とても、幸せです。



 紫浜しのはま 玲奈れな未鏡みかがみ 十夜とうやは、ただゆっくりと街を歩いていた。



 昼を過ぎても太陽は全く休む気配がなくて、降り注ぐ日差しは一向に弱まらない。だから街を歩く人々の顔も、どこか辟易としていた。


「十夜くん!」


 けれど玲奈は、そんな暑さなんてものともせず、十夜の手を握る。十夜の手は、とても冷たくて心地いい。それに触れるだけで、ドキドキして幸せな気持ちになれる。


「…………」


 ……でも今は手を握るだけじゃ物足りなくて、玲奈はぎゅっと十夜の腕を抱きしめる。


 そして少しでも意識してもらえるように、大きい胸を押し当てる。そうしていると十夜が自分のものになったようで、玲奈の心臓は更にドキドキと高鳴る。


「先輩、ドキドキしてますね?」


 そんな玲奈の心音が聴こえたのか、十夜はからかうようそう告げる。


「こんなに近くに大好きな人が居るんですから、ドキドキするのは当然です」


「……そんな風に言われると、こっちもドキドキしますよ」


 十夜が手に、力を込める。するとそれだけで、玲奈の頬がだらしなく緩む。


「…………」


 ……そしてそこでふと、店先のガラスに反射した自分自身と目が合う。そこに映った紫浜 玲奈は、昔では考えられないくらい幸せそうな顔をしていた。


「……だらしない顔ですね」


 そんな自分の姿を見て、玲奈は呆れたように息を吐く。だってこんなだらしない顔で笑う紫浜 玲奈なんて、少し前からしたら考えられないことだから。



 十夜が会いに来る前の玲奈は、笑うことなんて滅多になかった。……いや、姉の美咲が死んでしまった時から、玲奈は一度も笑っていない。


 冷血吸血鬼という仮面を被って、全てを拒絶して、自分には幸福になる資格なんてないと、そう強く思い込んでいた。



 なのに今の自分は、男と腕を組んで甘えるような笑みを浮かべている。



 自分がこんな顔をすることなんて、絶対にないと玲奈は思っていた。……いやそれどころか、男と手を繋ぐことすら、あり得ないことだと思っていた。


 でも今は確かに、そんな自分が目の前にいる。周りの視線なんてお構いなしに腕を組んで、ただただ幸せそうに大好きな人に甘える。


「ふふっ」


 昔はそんな幸福を嫌悪していたのに、今はどうしてかそんな自分が誇らしかった。


「……どうかしたんですか? 先輩」


 足を止めて、ぼーっと店先のガラスを見つめている玲奈に、十夜がそう声をかける。


「いえ、何でもないです。ただ少し、幸せを噛み締めていただけですから」


「幸せを、噛み締めるですか。今日の先輩は、少し変わったことを言いますね? ……って、そうだ。先輩。少しだけ時間、いいですか?」


 玲奈が見つめていたガラスの向こうを見た十夜は、ニヤリと笑みを浮かべる。


「……別に、急いでないので構いませんが、どうかしたんですか?」


「いや、大したことじゃないんです。ただあの高台から、ずっと歩き詰めでしょ? だからここのカフェで、少し休みたいなと思って」


 玲奈はそこで、気がつく。自分がぼーっと見つめていた場所は、小さなカフェだったのだと。


「……十夜くんは、優しいですね」


「別に、優しさで言ってるわけじゃないですよ? ただ少し、歩き疲れただけです」


 十夜は玲奈の手を引いて、カフェに入る。そして奥の方の席に座って、カップル限定のパフェを頼む。


「こういうの、一度頼んでみたかったんです。……いいですよね?」


 そう言って悪戯げに笑う十夜が可愛くて、玲奈も同じように笑みを浮かべる。


「もちろんです。……でも十夜くんって、甘いものは苦手だって言ってませんでしたっけ?」


「あー。まあ、得意じゃないってだけで、嫌いなわけじゃないんですよ。……ただあんまり食べ過ぎると、頭が痛くなるだけで」


「そうなんですか。じゃあ、十夜くんが食べきれなかったら、私が食べてあげますね? 私こう見えて、甘いものには目がないので」


 そんな風に楽しく会話していると、カフェの店員が2人で食べるにしても大きめのパフェを、運んで来る。


「メニューの写真より、随分と大きいですね……。これはちょっと、きついかも」


「い、いえ。私に任せてください。きっとこれくらいなら、多分、大丈夫ですから……」


「別に無理する必要なんてないと思いますけど、先輩だけに無理はさせません。いざって時は、俺に頼ってください」


「分かりました。それじゃ……って、なんだか戦場みたいですね?」


 そこでまた、2人して笑う。そして食べる前に少し写真を撮ってから、どこから食べようかと作戦会議をする。


 そして、まずはやっぱり1番上のクリームからということになり、クリームをスプーンですくって、あーんと差し出し合う。


