第36話 濡れ髪と浴衣
「あぁぁぁ」
全身を覆う微振動に、背中を揉み上げる柔らかい感触。
まさに疲れた体には最高のご褒美だ。
目を閉じれば、まるで至福の時間にさえ感じる。今日の疲れなんて一気に吹っ飛ぶ。
そんな俺がどこに居るのかと言うと、至って簡単。宮原旅館の大浴場前にある、こじんまりとしたスペースだ。
飲み物やその他諸々の自販機が立ち並ぶ中、存在感を放つマッサージ機。
全身をもみほぐす事が可能な結構新しめのモノで、更には1回50円とリーズナブル。
お風呂上りのそれは黒前高校で蓄積した疲労を昇華してくれる。
ふぅ……気持ち良いなぁ。
てか結局あの後、何試合分をこなしたのか覚えてないよ。5試合からは数えるのを止めたし。流石に疲れたなぁ……むしろあんな練習毎日やってんの?
けど……終わってみればそこまで時間経ってなかったよな。メニューもちょっと少なかったし、何より練習間の時間が短い。
そして印象的だったのは部員全員の集中力。部活前と部活中の性格変わり過ぎだろ?
けどおかげで分かった気がする。黒前高校が強豪になった理由。
練習メニュー自体は短く、その代わり圧倒的に集中する。自然と密度と練度が形成され、限られた時間で可能な限りの力が身に付く。
後は徹底的な実戦形式の練習で、体力はもちろん戦術を理解する。どおりでインハイの時も終盤まで足が止まってなかったはずだ。
まぁ朝練と居残り練習が禁止なのは驚いたけどさ? 個人でやると集中出来ないから、変にフォームとか崩れるってなぁ……なんか自分の心に突き刺さってんですけど?
はぁ、どうすっか……って今はとりあえず、疲れを癒しましょう。
「なぁにお爺ちゃんみたいな声出してんのっ?」
そんな時だった、耳に入る女の人の声。軽く目を瞑っているけど、それが誰なのかは大体分かる。声は似てても話し方が違う。
おっ? どうかしたのか?
「ん? 悪かったな、爺さんみたいな声で」
凜桜。
目を開き、視線を向けるとそこには確かに凜桜がいた。マッサージ機の横から俺を覗き込むように。しかしながら、どうやら風呂上りなんだろう。ショートカットとはいえその濡れた髪の毛は、いつにも増して色っぽく見える。しかもそれだけじゃない。
っ!! 浴衣……だと?
「ふふっ。そんなに気持ち良いなら私体験しようかな? お隣失礼っ」
それは宮原旅館に置かれている浴衣。花が描かれたピンクのそれは確かに可愛い。そしてそれを着た凜桜は言うまでもなく可愛い。滅多に見れない浴衣姿ともあって、それは格別だった。
「あれ? 50円? あちゃー小銭が……ねぇ湯真? 持ってないかなっ」
って、あぶねぇ。普通に見惚れてたわ。
「ん? あっ、あぁ……っと、はいよ」
「ありがとうっ。後でちゃんと返すからねっ」
一応バレてはないな? うん。良かった。にしても、やっぱいきなり現れての浴衣姿は卑怯だって。
「はあぁぁぁぁぁ」
「おいっ、人の事言えないだろ。婆ちゃんみたいな声出しやがって」
「いやぁ、出ちゃうもんだね? 申し訳ないっ!」
「だろ?」
「ははっ」
「ふっ」
それから俺達は、マッサージ機に揺られながら他愛もない話で盛り上がった。
「黒前高校って面白いとこだったねぇ」
「あぁ、色々とぶっ飛んでた」
「分かる分かる。監督さんめちゃくちゃ面白かったねぇ。まさか柔軟運動を教える事になるとは思いもしなかったよ」
「そういえば教えてたな? 時々悲鳴みたいなの聞こえて来たけど大丈夫だったのか?」
「うんうん。皆一生懸命でさっ! 私も恋桜も張り切っちゃったよ」
張り切った……? なんだろう、一瞬寒気がしたけど気のせいだよな?
