今度こそ。
* * *
覆い被さっていた影が、動く。
覚悟を決めたけれど、でも、こちらにその影が傾くことはなかった。
「ごめんね、立てる?」
先に立ち上がった茜が、腰を折って、わたしに手を差し出してくれる。
まだどこか苦しげに歪んだままの表情を、わたしはまばたきをしながら見つめた。
「飲まないの?」
「飲みたいよ、でも、まだ大丈夫」
「……そっか」
差し出された手のひらに、そっと自分の手を乗せる。
ほっと和らいだ表情に、彼が緊張していたのだと気づいた。
優しく引かれて、わたしは立ち上がる。
促されるままにソファに腰掛ければ、隣に茜も腰掛けた。
「怖いと思ったら、すぐに逃げてくれていいからね」
二人がけのソファ。
窮屈だろうに、彼は真ん中にスペースを空けるように、かなり向こう側に寄ってくれている。
「もっとこっち寄ってくれて大丈夫だよ」
「でも、俺は」
「さっきも言ったけど、慣れてるから、食欲をぶつけられるのも、痛いのも、苦しいのも」
「慣れないでよ」
茜が、眉を寄せて微笑む。
「慣れないで、そんなことに」
「……」
いくら茜の言葉でも、うなずくことはできなかった。
だって、慣れていないと。慣れていると思い込んでいないと、やっていけないから。
黙って俯けば、困ったような笑い声が小さく聞こえた。
「初めて会った夜のこと、覚えてる?」
「……うん」
「あのとき、どうしてタイミングよく助けられたか、知ってる?」
「知らないけど、見張ってたのかな、とは思った。薫は、勘が効きそうだから」
「そうだね。薫はそういったことへの察知がはやいから、親族中から期待されてたよ。狩人としての他の能力はそこまで高くはなかったけれども、薫は鼻が効くから期待できるって。本人は、たぶんそれに気づいてないんだけどね」
でも、それだけじゃないんだ、と茜が続ける。
「入学式の日に舞白を見かけて、さ。薫に言ったんだ。その……」
茜は一度言いにくそうに言葉を切った。
顔を上げれば、一瞬目が合って、でもすぐに茜は視線を降ろしてしまう。
「あの子、美味しそうだから、気をつけたほうがいいかもって」
「……」
息が、詰まったかと思った。
殴られたような、そんな衝撃。
いっそ、殴られたほうがまだマシだったかもしれない。
餌として見られたこともあるだろうな、とは思っていたし、今だって思われているかもしれない、と覚悟していた。
理解だってしていたはずだった。
それなのに、改めて本人の口から言われると、裏切られたような気持ちになってしまうのは、なんだか不思議だ。
薫だったら、狩人だったら。
せめて、まだ噛まれたことのない人間だったのなら。
そう思われることは、なかったんだろうか。
「舞白」
「……ごめん、改めて言われたら、思ったよりもびっくりしちゃって。続けてくれて大丈夫だよ」
無理矢理笑えば、ごめん、と茜に謝られる。
「でも、まだしばらくこのまま一緒にいるのなら、言っておかないといけないと思ったから」
「うん」
「最初こそ、まだ吸血鬼として覚醒しきっていない俺でもそう感じるんだから守らなくちゃって、そう思ってた。でも、今はそれだけじゃなくて」
おずおずといった様子で茜がこちらを向く。
茜はわたしよりも背が高いから滅多に見られない、上目遣いで。
「舞白の血を、吸い尽くしたいと思うくらい、欲しているし、それと同じくらい、できるだけ長い間、舞白と一緒にいたいと、思っている」
目が、伏せられる。
長いまつげが、照明に照らされて、青白い頬に影を作る。
それを、両手が覆ってしまう。
隙間から見える薄い唇が、小さく息を吐くように動いた。
好きなんだ。
絞り出すような、うめき声のような、吐息交じりの言葉。
わたしは立ち上がった。
彼の前まで歩くと、膝をつく。
手を伸ばして、わたしはそっと、その冷たい手に、自分の手を重ねた。
「わたしもね、好きだよ。でも、だからこそ、わたしたちは一緒にいたらいけない」
声が震えないように、お腹に力を込める。
茜がどんなに切実な思いを抱いていたとしても、わたしは、その思いに答えることも、クロくんを裏切ることも出来ない。
茜のことも、薫のことも、失いたくはないから。
「薫が戻ってきたら、今度こそちゃんと、お別れしよう?」
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