 クリームは蕩けるくらい甘くて、2人の肩から力が抜ける。


「美味しいですね? 先輩」


「はい。十夜くんがあーんしてくれたお陰で、10倍美味しいです」


「じゃあ俺は先輩のお陰で、100倍美味しかったです」


「……そういう言い方は、ずるいです。それじゃ何だか、私の気持ちが劣ってるみたいじゃないですか」


「実際、俺の方が愛は強いですよ? 俺は誰より何より、先輩が好きですから」


「それなら私だって……いえ。では私がお腹いっぱいになったら、十夜くんに食べてもらうことにします。……なんせ100倍美味しいらしいですから、それくらいできますよね?」


「……意地悪言わないでくださいよ、先輩」


 2人はまた笑い合って、ゆっくりと時間をかけてパフェを平らげる。そして、甘いものが苦手な十夜も、甘いものが大好きな玲奈も、『しばらくは甘いものは要らないかな』なんて思いながら、会計を済ませてカフェを出る。



 するとまだまだ強い日差しが肌を焼いて、玲奈は少しだけ歩くのを億劫に思ってしまう。



「行きましょうか? 先輩」



 けれど十夜がそう言って手を握ってくれるから、玲奈は笑顔で歩き出す。



「あ、十夜くん。こんな所に公園があったの、知ってました?」


 そしてしばらく歩き続けていると、大きめの自然公園を見つける。


「じゃあここでもちょっと、休んでいきましょうか?」


 そんな十夜の提案を玲奈が断るわけもなく、2人はその自然公園に足を踏み入れる。



 大きな池を囲うように作られた自然公園は、さっきの高台ほどではないが風が心地よく、2人は気持ちよさそうに伸びをする。


「あ、十夜くん。あそこの木陰のベンチに、座りましょう? ……あそこなら2人きりで、ゆっくりできると思います」


「そうですね。でもその前に、そこの自販機でジュースでも買いませんか? さっきのカフェは奢ってもらったので、ちょっとだけお返しさせてください」


「律儀ですね、十夜くんは。……じゃあここは、ご馳走になります」


 2人して同じジュース買って、人目につかない木陰のベンチに腰掛ける。


「……十夜くん」


 ジュースを飲んで一息ついたあと、玲奈は甘えるように十夜の肩に頭を乗せる。


「……誰も見てないですから、もっと近くに来てもいいですよ? 先輩」


 十夜もそんな玲奈を求めるように、玲奈の肩を引き寄せる。



 そして2人はそのまま、ゆっくりと唇を合わせる。



 いくら人目がないからと言っても、昼間の公園でそんなことをするのは、あまり褒められたことではない。でも玲奈も十夜も、今だけは自分の気持ちを抑えられなかった。


「もっともっと、十夜くんが欲しいです。……いいですよね?」


 玲奈は我慢できずに、深い深いキスで十夜の唇を貪る。十夜もそんな玲奈を愛おしそうに抱きしめて、2人は何度も何度もキスをする。


「……って。もうこんな時間か。すみません、先輩。ちょっと、やり過ぎました」


 ちらりと腕時計に視線を向けた十夜は、自省するようにそう言う。


「謝らないでください。そもそも私だって、貴方が欲しかったんですから」


「じゃあ、お互い様ですね」


 2人は強ばった身体から力を抜いて、ぼーっと大きな池を眺める。そんな時間が本当に幸福で、玲奈も十夜もしばらくその場から動くことができなかった。


「……十夜くん。そろそろ、行きましょうか?」


 でも、あまりゆっくりしているわけにもいかない。そう告げるかのように立ち上がった玲奈は、十夜に方に手を差し出す。


「そうですね。じゃあそろそろ、行きましょうか?」


 だから十夜も、その手をとって立ち上がる。



 そうしてまた、2人は歩き出す。



 ゆっくりとゆっくりと。バスに乗って、電車に乗って、また歩く。そして、日が暮れ始めた頃。2人はようやく、目的の場所にたどり着く。



「何だか凄く、懐かしい場所ですね」



 十夜はそう言って、何度も通い詰めたいつもの高校の屋上から、遠くの街並みを見下ろす。


「…………」


 玲奈はそんな十夜の姿を見つめながら、覚悟を決めるように大きく息を吐く。そして、まるで告白前の少女のように胸を高鳴らせながら、その言葉を口にした。



「十夜くん。私、ようやく分かったんです。本物の吸血鬼を、人に戻す方法が」



 さっきまでの幸せなデートの余韻を吹き飛ばすかのように、一際強い風が吹く。けれど玲奈も十夜も、ただ真っ直ぐに互いを見つめ続ける。



 そうしてここから、紫浜 玲奈の吸血鬼退治が始まった。


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