「そっ、そっか。良かった」
「うんっ」
その内容は、今日の黒前高校見学の話が殆どだった。
まぁ俺にとっても、凜桜にとっても良い意味で記憶に残る1日だったに違いない。
「そういえば結構ハードな練習だったねぇ?」
「まぁなー」
「鳳瞭とどっちがキツい?」
「んー、どうだろう? 瞬間的な疲れは黒前かもしれない」
「おっ! じゃあインハイ決勝の相手であるライバル校。その強さの秘訣発見だね?」
「ははっ。確かに強豪たる理由が分かったよ。でも、全体を通せば鳳瞭の方がキツイかも」
「全体?」
「あぁ、確かに体力面では黒前の練習がキツい。でも鳳瞭だって負けてはない。しかも個人的にだけどさ? 鳳瞭の練習では精神的にもキツいんだ」
「精神的にかぁ」
「いつ、どんな不甲斐ないプレーでスタメンを落とされるか……ベンチ外にされるか分からない。けど全力でやらなければ問答無用。それを両立させるのは……結構くるんだよね?」
確かにその通りだ。けどそれはどこの高校にも当てはまる。黒前高校の部員だって部活中にはそう思ってるはず。
俺は参加って立場だったから、そのプレッシャーがなかった。
「うわぁ……やっぱりなかなかの場所で戦ってるんだねっ。湯真も海真も」
「まっ、これはどこの高校にも当てはまるって。結局の所……自分の高校の練習が一番キツい」
「なるほどねっ!」
2人で笑いながら……話をする。
昔から近くに居て、そんなの当たり前な様な気がしたけど……思えばそんな経験は殆どなかった気がする。いつでも4人。それが当たり前だったから。
だからこそ、こうして隣で話せる時間が、楽しくて仕方がない。嬉しくて仕方がない。
出来る事なら、このマッサージ機が永遠に止まらなければ……そう思ってしまう。ただ、現実は非情だ。
気が付けば俺のマッサージ機は静まり返り、そして……
「んー! 残念だけど私のも終わっちゃった」
凜桜のマッサージ機も時間となる。
こうなると、2人でここに居る理由も無くなってしまう。
「よっし、じゃあ部屋行くか」
「うんっ! そうだねっ」
徐に立ち上がると、想像以上に体が軽くて驚く。まさかここまでとは……正直マッサージ機の力を舐めていた。
それはどうやら凜桜も同じ様で……
「うわっ、なんか足が浮いてる感じが……」
余りの変化に足がおぼつかない様だった。けど、その瞬間……疲れが取れたという感覚が仇となる。
「あれ……」
勢いよく立った凜桜。だからこそ、その思わぬ足の軽さに慣れてない様だった。見た瞬間、バランスが取れていないのが分かる。
このままだと転ぶ!
この時ばかりは自分の反射神経を褒めてやりたい。俺の体は自然と動き出していたんだから。
「凜桜!」
「あっ……」
そしてそれは一瞬だった。
腹部辺りに感じる柔らかい感触。胸に感じる体温。そして鼻を通るシャンプーの良い匂い。
そして掌に感じる、浴衣の生地。
何とか転ぶのは阻止出来た。ただ、その状況を理解するのにそこまで時間は必要ない。
心臓が大きく波打つ。顔も熱くなる。お風呂に入ったばっかりなのに、変な汗が零れる。
やっ……やべぇ! とっさとは言えこの状況……思いっきり抱き締めてる?
近いってか密着? てかこの柔らかい感触は……ってバカ! とりあえず離れるのが先だろ? ゆっくり……
「だっ、大丈夫か?」
「ごっ、ごめん! 足が……」
「感覚……戻ったか?」
「うっ……うん! 大丈夫」
その言葉を聞くと、俺はゆっくりと……凜桜から離れて行く。
とりあえずは足の感覚も戻ったみたいで、その立ち姿はいつものモノのように感じる。
ただ……あんな事になったおかげで、妙な雰囲気が辺りを包み込む。
やっべぇ……俺としては最高だったけど、考えてみれば気まずっ! 何とも言えない空気なんだけど?
そもそも、凜桜的にはどうなんだよ? やっべ、やっちまったとか? よりによって湯真かよっ! とかって思ってないだろうな?
「湯真ごめんねっ! それにありがとう」
「あっ、全然良いよ」
「思いっきり体重預けちゃったけど、重くなかった?」
「いや? むしろ軽い位だ」
「ははっ、良かったぁ」
えっと……とりあえずは大丈夫そう……だな?
「じゃあ、改めてお部屋行こうか」
「だな」
うん。普通。
変な感じにはなってないな? 突然の事でびっくりしたけど、色々堪能出来たし……
結果オーライか!?
「ん? 湯真なんかニヤニヤしてない?」
「きっ、気のせいだろっ」
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