必要になる。そうでしょ?」
十夜はずっと被っていたキャスケット帽を脱いで、それを無造作に地面に投げ捨てる。帽子は風に流れて、屋上を囲むように作られた背の高いフェンスに当たる。
「だから十夜くんが、私の血を吸う。そう言いたいんですか?」
「そうです。俺にはもう、それくらいしかできないんですよ」
「でも……約束したじゃないですか。ついさっき、神坂 黒音さんと……。なのに十夜くんは、そうやって簡単に自分の命を諦めるんですか? 彼女がどんな想いで、貴方に抱きついていたのか。その気持ちが分からない、十夜くんじゃないでしょ?」
玲奈は鋭い瞳で、十夜を睨む。けれど十夜の瞳は、揺るがない。
「……分からないんですよ、もう。黒音が何に怒って、何に泣いていたのかなんて、俺にはもう分からない」
「嘘です。私の知ってる十夜くんは、例え心が凍っても──」
「俺は昨日、ちとせの血を吸いました。だからもう、居ないんですよ。先輩が好きだった、未鏡 十夜なんて」
玲奈は驚きに、目を見開く。冷たい風が、また2人の頬を撫でる。
「だから俺はもう、長くは保たない。……例えもう少し生きられたとしても、人を愛する心なんてもうありはしない。今の俺は、過去の未鏡 十夜を真似てるだけの、ただの人形なんですよ。……だからもう、いいんです。こんな奴の為に、先輩が傷つく必要はありません」
「馬鹿なこと、言わないでください! 貴方はちゃんと、十夜くんです! 貴方のことを誰より好きな私が言うんですから、間違いありません!」
玲奈の叫びを聞いて、十夜は自嘲するような笑みを浮かべる。
「……先輩がそう言うなら、そうなのかもしれません。自分じゃもう分からないけど、俺はまだ未鏡 十夜なのかもしれない。……でも、先輩。そんな未鏡 十夜も、もう消えるんです。……そもそも俺は、もう真っ当には生きられない」
十夜の透き通るような瞳が、玲奈を見る。……その瞳を見て、玲奈は気がつく。透明で、人間離れしていて、とても冷たいその瞳は、長い眠りについてしまった姉の美咲にそっくりだと。
「実はこうやって先輩と話してるだけでも、辛いんです。頭が痛くて、眠くて眠くて、仕方ない。それに……こうやって肌を隠してないと、日光が痛いんですよ」
「……それでも私は、貴方に生きて欲しいんです。痛みや苦しみは、私も一緒に背負いますから……」
「そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいです。でも俺は、真っ当に生きられる間に死ぬべきなんですよ。そうじゃないと、きっと沢山の人を傷つけることになる」
──だから俺は、先輩の血を吸います。
十夜はそう重く呟いて、玲奈の方に一歩踏み出す。
「…………」
けれど玲奈は、逃げることも立ち向かうこともせず、ただ真っ直ぐに十夜を見つめる。
「十夜くん。最後に1つ、聞かせてください」
「……なんですか?」
「十夜くんは、後悔してますか?」
「…………後悔、ですか」
玲奈の問いは漠然とし過ぎていて、十夜は答えを返せない。けれど玲奈はそんな十夜を無視して、自分の想いを口にする。
「……私は今日のデートまで、ずっと悩んでいたんです。私と十夜くんは、出会わなければよかったのかって……」
玲奈は視線を遠くに向けて、目を細める。風がゆらゆらと、玲奈の髪を揺らす。
「私は十夜くんと出会わなければ、ずっと1人のままでした。きっとどれだけ長く生きても、私はずっと1人のまま、姉さんのことを……後悔し続けたんだと思います」
玲奈はそこで、十夜の方に視線を向ける。だから今度は十夜が、自分の想いを口にする。
「……俺が先輩に出会わなかったから、きっと誰かを好きになるって感情を、理解できなかったと思います。俺のそばには……ちとせが居てくれたけど、でもきっと俺の心はずっと冷たいままだった……」
言葉にしてみると、互いが互いに救われていた。だから玲奈と十夜は、ここまで強く惹かれて合うのだろう。
……でもじゃあどうして玲奈は、『後悔してますか?』なんて聞いたのか。
その疑問の答えを、玲奈はゆっくりと言葉に変える。
「何も知らないままなら、傷つかずに済みます。愛を知らない人が、愛に傷つくことはありません。人の温かさを知らない人が、孤独の冷たさに震えることもないんです。……でも私たちは、知ってしまった」
知らなければ、失うことなんてなかった。出会わなければ、こんなに胸が痛むことなんてなかった。
……そう少しも後悔しないほど、玲奈は強い人間ではなかった。
だから玲奈は、もう一度同じ疑問を口にする。
「十夜くんは、後悔してますか?」
「してませんよ」
玲奈の問いの真意を理解した十夜は、一切言い淀むことなく、当たり前のようにそう答えを返した。
「……どうしてそんな風に、言い切れるんですか?」
「今の俺には、後悔なんて心の機微はよく分かりません。……ただ、後悔っていうのは胸が痛むものでしょ? 俺は……未鏡 十夜は、貴女と出会ってから一度も胸が痛んだことはないんです。……だって俺は、そんな暇がないくらいずっと走ってきて、何よりずっと……貴女に恋をしていたから」
……その言葉は、真実ではなかった。十夜は玲奈と出会ってからも、自分の至らなさを何度も何度も後悔してきた。しかしそれでも、彼はとびきりの笑みを浮かべてそう言った。
だって、十夜は今でもまだ……。
「────」
その十夜の笑顔を見て、玲奈は思い出す。姉が車に、轢かれてしまった時のことを。思えばあの時の美咲もまた、今の十夜と同じように……とても晴れやかな笑みを浮かべていた。
「……そっか」
その気持ちを、玲奈はようやく理解できた。
痛くて、辛くて、悲しくて。それでも彼らが笑っていられるのは、彼らが誰より優しくて、そして何より自分のことを……愛してくれているからなんだと。
「……馬鹿ですね、十夜くんは。何が未鏡 十夜は、もう居ないですか。ちゃんとここに、居るじゃないですか。優しくて、温かくて、いつだって真っ直ぐな貴方は……ちゃんとここに居る」
玲奈はそこで、十夜を抱きしめる。優しく、慈しむように、大好きな人をただ抱きしめる。……十夜の身体は凍えるくらい冷たいけれど、それでも玲奈には分かる。
この胸の奥にはちゃんと、温かな心が残っていると。
だから玲奈は、決めた。
──どんなことをしても、この愛しい人を手放さないと。
「十夜くん。愛してます」
何度も聞いた筈のその玲奈の言葉に、十夜は何故か言い知れない痛みを感じる。
「俺も先輩が、大好きです」
けれど十夜はそんな痛みを無視して、玲奈が何かする前に真っ白な首筋に噛みついた。
そして一切迷うことなく、その血を吸う。
「────」
玲奈の中に残っていた冷たい呪いが、ゆっくりと抜けていく。それと同時に玲奈の意識が、ふらふらと霞む。
けれど玲奈は、つい先程の十夜と同じような笑みを浮かべて、
そして、
「大丈夫です。私は貴方を、1人にしません」
そして玲奈は薄れゆく意識の中、最後の力で……
十夜の首筋に噛みついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます