第81話


「ご、ごめんなさい。私も、ちょっと……」


 長井さんも父さんに続いて、この玄関から去っていった。父さんとは反対方向の療心学園の中の方に、慌てたように走っていく。


 一体、どうしたのだろうか。まるちゃんの苗字を聞いた時から、様子は変だったが……。


「長井さん、あんなに慌ててどうしたのかな?」


「さ、さあ……?まるちゃんの苗字に、驚いてたみたいだけど……」


 正直、それ以外に理由が見つからない。だが、なぜまるちゃんの苗字を聞いて驚いたのか。これが分からないのだ。


「……そういえば、美保はまるちゃんの苗字知らなかったのか?」


 俺は気になったことを、美保に尋ねてみた。美保は長井さんと違って、まるちゃんから苗字を聞いても驚いていなかったからだ。


「うん。私は知らなかったよ。まるちゃんとしか紹介されなかったし。でも、長井さんは知ってるはずだよ?」


「え?ほ、本当か?」


「う、うん……。療心学園の方には、名前が伝えられてるはずだし……」


 ならますますなぜ長井さんは、まるちゃんの苗字を聞いて驚いたのだろうか。そしてそれなら、警察である父さんも戸籍を調べるだけで済むはずだ。


 ……駄目だ。疑問が増えていくばかりで、何の答えも出てこない。情報が足りないから、当然のことなのだが。


「うーん、分かんねえな……」


「そう、だね。私たち、まるちゃんの過去の事、全然知らないし……」


 美保がそう言ったので、俺と美保がまるちゃんの方に視線を向けると、まるちゃんは首を傾げていた。だが、美保にも見られていると気付いたまるちゃんは、笑顔を浮かべて美保に語りかける。


「ママ~!今度は、ママに抱っこしてほしい!」


 一度俺が抱っこを止めた時から、また抱っこをしてほしかったのだろうか。まるちゃんが笑顔でそう言うと、美保もまた笑顔を浮かべて受け入れる。


「いいよ。ほら、おいで?」


「わーい!抱っこ抱っこ~!」


 まるちゃんは両手を広げた美保に突っ込んで行き、無事に美保に抱っこされた。そんな2人の笑顔を見ていた俺にも、笑みがこぼれる。


 これが、尊いという感情なのだろう。美保とまるちゃんがいるこの光景から、目を話すことができない。


「信護君?信護君!」


「……あっ!ご、ごめん美保。何だ?」


 俺は美保とまるちゃんに見入っていて、美保の呼びかけにすぐに反応することができなかった。美保はそんな俺を疑問に思いながらも、俺に語りかけてくる。


「う、うん。信護君は私の部屋に向かって。心南ちゃんが待ってるから」


「え?あ、ああ。分かった。美保は?」


「私はまるちゃんと1階で待ってるよ。私が話せることは全部、話したから。話が終わったら下りてきて」


「お、おう。じゃあ……」


 美保にそう言われた俺は、その通りにして美保の部屋へと向かう。美保はまるちゃんを抱っこしたまま、俺から離れていった。


 俺はそんな美保とまるちゃんを横目で追ってしまいながら、階段へと歩いて行く。そして美保とまるちゃんが見えなくなってから、階段を上り始めた。

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